第二十一話 寡黙の青年
前回、凪が鍛錬に付き合ってくれたはいいけれど、ものの二分ほどで決着をつけられてしまいました。
キッチンからいい匂いがする。リズムよくまな板を打つ包丁の音が心地良い。
主婦歴十七年。もう慣れたもので、鼻歌を歌いながらご飯を作る後ろ姿を、じっと見る。
「母さん」
口から出た俺の声が、思っていたよりも小さくて自分でも驚いた。料理の音で聞こえないかもと思うほどだったけど、聞き取れたようで母さんはこちらに顔を向けてくれた。
「うん?」
「あのさ、俺、その……」
もごもごと口ごもっていると、座れと言わんばかりに食卓の俺の椅子が指さされ、促されるまま席に着く。するとねちゃっとした感触と嫌な音に襲われた。
「ひっ!?」
「にゃはは引っかかったなあ、我が子よ!」
ケラケラと楽しそうな声を聞きながら自分の下半身に目をやった。
「ああ!? なんだよこれ!」
思わず振り払ったのは、俺の尻についていた粘着剤。椅子から伸びていた緑色のチーズみたいな物体だ。
「このやろっ、また何か塗りやがったな! イタズラも大概にしろっていつも言ってんだろ!?」
「まあまあそう言わずに。ほら、緊張解れたでしょ」
「そりゃ、こんなんされたら緊張なんて……え?」
ドヤ顔で放たれた言葉を俺は聞き返した。
「地下から出てくるのがね。いつもと比べて随分早かったから、何かあったんだと思ってさ」
「そんなの、わかるもん?」
「わかるよ。家族だもの。昨日未来を抱えて帰ってきたときも、一昨日帰ってきてからトイレにこもりっきりだったのも、声かけようか迷ったのよ。でも必要ならちゃんと話してくれるって知ってるから、少し待ってたの」
まじか。母親ってのはすげぇな。
「どうしたの?」
カチッと音が鳴り、コンロの火を消した母さんは向かいの席に座る。
表情に浮かぶ優しさに安心した俺は、今度は声が小さくならないよう腹に力を込めて、一つだけ伝えた。
「俺、強くなりたい」
ずっと思ってた。
みんなを守りたい。
誰も死なせたくない。
未来を守れるようになりたい。
全部守りたい。
こんなおかしい世の中は全部ひっくり返して、誰も死人なんてものに怯えなくて済むように。
どうすればいいのかは、まだよくわからないけど。
「……そう」
母さんは一度こくんと頷いて、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、沢山食べて沢山勉強して、沢山訓練しないとね! 今日はガッツリ系にしたから、しっかり食べな」
「んな簡単な話じゃないっての。けどご飯は大事だよな」
お礼を言って、凪さんと、もし起きてたら未来にもご飯だって伝えに行こうとすると、母さんにぎゅっと抱きしめられた。
俺とほとんど変わらない身長。発された言葉が直接耳に届く。
「でも覚えておきなさい。あなたはまだ中学生。守れるものには限界がある。だから自分を大切にして、周りを頼ること。力が十分になってから、自分も周りも守れるようになりなさい」
声は、少し震えていた。
そっと抱きしめ返すように手を添えて、俺は小さく頷いた。
約束するよと、行動で示した。
「絶対よ」
確認としてそれだけ言った母さんは、何事も無かったかのようにご飯をよそいにいく。
ふわりとくる炊きたてご飯のいい匂いに掻き立てられ、腹が鳴りそうになった俺は足早にキッチンを出る。
何を腹に飼っているんだと思うほどでかい音を廊下で鳴らしながら、先に未来の様子を見に行った。
部屋のドアは少し開いていた。
起きたのかもしれない。
ちらっと中を見ると、残念ながら未来はまだ寝ていて、代わりに凪さんがベッドに腰かけていた。
手を未来のおでこに当てて、少し険しい顔をしている。
声をかけても大丈夫だろうか。
「……【Blessing】」
表情とは対照的な、優しい声。凪さんがキューブを使っている姿は初めて見る。なんだかとても神々しい。
英語で何の技なのかわからないけど、青くて柔らかい光が未来の体を覆う。それが徐々に体の中へと入っていって、最後には胸元にある水晶のネックレスがぼんやりと光った。
あんなネックレス、あいつ着けてたっけ?
