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孤独な音色──結城梨沙の場合



春、新学期。


教室の窓から吹き込む風はまだ冷たかったが、

校庭には、新しい季節の匂いが漂っていた。


結城梨沙は、静かに教室の後ろの席に座っていた。

誰とも目を合わせず、鞄から静かにノートを取り出す。


梨沙にとって、学校とはそういう場所だった。

必要最低限のことだけをこなし、

誰にも期待せず、誰にも踏み込まれない。


それが、

彼女が生き抜くために築いた、無言のルールだった。

---


やがて訪れた入学後の三者面談の日。

教室の一角で、担任と、梨沙と、その母親が並んで座った。


担任が入学資料の書類をめくりながら言った。


「特技や趣味なども、この時期に聞いておきたいんだすが。」


母親は、何のためらいもなく明るい声で答えた。


「うちの子、フルートが趣味なんですよ。小さい頃から独学で吹いてます!」


その瞬間、

梨沙の顔が、ぴくりと歪んだ。


舌打ちを飲み込み、代わりにぎゅっと唇を噛みしめた。


(まただ……。)


母親の軽率さ。

彼女の大事なものを、

簡単に、無邪気に、他人に晒してしまう無神経さ。


「へぇそうなんですね!すごいですね」

担任は、にこやかに言った。


梨沙は無表情で座っていたが、

胸の中は怒りと絶望でぐちゃぐちゃだった。


──これだから、誰にも期待できない。


数日後、放課後。


ホームルームが終わった教室で、

担任が何気なく口にした。


「結城さん、部活は吹奏楽部に入ったのか?」

梨沙は突然のことで無視してしまった


すると担任は


「せっかくフルートやってるなら吹部入ったらどうだ?まだ部活入れるぞ」


クラス中が一斉にざわめいた。


「え、フルートできるの?」

「すごいじゃん!」

「なんで吹部入らないの?」


興味と好奇心に満ちた視線が、梨沙に注がれた。


梨沙は無言で、机の端を指で押しながら耐えた。

内心、爆発しそうな怒りを、必死で押し殺した。


(──なんで。なんで、また。)


担任は、梨沙の答えも待たずに、あっさり教室を去った。

生徒たちの声だけが、梨沙を取り囲む。


その瞬間、

梨沙の脳裏に、小学校六年生の春の日が蘇った。


あの日。

天気は曇りだった。


「遠足は朝の判断で」と言われていたが、

梨沙は、最初から授業の用意しかしていなかった。


体が弱く、遠足には参加できないと知っていたから。


教室に入ると、みんなの顔が輝いていた。


「やったー!遠足やるって!」


歓声。

色とりどりのリュックサック。

お菓子の袋をぶらさげ、楽しそうにはしゃぐクラスメートたち。


梨沙は、静かに自分の席に座った。

教科書を、ただ開いた。


やがて、クラスは引率の先生に引き連れられて出発していった。


四階の教室の窓から、

梨沙は、楽しそうに歩く列を見下ろしていた。


そのとき、

道を歩く引率の先生が振り返りざま、大きな声で叫んだ。


「結城さん、窓、全部閉めて、鍵もかけといてねー!」


梨沙は小さな声で答えた。


「はい。」


(わかってるよ。だって、私しかいないんだから。)


一人、教室中の窓を閉め、

一つ一つ、鍵をかけていった。


外では、笑い声が風に流れていた。

---


しばらくして、

別の先生が偶然教室に入ってきた。


「あ……君、残ってたのか……。もう帰っていいよ。」

その教師のいかにもどうでもいいよと言わんばかりの投げやりな言い方を感じながら

梨沙は、教科書をカバンに詰め、

静かに教室を後にした。


誰もいない廊下。

誰も待っていない帰り道。


楽しい声だけが、遠ざかっていく。


梨沙は、

そのとき、心に固い鎧を纏った。


人に期待しても無駄…

期待しても…意味はない…

人はどうせ自分のことなんて…

だから一人でいるしかない。


そうして、彼女は他人になにも期待しないことを覚えた。

こんなことはずっと続いていた…

遠足には行けない…

体育の授業は見学…毎朝の掃除も…

掃除の終わる頃に登校…

子供は素直で残酷…

あちこちからいろんな声が聞こえてくるのを俯きながら一歩一歩階段を登る…

周りは賑やかに元気そうにあちこち走り回る…

そんなのを見ないようにしてひたすら階段を登る…

これが毎日…

苦しくて辛くて…

今からすぐ逃げ出したかった…

もう毎朝登校するだけで自分を否定されてる気がしてた…

自分だけ別の空間にいる感じ…

周りは別の世界…それを別の空間からみてる…

そんな世界…

助けてほしかった…

誰か一言でも…

マンガのように勇気のある男の子が出てきて…

なんてことも起こるわけもなく…

先生がなにかしてくれるわけもなく…

ただ一人だった…

そんなことが中学まで…

中学では露骨に先生にお荷物扱い…

自分がなんなのか…


よく夢をみた。

朝起きると隣のベッドが空だった。

昨日までいた同じ病気の子供のベッドが。

深夜、騒がしくて目が覚めた。 

カーテンがひかれる。

小声で話す医者や看護師たち。

それでも緊迫してるのはわかった。

怖かった…

ただ…

目は覚めてたが布団を深く被って寝たふりしてた。

布団の中で必死にこらえた。

死がそこにあった。

それが自分にもわかった。

体は硬直していた。

それが朝まで。

明るくなった部屋の隣のベッドは誰もいなかったかのようになっていた。

なにも聞かなかった…

誰もなにも言わない…


そんな夢を時々みた…

起きると隣を見た。

ベッドがあるかを確かめるために。

そこで笑っていたあの子は…


そして今。


高校一年生の梨沙は、

また一人、教室の雑音の中に取り残されていた。


俯いたその目に、何の光もなかった。



数日後。

航は、吹奏楽部の後輩たちの雑談を耳にした。


「ねえ、聞いた? あの一年の結城さん、フルート超うまいらしいよ!それも独学だって」

「でも部活断られたって……超冷たかったらしい……。」


航は、耳を傾けた。

すごいな独学か…

なんでかな…

そして、心のどこかが、妙にざわめいた。

彼女とは会ったこともない一言も話していない。

だけど──何かが、引っかかった。



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