悪役令嬢役は辞めました。8
黒いローブで全身を覆った男は身長よりやや短い長さの杖を正面に掲げ、呪文を詠唱していた。
ソフィアの予測通り召喚術だった。が、時間をかなり要していた。
その詠唱が終わりを迎えた。地面に大きな魔法陣が鈍い光を放って浮かび上がる。そして、その上で黒い霧状の物体が小さく渦を巻き始める。その渦は次第に大きくなる。直径も高さも。
更に渦は形を変える。先端が上を向いた円錐から先端が下を向いた円錐へと。まるで竜巻のようである。
逆さ円錐は上昇する。魔法陣へと繋がる黒い一筋を伸ばして。
いや、逆さ円錐が伸ばしているのではなかった。魔法陣から引き出していた。何かを引っ張り上げていた。
そして、それは徐々に姿を現す。
光を飲み込むような漆黒の3つの頭を持つ魔獣。巨大な体躯と圧倒的な迫力。
ケルベロス。
6個の眼がソフィアとミツセを捉える。3つの口には何物をも噛み砕いてしまうであろう鋭い牙が見え隠れしていた。
「お嬢様。」
ミツセは怯む事なくケルベロスの前に立ちはだかる。
ケルベロスの中央の頭が口を大きく開けて襲い掛かる。
ミツセは軽くかわす。不用意に突っ込んできたケルベロスの頭部の側面から素早く眼球に剣を数回突き立てる。
ケルベロスは低くくぐもった唸りを漏らしながらも、ミツセに咬みつこうとする。
しかし、素早く位置を変えながら攻撃するミツセを捕えきれない。
だが、ミツセの方も、大きく強く動くケルベロスの頭に対して決定打を与える事が出来ずにいた。
十数分にも亘る攻防の末、反対側の眼球も潰されたケルベロスの中央の頭は瞬間動きを止めた。
その機にミツセは額、頚部と力強い攻撃を加える。それまでの細かい傷とは違う深傷となり得る傷が次々と作られていく。そして、深々と
突き立てた後、思い切り剣を動かすという一撃が致命傷となりケルベロスの中央の頭は項垂れたまま沈黙する。
沈黙直前、最後の力を振り絞ったかの様な強烈な振り回しを受けるも軽やかな身のこなしでスックと地面に着地したものの方向まで調整することが出来なかった。
ケルベロスに対して背を向けてしまった。
ミツセの上半身がケルベロスの右の頭に覆われる。頭離れた後にはミツセの下半身のみが立っていた。
一呼吸後には再び右の頭に覆われミツセの姿は跡形も無く消えた。
「ミツセ!」
叫ぶソフィアに向かって左の頭が襲い掛かる。自分にも喰わせろと言わんばかりに。
ソフィアは走った。
エンデに向かって。エンデの元まで辿り着けば何とかなると考えているかの様な行動だった。
「ソフィアさん。」
エンデもまたそう考えているかの様にソフィアに向かって手を差し延べる。
「エンデ様。」
エンデの傍らに控える隠密の1人がエンデの体を押し留めた。
「お義母様。」
必死でエンデに向かって手を延ばすソフィア。その後ろにケルベロスの頭が迫っていた。一飲みにするが如く地面擦れ擦れに体勢を低くしている。
と、ソフィアのすぐ後方で大きく口が開けられる。鋭い牙、異様に紅い舌がハッキリと見て取れる。
口がバクッといった表現そのままに閉じられた。
ソフィアの姿が無くなり、エンデに向かって延ばしていた右手の手首から先だけが落ちた。
「ああっ!いやあ一っ!」
エンデは悲鳴にも似た声を挙げ、両手を伸ばした格好で駆け寄ろうとする。
「いけません。エンデ様。」
それをすかさず引き止める1人の隠密。彼は何時もエンデの傍らに控えている。エンデに対する絶対の忠誠を以って身辺警護に当たっていた。
ソフィアを一飲みにしたケルベロスの勢いは止まらずエンデに向かっていた。
エンデの目には地面に転がっているソフィアの手しか写っていない。引き止める隠密の拘束を必死で振り解こうとした。
「エンデ様、お許しを。」
そう言うと彼は指をパチンと一度鳴らした。得意の対象者の意識を刈り取る魔法である。
エンデの体が瞬時に崩れ落ちる。
彼はすかさずエンデを抱きかかえると、突進してきたケルベロスの口をヒラリと躱し、一言「殺れ。」と言い放った。
その言葉は派遣された召喚術者の傍らの隠密に伝わる。本来、術の発動中無防備になる術者を守る役目を担っているのであるが、「殺れ。」の一言で術者の心臓を背後から貫き、地面に引っ張り倒した額に短剣を突き立てる。やや大振りで身幅も厚めの刀身は頭蓋骨を簡単に貫いた。更にまるで脳を破壊するのが目的かの様に刀身を前後に何度か大きく動かした。
そこまで行った後、地面に浮かび上がっていた魔法陣は光を失い消滅した。
それに伴いケルベロスも霧散していった。