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第九話

【月夜の森】において、宮原さんがバリスタ&キッチンスタッフ、私がホールスタッフという業務形態に分けられるようだった。

ただ、宮原さんが仕事の繁忙期にお店を開けられない時には、私が一人で対応しなくてはならない。そのためには、早い内からコーヒーの淹れ方や、カフェが提供するフードやスイーツの製造も担当しなくてはならないので、覚えなければならないことがたくさんある。

私の表情が曇りがちになっていることに気が付いたのか、宮原さんは落ち着かせるように私の肩に手を置いた。

「大丈夫ですよ。覚えることはたくさんありますけど、まずはホールでの接客を学んでいきましょう。私の仕事も起伏はありますけど、システム統合で仕事量も大分調整出来るようになりましたし、カフェ運営に支障は出ないと思います。まぁ、いざとなったら、ヘルプを頼みます」

「ヘルプですか?」

「ほら、雫さんも以前会ったかと思いますが、梶くん。彼は普段、カフェのキッチンスタッフとして働いているので、フード関係の悩みにも乗ってもらっているんですよ」

上機嫌の宮原さんと違い、私はあまり明るい気持ちにはなれなかった。

(どんな旧時代を生きてる家庭に育ったんだよ―――)

あの言葉を思い出すたびに心がもやっとして、自然と眉をひそめてしまう。

「……大丈夫です。あの人に頼らなくても、早くコーヒーのことやフード関係のことも覚えて、宮原さんの役に立ってみせるので」

「雫さん?」

カラン

その時、微かにドアベルの音がして、私は勢いよくドアの方に顔を向けた。

(接客の基本として、まずはお店に来てくれた歓迎の言葉として―――)

「い、いらっしゃいませっっ!」

深夜のブックカフェにそぐわないくらいの大きな声が出てしまった。

「……びっくりしたね、新しい子、雇ったの?」

白髪をたくわえ、ベージュのスーツに帽子をかぶり、銀色の杖を片手にゆっくりと紳士がそこには立っていた。

びっくりした、と言われたことで歓迎の第一声の声量を大きく間違えてしまったことに気づいた。私は恥ずかしさのあまり、顔を伏せて、そこからそのまま動けなくなってしまった。

「―—―五十嵐さん。お久しぶりです」

宮原さんがとっさに五十嵐さんと呼んだ紳士に近寄り、深々とお辞儀をした。五十嵐さんは表情を変えずに、帽子を取った。

「妻の一周忌が、最近済んでね。少しずつ進めていた身辺整理も落ち着いて、生活も元のようになったんだけど、やっぱり妻の不在が慣れなくてね……夜もぐっすりと眠ることがなくなってしまった。夜を一人で過ごしているとね、寂しいというか、世界に一人取り残されたような気分になってね。まわりの家の光が次々に消えていくたびに、ああ、今夜も置いて行かれてしまった、乗り遅れてしまったという気分になる」

五十嵐さんのその言葉に、私は息をのんだ。

周りの光や喧噪や気配がある時間帯は、私もまだ世界の一員として存在していいのだと許可されている気持ちになる。だけど、一人窓の外を見つめていると、見えない列車に住民が次々に乗り込んで、名も知らない未知の駅へ旅立ってしまっているように感じられる。

