第九十三話 陽炎
前回、ムカつく木岡先生に世紀末先生が大人の対応で黙らせたのを見ていた隆一郎。未来が水を飲みきっていたことに気付き、体育館を出ました。
ふと話し声を耳にして、目を擦った俺は顔を上げる。
人に見られたかと思ったがそうではないらしい。辺りには誰もいなかった。
しかし談話は続いていて、その中に『相沢さん』という名前が微かに聞こえた。
少し気になって、声がする方をそっと覗き見る。
自販機の近くにある、体育館の横から入れるドア。そこの前にある階段に座って話しているらしい。
今未来の試合相手になっている瀬戸の取り巻きで、球技大会直前に長谷川とチェンジした元メンバーである伊崎と、その友だちのようだ。
「木岡のやつ本当やばいよねー。あんな言い方されたらウチでも参っちゃうよー」
「ねー。可哀想だったね」
なんだ、木岡先生の言動についてか。
どうやら俺もさっきのせいで疑心暗鬼になっているらしい。もしかしたら未来を悪く言われているんじゃないかと疑ってしまった、申し訳ない。
聞き続けるのも良くないし、目的だった飲み物を買ってできるだけ早く体育館に戻ろうと、千円札を自販機に入れる。
「よっちゃんが来たから助かったけど」と続く会話を思いと裏腹に拾いながら、ボタンを押した瞬間だった。
「もっと上手くやってくれないとバレちゃうじゃんねー、ウチらがけしかけたって」
――ガコンッ!
声に被って、取り出し口にボトルが落ちる。その後カランッ、カランッとお釣りが返ってくる。
グラウンドで何かの試合が始まったらしい。応援の声が飛び交った。
喋っていた同級生たちが静かになって、代わりに俺の脳内で今の会話がうるさくリピートされる。
買った物はもう手の届く位置にあって、お釣りも回収しないといけない。
だけどそれらを取ることも、体育館へ戻ることも俺にはできない。
冷静に、落ち着けと自分に言い聞かせながら、別の捉え方ができないかどうかを探る。
だけどどう考えても、どんなに思考を巡らせても、つまりそうであるとしか俺には思えなかった。
「……なぁ。今の、どういう意味?」
少しの間を置き、お釣りとペットボトルを取りながら問いただす。
「やばっ、行こ!」
女子たちは激しい勢いで立ち上がり、急ぎその場を離れようとする。けれど、もう遅い。
「ひっ!?」
キューブを展開した俺は【陽炎】を彼女らの進行方向に作り出す。
陽炎とは、暑い日の地面に見られるもやもやとした揺らめきをいう。
普段でも自然現象として起こるものだが、キューブで作った場合はその比ではない。漢字に炎が入っているからこそ連想できて技として生み出されるそれは、奥の景色が全く見えないほど強く立ち昇る。
行き先を閉ざされた女子たちのうち、伊崎が真っ先にこちらへ振り向いた。
「ちょっと、土屋君さ。さっき阿部さんに言われてなかった? キューブを人間に使うのは刑罰だって」
「ああ、言われたよ。でもこれは刑罰にならない使い方だから問題ない」
日常で起こっても人に害はない陽炎。キューブの場合も同様で、どんなに強く作っても触れられない、いわゆる見せかけの壁なのだ。
だけどそれを知らない彼女たちは、その先に行こうとは決してしないだろう。
「一般人は詳しく知らないだろうから、教えてやる。キューブを使うに当たっての決まり事は三つ」
ひとつ、使用は夜に限ること。
ひとつ、使用は基本的に対死人にとどめ、必要であればその他にも使うこと。
ひとつ、人間に対し傷つける意図で使用する場合は、重い罰を受けること。
淡々と伝えてから補足をする。
「夜に限るってのは守らなくても別に罰せられるもんじゃねーからいいとして、最後のやつだな。怪我させようなんて俺は思ってない。だから、その点については安心してほしい」
こちらを睨む女子三人を正視して、口を閉じる。
すると伊崎はほっとしたのか、それとも甘いと感じたのか、俺を鼻で笑った。
「土屋君ってさぁ。さっきもそうだけど、いつも相沢さんの肩持つよね。相沢さんに非があるんじゃないかとか思ったりしないの?」
「あいつは、今まで誰よりも傷ついてきてんだよ。傷つけられて傷つけられて、それでもいつだって必死に耐えて、誰かのせいにしたり陥れたりなんて絶対しなかった」
悪い行いなんて未来はしていない。
碧眼だ化け物だなんて周りが誇張するせいで、必要無いほどつらい思いをしてきてるだけだ。
「俺は、俺が見てきた未来を疑わない」
ハッキリと言い切るも、伊崎は「へぇ」と嘲笑で返してくる。
「それって幼なじみだから? それとも、好きだから?」
「関係ねぇだろ。それより答えてくれないか。今言ってた、けしかけたって話について」
論点を戻す。彼女たちは今一度、体を硬直させた。
「あいつが傷つくように仕向けたのはお前らか? 木岡先生に未来がルールを破りそうだからしっかり見といてくれとかなんとか言って、無駄に粗探しでもさせてたんじゃないのか」
