第20話 “パンは焼けて、今日も平和ですの”──エピローグ
朝の陽が差し込む台所。
オーブンの中では、小麦の香りがゆっくりと広がっています。
世界がどれだけ変わっても、この匂いだけは変わりません。
――今日も、パンが焼けていますわ。
「お嬢様、今日のご予定ですが……」
マリアが書類を手に入ってきました。
「午前は王都との通信会議、午後は“世界平和記念式典”への挨拶、
それと夕方から“友情ブリオッシュ講座”の開講で――」
「まぁ。ずいぶんと忙しい平和ですわね」
「ええ、“平和”はお嬢様が想像する以上に事務仕事が多いようです」
「それは焼きすぎてはいけませんわねぇ」
マリアが笑いました。
パンの皮が“ぱち、ぱち”と音を立てて割れます。
窓を開けると、外には人の波。
王都からの使節、農家の子どもたち、旅の外交官、
そして、あの星々の友人たちから届いた光の手紙。
みんながパンを片手に笑っています。
「“焦げても香ばしい”が、世界のことわざになりましたね」
「まぁ、皆さまが前向きになったなら嬉しいことですわ」
丘の上では、子どもたちがパンの形の凧を揚げています。
風に舞う白い布が、まるで銀河のパン雲のよう。
「……あの空も、発酵しているようですわね」
「お嬢様、それは詩的ですが物理的には――」
「ええ、詩ですのよ」
マリアが肩をすくめました。
「ほんとうに、最後までお嬢様らしいです」
――――――
昼すぎ。
世界平和記念式典の中継が始まりました。
スクリーンの中、アルノルト殿下が穏やかな表情で演説しています。
「――私たちは、戦をやめたのではない。
ただ、パンを分け合う時間を選んだのだ。
焦げたところも、香ばしさに変えられると、
彼女が教えてくれた。」
会場から大きな拍手が起こりました。
マリアがこっそり目をぬぐいます。
「お嬢様、殿下のお言葉、立派でしたね」
「ええ、とても素敵でしたわ。
……でも、少しパンの膨らませ方が甘いかもしれません」
「お嬢様、それは演説のことですか? それとも実際の……」
「どちらも、ですわね」
二人で笑いました。
――――――
夕方。
金色の光が畑を包みます。
私はオーブンを開け、焼き上がったパンを取り出しました。
ふっくら、あたたかい。
まるで世界の心みたいです。
「お嬢様、これからどうなさいますか?」
「明日も畑に出ますの。
そしてまたパンを焼きます。
それが、わたくしにできるいちばんの平和ですもの」
マリアが微笑みます。
「ええ、それがいちばん、平和です」
私は小さく祈るように両手を合わせました。
「焦げないように、世界がやさしく焼けますように――」
オーブンの火が、ぱちりと音を立てました。
その音が、どこかで鐘のように響きます。
外では、子どもたちの笑い声。
空には、パンくずみたいな星々の光。
焼きたての香りが風に乗って、
村から王都へ、王都から空へ、
そしてまた、見えない誰かの心へ届いていく。
日記の最後のページ。
柔らかな文字で、こう綴られていました。
――パンは焼けて、今日も平和ですの。
明日もきっと、よく膨らみますように。
ページの端に、小麦粉が少しこぼれていました。
それが、世界を包んだ幸せの証のように見えました。




