第二十九話 鍛練と傷痍
前回、ロシアンルーレットの肉まんに隆一郎は叫び声を上げました。
揺らいでいた炎が迸る。
業火を思わせる渦が天を突く。
龍を象る煉獄の炎はその者を喰い焼き殺そうと牙を剥く。
イラスト付きでイメージしやすくて、何度も読み込んだバトルものの小説の表現。これなら実戦に応用できるのではないだろうか。
そうワクワクして言葉に出したのは、十歳になってすぐのことだった。
キューブに選ばれ『炎』の文字が刻まれた、自由に熱を扱えるようになったあの日。
はじめて作り出した連想物は、龍の形を模した炎【炎神】。
炎の神様なんて絶対カッコいいだろう。
絶対強いだろう。
そう信じて疑わなかった。
だからこれは、俺にとって特別な技だった。
――信じるのはいいことだ。強い技を生み出しているのだと頭が理解していればそれだけその技を強くしてくれる。思いは力になる。ただしそれは、傲らなければの話だ。
戦闘を始める前、凪さんに言われたことを思い出した。
――通らない……!!
信頼を寄せている【炎神】はどれだけ撃ち込んでも一つとして意味をなさずに消えていく。
人間の体が炎の連撃をモロに受けて火傷すらしない、そんなバカな話があるかよ。
いや、あるのだ。目の前に。
俺の稽古をしに来てくれたこの弥重凪という男はそういう人なのだ。
「くそっ、一度ならず二度までも……!」
以前ハチャメチャに炎をぶつけたときも無傷だったけど、きっと当たらないように回避しているんだと思ってた。実際あのときはそうだったのかもしれない。
だけど今回は絶対違う。かわしてもいなければ払い除けてもいない。ただ単に、自身の体で受け止め続けている姿が、ハッキリと見える。
その事態を飲み込めず、なんでと思った瞬間凪さんは一気に距離を詰めてきた。
「考えるなと前にも言っただろう。状況を整理するだけでいい」
指南しながらも拳は当然のように振るわれる。
縦横無尽に襲いかかってくる殴りも、蹴りも、ほとんどギリギリで避ける。避ける。
「今現在考える必要のないことは全て排除しなさい。無駄な思考は切り捨てて、全意識を目の前の敵に集中。感覚を研ぎ澄ませる」
チリッと、顔面の皮膚が裂かれた感覚。
目の前にある凪さんの手に鮮血が飛び散った。
「経験の全てを体に染み込ませなさい。細胞の奥深く、深部へ、末端へ、細部まで」
かわしたはずの拳。その余波が頬の皮膚を引き裂いたのだと認識した瞬間、膝蹴りが鳩尾に入った。
「かは……っ!」
猛烈な痛みに息が詰まる。
壁に叩きつけられ落下して、身は床に投げ出された。
「立て。すぐに!」
「ゲホッ、あぃ……ッ!」
迷いなく振り下ろされた足を必死に横に転がって避ける。
だけどそれすらも予測していたのかもしれない。
「があっ!」
凪さんの重心を下げた回し蹴りが俺の体を迎え撃ち、右肩を直撃していた。
それは、やられてから認識した事実だ。
気付かぬ間に肩をもぎ取られたのかと錯覚を起こして思わず悲鳴を上げそうになると、また大いに吹き飛ばされ、流れのままに床をゴロゴロと回転した。
「あ……あ……!」
痛い。他になんて言おうか。
意識をもっていかれそうな激痛に耐えながら、肩を押さえ必死に凪さんを睨め上げた。
俺の目の前まで凛と歩いてくる存在は、未だに容赦なく殺気を放っている。
それが酷く恐ろしくて、体が竦み動けないでいると、彼は右手を高く振り上げた。
――殴られる。
逃げられないと瞬時に判断し、恐怖に目を固く閉じた。
だけど数秒経っても痛みは訪れない。
代わりに、ぽん。そんな可愛い擬音語を体現するかの如く、殴打だと思っていた右手は優しく俺の頭に乗せられる。
驚いて目を見開き顔を上げると、教授とは一変して優しい声が発せられた。
「今日はここまで。これ以上やると体にガタが出るよ」
ぽんぽんと何度も手を置いてくる凪さんの表情は、声同様、あまりにも優しかった。
「は、はい」
俺が返事をすると満足したようにいつもの笑顔を見せたのち、少し離れた鍛錬場の入口へと駆けていく。
どうしたのかと聞く前に凪さんはドア横に立てかけたリュックを取って、またすぐに戻ってきた。
そして俺の前で胡坐を組んで、一言。
「脱いで」
……なんですと?
