第十五話 谷川斎④
前回、内臓の転がったゴミ箱前でした。
走る。走る。黒い霧のせいで前が見えない中、全力で走る。ここはゴミ箱の周辺なのだから、きっとすぐそこに仲間も敵もいるはずなのに全く見えない。聞こえない。ただただ自分の駆ける音と、微かに見える臓器しかわからない。
「うわっ!」
ブチッ!
臓器か液体か、足を取られ勢い余ってドサッと尻もちをついた。体を支えようとした右手がそこに転がっていた、心臓を押しつぶす。
「くっそ……」
込み上げたものを口を押さえて引っ込めた。
柔らかい。柔らかすぎる。溢れ出る黒い液体を追加で感じながら、それはまるで腐っているように思えた。
「んッ!?」
立ち上がるべく地面に手をつくと、誰かに鼻と口を押さえられた。強い力で後ろに引っ張られ、抵抗できずに尻が地面についたまま数メートル後退させられる。
押さえていた手がぱっと離れ、苦しさから解き放たれた俺はすぐさま全力で息をした。
移動した先には、霧の無い澄んだ空気が満ちていたからだ。
「ばか、むやみに走り回るんじゃない!」
声のほうに振り向くと、険しい顔をした未来がいた。さらに後ろには顔色の悪い秀とうずくまっている阿部の姿が見える。
良かった、二人は無事か。
ほっとしていると、未来が【蒸散】で作り出した水で、俺の至る所についた黒い液体を流してくれた。
蒸散作用という植物の水分が水蒸気として出ていく現象から連想したらしい。
「空気だけじゃない、この液もできるだけ触らないほうがいい」
何があるかわからないからと、未来の顔は一変して心配の表情が浮かんだ。
「わるい。少し解剖させてもらってた」
「……大丈夫?」
「あんまり、かも。けど、急ぐから」
今俺たちがいるこの空間は、未来が【光合成】で空気の入れ替えをしてくれている。息ができるのがありがたい。
「全部、黒かった。ほかに何かあるべきなのに、出てくるのは全部黒い液体だった」
生き物を腐らせ、残留し、黒い液となる。それが、この霧が起こす現象だ。
未来は黙って首を上下に振った。
「……私が来たとき、一人死ぬ直前だった」
その瞬間を目の当たりにした未来が経緯を話す。この黒い霧を吸い込んで苦しみ出し、水風船みたいに体が破裂した。細かくなりすぎてもうどれが誰のものかわからないと。
「体の隅々まで吸い込んだら破裂するのかと私は思ったんだけど、そっか……腐って破裂か」
「ああ」
「空気を入れ替えるだけじゃ足りない。しっかり排出させなきゃまずい」
相槌を打とうとして、けれどその前に、未来の言葉の意味を考えた。
「……秀、阿部。お前ら……霧は」
吸ってないと、言ってほしかった。阿部は怯えているだけみたいだし、秀の血色の悪さはいつものことだから。
答えたのは、阿部。
「私は、隠れてたから。けど秋月君は……」
瞬時に状況を理解した。
阿部は昼間俺がやられたのと同じように、相手の考えていることを具現化するため隠れながらサポートに回っていた。でも秀は前線で戦っていて、霧を吸い込んだ危ない状態になってる。
「僕は……相沢さんの、アドバイスのおかげで、体を保ててるぐらい。多分そう……永くはないよ」
そう話す秀は全身に氷を貼り付けている。こいつの文字は『氷』のはずだから、恐らく自身で生成したもの。
冷やして血管を収縮させることで、血流を抑えて全身に回らないようにしているのだろう。
だけど、確かにこれは一時しのぎでしかない。
「未来、体内に入ってる分の【光合成】はできないのか」
「試したんだけど、上手くいかなかった。既に汚染されつつあるんだと思う」
「……死人は」
「倒した、というか、この霧を出して消滅したらしい」
討伐されそうになって、悪あがきをした結果がこれ。
……最悪だ。
「どうしたら、体外に……」
呟いても対処法が浮かばない。
体内に浸透したものを外に出す方法。
秀が死なない方法。
何か、あるはずだ。
何か……何か、何かが。何か方法が、きっと。
――慣れちゃったよね。マダーの人が死んじゃうのさ。
平和が当たり前のやつらの声が、リピートされる。
死ぬ? 秀が、死ぬ?
周りに散らばるものと同じように、秀も、散る?
そんなの、嫌だ。絶対、嫌だ。
「隆」
負の想像を断ち切るように、未来が俺を呼ぶ。
「谷川君、一緒じゃないの?」
斎?
「斎……はこの霧が危ないと思って、そこの操作室に」
「良かった。ここまでの道の霧退けるから、急いで連れてきてほしい」
【光合成】の範囲を広げるために、未来がこの空間から操作室に向けて自身と同じぐらいの背丈の木を生やす。その木が息を吸うようにすぅーっと音を鳴らして、周りの黒い霧を吸い取っていく。
「斎を? なんで?」
「谷川君が、キューブを作った人だから」
未来がぽんと答えるとともに、木の葉の部分から綺麗になった空気が排出された。徐々に澄んだ空気の道になっていく。
「気付いてたのか?」
「気付いてたっていうか、多分昨日の朝の時点で言ってくれるつもりだったんだと思う。そうでなくても言葉の節々から何となく想像はついただろうけどね」
マテリアルまでの道が完全に出来上がった。通る場所は臓器も何も散らばっていないところで、きっと斎のためなのだろう、そこ以外の周りに落ちているものは容易に目視できないように霧の量を濃くしてくれている。
――さすがだ。
未来は、俺ができないことをいとも簡単にやってのけてしまう。きっとキューブが植物主体じゃなくてもこれぐらいどうにかしてしまったんだろうなと、そう思わせる。それに、
「だから、もしかしたら何か打開策を思いついてくれるかもしれない。私はここから離れられないから、お願い」
秀を助けるための、適切な判断。
――かっこいいなあ……。
わかったと短く返事をして、斎のいる場所までまた全力で走る。
もし、あの電話を聞いて俺が先に動いて未来より早くここに来たとしても、こんなふうにできただろうか?
