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琴音のこと

「……あの曲、僕、知ってます。」


震える声で航は言った。


「中学の時、音楽室で、

女の子が吹いてたんです。

誰も知らない、不思議な曲でした。」


それを聞いて驚いた宮原の手が、スマホを強く握りしめた。


そして、

小さな声で答えた。


「……その子は、琴音。

私の……娘です。」


「あなたはもしかして佐々木航君?」

—はい

「そう…会えてよかった…あなたが佐々木君」

「ありがとうね 琴音に優しくしてくれて。おかげで琴音はやりたいこと見つけられたのよ。私もあの子にたくさんのことしてあげられた」

そう言って宮原はハンカチで目を押さえていた。


「それで琴音は…」


航の問いに静かに、

宮原は語り始めた。


「私は、若い頃、音楽にすべてをかけたかった。悩みました。いろんな形があったけど私は不器用だったんだと思います。

そのために、琴音と夫を置いて、家を出ました。」


その声は、時折震えていた。


あなたのようなまだ若い人にこんなこと話してもいいのか分からないけど

と宮原は言って話を続けた。

航も宮原の話すことがあまりにもプライベートのことで、なぜそんな話にとさえ思えた


「でも……彼は私を責めなかった。

琴音を、愛して、育ててくれた。」


航は、息を呑んで聞いていた。


「私は償いのつもりであの子をできるだけ支えたつもりです。

彼から琴音のホルンのことを聞いて少しでも才能を大切にしてあげたくてレッスン受けさせるために都会の学校に入れたり、先生を紹介したり……

でも、あの子は……それから自分の力で、頑張ってた。あなたのことも琴音の父親から聞きました。琴音はあなたのこと友達だって…一緒に音楽した友達だと言ってたそうです」

---


宮原の声が途切れた。


そして、

押し殺したような嗚咽が、静かに部屋に響いた。


「──それなのに。」


宮原は顔を両手で覆った。


「──私が、あの子を……守れなかった。」


嗚咽が、こらえきれず漏れる。


「ごめんなさいね、こんな話…」



「そして、彼も……あの子の死を、自分のせいだと……ずっと……ずっと苦しんで……」


宮原はもう、言葉を紡ぐことができなかった。


航は、

ただ黙って座っていた。


琴音の死。

そして、その父親の死。


あまりに重すぎる現実。


自分が、

あの子を少しずつ心の片隅に追いやっていたことに、航は猛烈な自己嫌悪を感じた。

忘れていたわけではなかった。

ただいい思い出…漠然とした…

そんな感じになってしまっていた。


琴音は一緒に音楽した友達だと…

航は合奏練習の時琴音がみんなと一緒にいたあの時を思い出せていた。

それにそれにだ

違う違うと思った

おかげでなんかじゃない。


琴音にホルンを渡したのは僕だ…

それで琴音がホルンを…

それがなにと結びつくかはわかることだった。

人生に

もしも…

があるなら…



汗が滲む手を膝に押し当て、

航は必死に耐えた。


父親は琴音が転校するために転職までしていた。

宮原沙織も音楽を続けるために琴音と別れたが愛したいなかったわけではなかった。

ただ不器用なだけだった。

父親もそんな宮原を理解していた。

別々になっても家族として繋がっていたし、父親は宮原や琴音が音楽を続けるために支えていた。

だから宮原は彼を大切に思っていた。

それでも続けるために別々の道を歩くことを選んだ。

人にはいろんな選択がある。

ただ琴音の家族はそういうことだった。


そしてそういう家族にも支えられて琴音は毎日楽しくレッスンに通ってた。

あの日までは…


毎日ケースを担いでレッスンに通っていた。

ある日いつもの通りいつものレッスン帰り道。

彼女はいつもそこでヘッドホンをつけていたカッコいい男の子をみかていた。

自分もあんなふうにカッコいいことしてみたくて父親にヘッドホンを買ってもらった。

父親は危ないから歩く時はつけないようにいい聞かせていた。

あの日いつもの道でまたいつものヘッドホンをつけているカッコいい男の子を見かけた彼女はたまたまヘッドホンをつけてしまった。

楽しかった。

自分も母親のようにホルンが演奏できることが。

あまり母親との思い出はなかったけど。

それでも…

だから彼女は楽しく必死に練習していた。

ある意味恵まれていた…

のかもしれない。

無いものもあったけど…

音楽を続けるということでは人より恵まれていたのかもしれない。

彼女より持っているという人もいないほうが多いのかもしれない…

その時がくるまでは…


やがて、

宮原は顔を上げた。


「──あなたが、あの子の曲を覚えていてくれて、ありがとう。」


その声は、

かすれていたけれど、

確かな温かさを宿していた。


航は、

言葉にならない想いを、

胸いっぱいに感じていた。

控室を出た航にはもうそこから動く気力がなかった

動きたくなかった。

スタッフの人がなにかを言ってるのがわかった。

帰ろう…

そう思った

後輩たちもいるし…

帰りは遠かった…

疲れたな…

もう一度あの曲聴きたいとそう思った

琴音の演奏するあの曲を

ほんとならできたはずなのに…

頭の中でもう一度琴音の音を思い出そうした。

けれどどの音だったのかはもうわからなくて出てこなかった。

誰もが言葉を失っていた。宮原沙織のアンコール──

あの曲。あの旋律。どこかで聞いた、不思議な、でも優しい曲。

その演奏が終わったあと、舞台上で涙を拭う宮原の姿を見た時、航の心にひとつの名前が浮かんだ。


──琴音。


ホールの出口に向かう階段で、誰かが話しかけていたが、航の耳には届いていなかった。

反射的に「うん」とだけ答え、ぎこちなく笑って見せる。けれど、その表情はひどく引きつっていた。


「先輩、どうしたんですか?」


後輩の声がした。だが、航は答えず、黙って夜の街を歩き出した。



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