置いていかないで欲しい。

私も、其処へ、連れて行って欲しい。

声を上げられず、虚空に手を伸ばしてみても、空を掴むだけで私は地上に一人残されてしまう。

「いっそのこと、ずっと意識がなくなってくれればいいのにって、思うことがあります」

私はいつの間にかそう呟いていた。

はっと気が付くと、五十嵐さんは真っすぐにこちらを見つめていた。

「す、すみません。訳の分からないことを口にして―――」

「貴女も、夜を拒みながらも、夜にしか生きられない……?」

五十嵐さんの言葉に、私は唇を噛みしめながら力なくうなづいた。

「そうでしたか。ならば、貴女もこの【月夜の森】に呼ばれたのですね」

呼ばれた、そう考えたことはなかったけれど、窓から見えた強い強い光、あれは私を導くための光だったのかもしれない。

「五十嵐さんは父の学生時代からの友人で、私も小さい頃からよく面倒を見てもらっていたんですよ。父の蔵書には五十嵐さんのものも交じってますよね?」

「そうだね。私は父の社宅に住んでいたからあまり自分の本を置けず、よく貴弘の家に置かせてもらっていたんだよ。あまりも預けすぎて、どれが自分のものなのか分からなくなってしまった。だから、大貴くんが蔵書を読めるブックカフェを作ると聞いた時、嬉しかったんだよ。貴弘は、本を読み終えると必ず読了日を巻末に記していたんだ。そんなことをしたら古本屋に持ち込めないからね、私はしなかったけれど、記載があるものと無いもので蔵書の区別がつく。だから、学生時代に読んだものと久々に対面した時、同時に学生時代の自分にも久々に再会することが出来た。もちろん、貴弘の蔵書も私が読まないものばかりで興味深かったから、それもたくさん目にすることが出来て嬉しかったよ。ただ、70過ぎの老体に深夜帯に出かけて本を読むという行為はなかなか骨が折れるものでね。しばらく店から遠ざかっていたよ。でも、喜美子が急に体調を崩してね。あっという間に私を置いて亡くなってしまった。喜美子と一緒に過ごす日々は私の人生そのものでね。私たちには子供が出来なかったから、ずっと夫婦二人だけで生きてきた。急に半身を失うと、色々な気力も半減してしまってね。杖をついているものの何とか自分一人で歩けるし、ご飯も作れるし、お風呂にも入れる。週に二日、掃除や洗濯をしてくれるヘルパーさんには来てもらっているが、前のように生きようとする理由が見つからなくなってしまった。無意識に、睡眠をとらなければ、寿命が縮んであっというまに人生を終えることが出来るんじゃないだろうか、そんなことを考えてしまっている。死のあこがれが、頭の片隅に残されている」

「五十嵐さん、そんなことを言ったら父が悲しみます。五十嵐さんと碁を打つことが父の楽しみなんですから」

「はっはっは、そうか、そうだったな。貴弘は昔から私と打ちたがるんだが、全く成長しなくてな。そうか……」

五十嵐さんの目じりにうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。

五十嵐さんは私とは違い、日中も生き、夜も死を連想させられる象徴としながらも身を預けて生きている。私は、日中は自分を殺し意識を殺し、無いものとして心の奥底にその身を沈めている。そして、目を覚まし生きる世界として夜の闇を選択している。選択する自由すらもなく、死を待ち続けるというのはなんと酷な世界だろう。

死と隣り合わせとしたこの限られた狭い世界で、私は五十嵐さんに何を提供できるのだろうか。


現在、昼は自分の殻で眠り、夜は帷が下りるのを空虚な気持ちで見上げながら一日が過ぎるのをひたすらに待ち望んで生きている。以前は昼も夜も関係なく睡眠が訪れず、目眩と倦怠感に苛まれてご飯もまともに口に出来ず衰弱していた。

無理矢理にご飯を口にしようとしても、吐き気に襲われてろくに嚥下することが出来なかった。一日の必要な栄養素をまともに取り込んでいないと、体に力が入らず、ベッドの上で過ごす事が多かった。

父の息のかかった勤め先に行き始めた頃は、周りの迷惑にならないよう精一杯努めた。父の娘という肩書きがあるからなのか、右も左も分からずおろおろとしていた私に周りの人たちは優しくしてくれた。だけど、ある事をきっかけに私の精神は限界に達し、気づいた時には動悸が止まらなくなりまともに夜に眠れなくなってしまった。

精神を休める時間がなくなるということは、脳が常に動きを止めずに活動していることだ。

脳から様々な不穏な信号が明滅を繰り返した。

社会人としてまともな生活が送れていない。人間としてやるべき行いが何一つ出来ていない。母に料理、洗濯、掃除一切を任せてただベットの上でゴロゴロしているだけ、あなたは何のために生きているの―――?

そんな声が一日中頭の中で反響している。耳を塞いでもずっとその声無き声は響いて鳴り止まなかった。涙が止まらなくなり、私はずっと体を丸めたまま耐え続けていた。

母は慰めるような優しい声をかけることはなかったが、ただ私のそばに黙っていてくれた。

そのおかげか、次第に日中にうとうとと眠気が襲ってくれるようになった、

私には母がそばにいてくれるという安心感があったが、五十嵐さんはその安心感すらも感じることなくずっと自分にまとわりつく闇を払い去ることも出来ずに生きている。

それは言葉にできることのない膨大な不安感と焦燥感に襲われているはずだ。

太陽の登っている時間帯には活動し、月の出ている夜の時間帯は眠るというのが小さい頃からの常識として根付いていた。だけど、職種によってそれが逆転している人たちもいることが分かった。それは理にかなっていないということではなく、そうせざるを得ない人たちもいればその生き方を好んで享受している人もいる。