昨日だって人が死んだ。今日も死んだ。
どっちも目の前で。
俺なら正気でいられるだろうか。
残った二人を生かすために、俺はどこまで最善を尽くせるだろう?
「――?」
マダーになってから、いつだって同じように、同じに育って修行して戦って。なのにいつからこんなに違ってきた?
だって逆だったら、もしかしたら全員死んでいたかもしれない。秀も、阿部も、あとから来た未来も。
「――、――!」
もし、未来が転校してくるのが明日だったら?
まだ未来がマダーじゃなかったら?
「――――――!」
未来が存在しなかったら?
もっともっと死者が――。
「……え?」
音がした。パァンッ! と、さっきの破裂音に似た音が。
破裂した? 何で? どこで? 誰?
……俺? しんだ?
オレ、シンダ?
「土屋ってば!!」
「……斎?」
左の頬がジンジンして、触ってみると熱を持っていた。
ああ、引っぱたかれたのか。
「いきなり走ってきて声かけても無反応じゃ怖いからやめてくれ。どうした、まだやばいことがあったのか」
不安そうな顔が下から俺を見上げてくる。俺はハッと我に返り状況を説明すると、斎の顔がみるみる青くなっていった。
「未来が、お前なら何か打開策を思いついてくれるかもしれないって」
「……はは。期待されてもねぇ」
はははと斎は笑って走り出したが、その笑い声は、いつもの可愛らしい明るい声じゃなかった。
「谷川君」
あまり外に出ない斎は久しぶりに全力疾走したせいで、かなり息が上がっていた。しかしそれは気にせず未来の横を通り過ぎ、苦しそうな秀に一目向けてから阿部のところまでスタスタと歩いていく。
「阿部さん……キューブ、見せて」
斎にそう促された阿部は、不思議そうに左手を差し出した。手のひらには『解』の文字が浮かんでいて、それを斎はじっと見つめた。
かと思えば今度はポケットから一つサイコロ状の小型の機械を取り出して、ボタンになっているサイコロの目をカチッと押す。
すると上空に大量の数字とグラフと文が載ったモニターが数個浮き出てきた。キューブの研究に使っているものだろうか。
手が届く位置の真ん中にあるモニターを片手でスライドして、見えているんだろうかと思うぐらい素早く画面が切り替えられる。もう片方の手はまた違うモニターを拡大して、ザァーッと膨大な数の数値を打ち込んでいく。
指が打つその音が静かな空間に響いて、全員の緊張が高まっていくような気がした。
「阿部さん、普段どんなふうにキューブ使ってる?」
全てを終えたらしい斎が一つのモニターだけを残して他のものを閉じる。元々映っていた俺たちにはわかりにくかった数字が、わかるようにパーセンテージで表示されていた。
「え、どんなふう……? んと、心の声を形にしたりとか、知らない国の言葉をわかるようにしたり、鍵開けたり、かな」
「なるほど。『解』を『解く』って考えてるんだね。あながち間違いではないけど……少しだけ考えを改めてくれると、もっと可能性を広げられる」
残していたモニターを斎が指さした。そこにある二つの表示は、11%と、89%。それを阿部が見ているのを確認してから斎は話を続ける。
「君の能力は、『解放』」
「解放?」
「うん、この数字はオフェンス値とディフェンス値を表示しているんだ。詳しい説明は急ぐから省くけど、こっちの十一パーセントが阿部さんのオフェンス値。ディフェンス値のほうが圧倒的に高い阿部さんは、後ろでサポートしてこそ力を発揮できるんだ。多分それは気付いてくれてるね」
阿部はこくりと頷く。その傍らで秀がさっきよりも苦しそうな顔になって、息が荒くなってきた。
「俺は今、秀を助けられるのは君だけだと思ってる。だから想像して。『解放』という言葉の中に、サポート役として他にどんな能力が連想されるか。秀の体の中がどんな状態なのかを」
ゆっくりと説明していく斎に焦りは感じられないが、きっと内心は怖いはず。
未だに立ち込める黒い霧が風に煽られて吠えるたび、俺たちの不安が増していく。
「秋月君!」
未来の声が風の音を遮った。秀が未来にもたれかかって胸元を苦しそうに押さえていた。ヤバい、そう思って俺も近くに寄るが何もしてやれない。もどかしい思いが渦巻くのみ。
「阿部……」
早く、早く助けて。
そう強く願ったとき、一際大きな風音が鳴った。
阿部の顔が勢いよく上がる。そして秀に手をかざし、一声呟いた。
「【解毒】」
大きな破裂音が聞こえたのは、それとほぼ同時のことだった。
【第十五回 豆知識の彼女】
未来が人の死を見ても動揺しなかったのは、マダー歴が長く、壮絶な体験をしてきたから。
お読みいただきありがとうございました。
《次回 谷川斎⑤》
破裂音の正体と、斎について。
よろしくお願いいたします。