「あんまり見られると恥ずかしいよ」
「うっ」
見てるの、バレてた。
「ご飯できたから呼びに来ました」
「ありがとう。すぐに行く」
壊れやすいものへ触れるように、優しい手が未来の頭を撫でた。その手は桃色の光に覆われていて、今度はさっきと違い、一度瞬きをしたあとにはもう消えてしまっていた。
ふー。と大きく息を吐いて立ち上がった凪さんは静かに部屋を出て、俺に笑顔を向ける。
「おまたせ。行こうか」
「あの、いったい何を?」
見ていてもよくわからなかったから聞いてみたけど、凪さんは問いにしっかりとは答えてくれなかった。
この国が平和だったら必要のないこと、とだけ言う表情は、笑ってはいるがどこか影を感じさせる。
「りゅーちゃん、あとで地下のサウナにおいで。少し話したいことがある」
「あ、はい。わかりました」
その様子が気になって、やはり自分の家にいるかのように振る舞う凪さんには、本来誘うのは俺ですよなんて言えなかった。
話って、なんだろう。
終始そう思いながら、仕事から帰ってきた父さんも途中参加してみんなでわいわいとご飯を食べた。
男の子は沢山食べるべし。そんな母さんの意向ゆえに、凪さんの器には並々ならぬ量のおかずが盛られていて、さすがに腹もいっぱいになったらしい。食後しばらくは俺の部屋でゆっくりとしていた。
お互いの腹がいいぐらいに落ち着いたころ、ほんのりと緊張まじりの声で呼ばれ、二つ返事でサウナに入った。
鍛錬場の横に設置されたそこは非常に暑く、すぐには凪さんも話し始めない。
単純に言いにくいというのもあるのかもしれないけど。
――俺から切り出したほうがいいかな。
続く無言の時間に耐えかねて、瞑想してるみたいに目を瞑って背すじをピンと伸ばす姿を正視する。
腹筋、顔に似合わないぐらいバキバキ。
なんなら腕とか、背中とか、制服着てたら全然気付かないけど鍛え上げてるのがはっきりとわかる。すげぇ。
「あんまり見られると恥ずかしいよ……」
「あ、ごめんなさい」
視線を感じたのか、凪さんは尻目に俺を見る。
でもそれ以上は何も言わず、また眼を閉じた。
心の準備が必要なのかもしれないし、とりあえず俺もそのまま黙っていることにする。だけど無言で待つというのはこの空間の暑さをこれでもかと感じさせてくるわけで。
ちらりと時計を見れば、もうかなりの時間が経っていた。これ以上いると脱水症状になるかもしれない。
「ちょっと、一旦出ます」
火照る体を冷やすべく出口に向かうと、「隆一郎」と小さな声で呼び止められ、俺は反射的に振り向いた。
「未来を、守って」
凪さんは閉じていた瞼を開けて、意外にも自信のなさそうな顔をした。
「僕は、いつもいつもは守ってあげられない。今回のことも、半年前のあのときも。僕の目が届かないところでは、隆一郎が守ってほしい」
その願いを聞いて、俺は言葉に詰まってしまった。
強くなりたい。そう母さんには宣言したけど、今の俺には未来を守れるほどの力はないと自覚しているからだ。
「鍛錬は僕の時間がある限りは付き合ってやる。だからお願い。未来を守って」
やけに守れと言い続ける凪さんの様子に、俺は少し違和感を覚えた。
「凪さん、今日どうしたんですか。何かあったんですか?」
また答えてくれそうにない凪さんへ、さらに言葉を投げる。
「今日うちに来たのも本当は未来のお見舞いじゃなくて、別の理由があったんじゃないですか? さっきの鍛錬だって、いつもみたいな余裕を感じなかった」
だんまりを続ける凪さんに、部屋の暑さを忘れてさらにさらに質問攻めをする。
「教えてください凪さん! 何かあるなら。情報共有してもらえないとちゃんと守れないです」
その理由を隠さないでくださいと。
「教えられない」
「何で、どうしてですか!?」
つい強く言ってしまった俺は、しまったと思って口を手で覆った。凪さんはそんな俺を一目見たのち、すっと立ち上がる。
「暑い」
そう一言だけ零した凪さんはゆっくりとタオルを頭にかけ、顔を隠すようにしてサウナ室から出ていった。
【第二十一回 豆知識の彼女】
隆一郎の母はとてもお茶目。
だけど母親としてもきちんと接してくれる、数少ない『親の鑑』のような存在です。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 呪いと決心》
凪が未来のお見舞いとは別に、今回長居をしている理由。
よろしくお願いいたします。