「って、ちょ!?」
聞き間違いかと確認する間もなく凪さんの手によって簡単に服を剥ぎ取られる。まるで子どもの着替えを手伝うかのように。
「何ですかいきなり……って、あああああああ!!」
「手当てに決まってるでしょ。パフォーマンスの維持はマダーの基本。怪我をした場合は少しでも早く治すこと、いいね?」
リュックの中からガサッと取り出した数種類の薬たちを、凪さんはどんどん俺のケガに擦り込んでいく。
普段は身一つで来るのに今日は何をそんなに持って来たのかと思えば、手当て道具一式を準備してくれていたのか。
「じ、自分でできるっ! できるから何も言わずに薬塗らないでくださいっ、薬、痛い!」
「ばか言わないの。僕がやっておいてだけど、右肩は結構重傷だよ? 動かせないんだから諦めてじっとしてなさい」
「やっ、だけ……っい、だああああっ!!」
薬で激痛が走るたびに叫ぶが、治療はどんどん進んでいく。
痛みに仰け反る俺の体は片手で押さえ込まれ、凪さんはもう片方の手で薬を塗り続けた。さらにそのまま薬とセットの湿布、上から包帯と、びっくりするほどの手際の良さに思わず感心してしまう。
「はーっ……はーっ……な、凪さん、なんか、慣れてます?」
『無傷』なんて言葉が異名としてつけられるほどの実力者が、怪我の手当てをテキパキとこなしている。それは俺からすればかなり違和感があるように思えた。
それも含めて息を整えながら尋ねると、凪さんは「逆だよ」と手を止めた。
「僕は大丈夫でも周りの子たちが怪我をするからね。むしろ手当ては僕の役目とでも言うべきかな」
「あ、なるほど……」
言われて納得。
今の俺と同じで、大きな怪我だと自分じゃできなかったりするもんな。
「ところでりゅーちゃん、何度か受け身を取りそびれたみたいだね? 結構痛そうな打撲がいくつかあるけど、今回は治るまでちょっと時間がかかるよ。前に長谷川さんが持ってきてくれた薬と違って、今回僕が用意してたのは普通の克復軟膏だからね」
「ああ、あのときやたら回復が早いと思ってたら、やっぱり普通の薬とは違ったんですね?」
ボロボロになった内臓を瞬時に治してくれたあの液体タイプの薬は、どうやら特別なものだったらしい。
痛みも半端じゃなかったけど、護身用には持っとくといいかもしれない。今度長谷川に聞いてみようか。
「ん、手当て完了。大丈夫? 包帯きつくない?」
「はい、ジャストフィットです。ありがとうございます」
「よかった。明日の朝にはほぼ治ってるはずだから、今晩だけは怪我したところを十分労わってあげてね」
返事をしながら服を着ようとするも、本当に腕が回せないらしくどうやっても上手くいかない。
苦戦していると凪さんは何も言わずに手伝ってくれた。
「情けねぇ……子どもみたいだ」
仕方がないとはいえ、中学生にもなって人に服を着せてもらうとは……恥ずかしすぎる。
「心配しなくても僕から見ればまだまだ子どもだよ?」
「歳、二つしか離れてないくせに何を!!」
反論した瞬間二つ違いでこんなにも差があるのだと自覚して、自分で自分にショックを与えてしまった。戦闘力に関しても、人としての完成度についても。
「あーそうだ、それで思い出した。ねぇ凪さん、少しでいいんで愚痴を聞いてくれませんか?」
救急セットをリュックにしまった凪さんにお願いして、鍛錬場を出て自室に戻ってから昨日の放課後の話をした。
主に長谷川から受けた嫌がらせについてを。
「結局そのあともからかいにからかって、子どもだねぇって言ってくるんですよあいつ。そのたびに未来も笑い出すし」
「ははっ、楽しそうで何よりだよ」
「そりゃまあ楽しかったのは事実なんですけどね」
さすがに疲れたと締めくくって、あとで渡そうと部屋の机に置いていた小さな紙袋を手渡した。
「それで帰る前に雑貨屋さんとかも回って。そこで見つけて買ったやつなんですけど、これ良かったら」
キョトンとした顔で受け取った凪さんが紙袋から取り出したのは、ブラックトルマリンとかいう名前のパワーストーンが一つ付いたストラップ。
魔除け、邪気祓いと説明書きがあったから、絶対これにしようと思って。
「いいの?」
「はい。遠征とか大変そうだし、鍛錬見てもらうお礼も兼ねて」
「そんなのみーちゃんへの恋心聞き出しちゃったからもうよかったのに」
「いやあの、さすがにあれはまた別というかなんというか」
ゴニョゴニョと俺が言い淀むと、凪さんは軽く手を口に当て頬を緩ませた。
「義理堅いんだから。ありがとう。大事にするよ」
屈託のない笑顔を見せてから携帯に付けた凪さんは、ぼふんと俺のベッドにうつ伏せで寝っ転がる。
長い足の膝から下だけをパタパタと上下に動かして、何を言うでもなく微笑んだままストラップを眺めていた。
凪さんが物で喜ぶイメージはあんまりなかったけど、案外気に入ってくれたっぽい。良かった。
【第二十九回 豆知識の彼女】
凪は作中の誰よりも面倒見がいい。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 広島風お好み焼き》
本部の電話で東北に遠征に行っていた凪。
隆一郎と未来は広島に行くと先に知らされていましたが、実際はどう動いていたのか。
よろしくお願いいたします。