当たっていたのかそうではないのか、彼女たちは黙秘を貫いた。
「あいつの何がそんなに気に入らねぇんだよ」
奥に立ち昇る【陽炎】が、俺の心の状態に合わせて揺れる。時間が経つとともに揺らめきは大きくなる。
なかなか答えない彼女たちは代わりのように未来の悪口を言い放った。それが全てを物語っていて、ついカッとなって言い返そうとした時。
「やめなよ、伊崎。みんなも」
ハッキリとした声色の制止が背中側から入る。
顔だけ後ろに向けて見てみると、瀬戸が立っていた。前半の試合が終わったらしい。
「瀬戸。お前も何か知ってんのか」
睨んでしまわないように気を付けながら、一呼吸置いて問い掛けた。
「ごめん、詳しくは話したくない。だけど安心して、長谷川と約束してるから」
「長谷川?」
「うん。だから、今回の件は大目に見てほしい。ちゃんと……この試合が終わったら、ちゃんとするから」
それだけ言った瀬戸は、ごめんと俺に頭を下げた。
丁寧すぎる謝罪に驚いて俺が何も言えないでいると、伊崎たちがそそくさと移動して瀬戸に声をかけ、体育館へ連れ去った。
取り残された俺は呆然として、手に持ったペットボトルへ目を向ける。
「……くそ」
水滴が周りにびっしりと。冷たいはずの中身が少しだけ温度を変えていた。
◇
「あ、土屋戻ってきた。遅かったね」
体育館に戻ると、得点板を見ていた秀がすぐに気付いて何かあったかと聞いてきた。前半が終わった時点での数字は17対18。ギリギリ未来たちがリードしてるらしい。
「おー、水かお茶か悩んでてな」
「結局スポーツドリンクにした」と言いながら手に持ったペットボトルを見せる。
伊崎や瀬戸の話は、事情を全部知らないまま話そうという気にはなれなかった。
「未来、これ」
壁際に座って何か考え込んでいる未来の前にスポーツドリンクを置く。
そこで俺が帰ってきたとようやく気付いたらしい未来は、つと顔を上げ、口もとを綻ばせた。
「ありがとう。飲むのすっかり忘れてたよ」
「ばか。暑っつい中動き回ってんだから、水分摂らねぇと倒れちまうぞ」
俺の注意に「はーい」と軽く返事をしながら手に取った未来は、キャップを開けて呷った。
数秒ですっからかんになってしまったペットボトル。ほれ見ろと言いたくなる。
「未来。さっきの……試合中のやつ。大丈夫か」
木岡先生のとハッキリ言いたくなくて、濁しながら未来の心の状態を聞いてみる。
すると未来は口角を上げて一度小さく頷いた。
「世紀末先生にね、ありがとうございますって言ったの。そしたら、『若者の一生懸命な姿を否定されるのが先生は嫌だっただけだ』って笑ってた」
「はは。生徒最優先なあの人らしいな」
今は保井と足の話をしているらしい。
親御さんに連絡してすぐ戻ったのに、保健室にいなかったから……と声が聞こえる。
――本人も落ち着いてるわけだし、俺が心配しすぎるのも良くないか。
後で俺からもお礼しに行くと話しながら、空になったペットボトルをもらって、捨てに行くフリをして長谷川のそばを通る。
小声で名前を呼んで外へ連れ出した。
「……事情、何となくわかった」
敵チームにわざわざ入っている理由――斎の言う通り、やはり未来のためだったのだと解釈した俺は、壁にもたれてそれだけ伝えた。
お茶を飲んでいた長谷川は水筒を口から離して真面目な顔をする。
「マジ?」
「うん。さっき、断片だけ知った」
そこで伊崎たちと衝突した話をすると、長谷川の瞼が少し開いた。その後、舌打ち。
「懲りないヤツら。しばきあげてやろうか」
「よせ、問題になる」
キューブを使った俺が言えたことでもないが、指の関節を鳴らす長谷川をどうにか宥める。
後で情報共有してくれと頼もうとすると、世紀末先生がみんなを呼ぶ声がした。
長谷川のチームも同じメンバーで後半戦に臨むらしい。瀬戸と須田が長谷川を捜している。
「……ま、そういう経緯だからさ。アタシの応援もよろしくー」
「長谷川」
体育館に戻ろうとする背中を呼び止めて、ありったけの気持ちを乗せて言葉をかけた。
「ありがとう」
ぴくっと肩が揺れ、持ち前の綺麗なつり目がこちらに向けられる。そのままじぃ……っと随分長く見つめられ、何だと言おうとすると、緩んで優しくなった。
「言っとくけど、手加減はしないから。試合はきちんと見届けてくださーい」
右手をひらりと上げて、いつもの軽い調子でコートに戻っていく。らしいなと思いながら承知の言葉を返して、後ろ姿を見送った。
【第九十三回 豆知識の彼女】
グラウンドで始まった競技はドッジボール。
メインキャラたちは参加していないドッジボール。中学生〜!な感じの試合になったらしいですよ。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 トレース》
意味は写し取ること。
よろしくお願いいたします。