私は、夜に生きることを選択した。そうとしか生きることが許されないと思ったから。

だけど、母も宮原さんもそんな私の生き方を認めて応援してくれている。それはとても心強いことだし、以前のように罪悪感に苛まれることもなくなった。

五十嵐さんは晴れることのないすべての重圧を受けている。宮原さんの言葉に苦しそうにかつ嬉しそうに涙をにじませている姿を見てそう思った。

一人ぼっちで無音の世界に取り残される辛さを、私は痛いほどによく分かるから。

「宮原さん、五十嵐さんへの飲み物は私が用意してもいいですか?」

私の強い言葉に宮原さんは一瞬目を見張ったが、ゆっくりと頷いた。

キッチンに入ると、私はラベルの貼ってある紅茶缶を端から端まで目で追った。

よく、母が淹れてくれていたのを思い出した。

葉を急須に入れ、お湯を注ぐとふわっと甘い香りが漂ってきた。

ぎこちない手つきでティーカップを運んで、五十嵐さんの目の前に置いた。

「どうぞ、カモミールティーです」

「おや、大貴くんのコーヒーではないんですね」

「……私も、よく寝れない時に母が淹れてくれていたんです。カモミールティーはカフェインを含まないですし、身体に負担がかかりません。ストレスや不安感を軽減する効果がありますし、気持ちを落ち着かせて睡眠の質を向上させることも出来るそうです。飲むことで、すぐに眠気が来るわけではないとは思いますが、リラックス効果があると思います」

「そうですか……妻はハーブティーをよく口にしていましたが、私はあのハーブティーの独特な味と香りが苦手でね、あまり飲まなかった」

「カモミール以外にもローズヒップやハイビスカス、ペパーミント、ローズマリー、レモングラスなんかもあります。その中から五十嵐さんの好みに合う香りももしかしたらあるかもしれません」

「雫さん、詳しいんですね」

宮原さんの言葉に、私は何だか照れ臭くなりお盆で顔の下半分を隠した。

「図書館などに行って、調べてみたんです。母に頼ってばかりではいけないと思ったので。体質の改善で、もしかしたら自然に入眠が出来るかもと思ったので……」

五十嵐さんはしばらくティーカップを見つめていたが、ゆっくりと顔の近くまで持ち上げた。

すうっと鼻で吸い、そのままゆっくりと息を吐いた。

「うん、いい香りだ……」

そのまま恐る恐る一口啜ると、それを口内で噛みしめるよう顎を動かした。

一時、目を伏せて反芻しつづける姿を私と宮原さんは黙って見つめていた。

「頭の中を、何だかすーっとさわやかな空気が通り抜けたような気分だ。開けっ放しだったドアをすべて閉じて行ってくれるような不思議な心地だよ」

五十嵐さんは何度かティーカップの重さに耐えられないのかソーサーに戻した。少し時間を空けながら口元に運んでカモミールティーを味わっているようだった。

「……美味しいとは違うのかもしれないが、体全体に鋭気を流し込まれているようだ。だけど、力を与えられているのとは違うな、柔らかな温かさで包まれているようだ」

五十嵐さんはゆっくりとこちらを向くと、

「ありがとう、お嬢さん。今夜はこのまま眠れそうな気がするよ。喜美子が夢に出て来てくれるような、そんな予感がしている。本日は、このままお暇させてもらうよ」

五十嵐さんはフラフラと立ち上がると、椅子にかけてあった杖に手を伸ばした。

「あの、もし、入眠効果があまり持続しないようでしたらまた【月夜の森】にいらしてください。まだ、私は宮原さんのような美味しいコーヒーもお菓子も用意をすることが出来ません。ですが、誰かがそばにいて五十嵐さんがこの世界にいることを望んでいる人たちがいることを忘れないでいて欲しいんです」

五十嵐さんは目を細めながらこちらを見やると、口元に小さく笑みを浮かべた。

「そうですよ。父の若い頃の話もたくさん聞きたいですし、蔵書の管理でお訊きしたいこともあります。どうしても一人で体が動かせないようなことがありましたら、連絡してください。駆けつけますから」

「……ありがとう。二人のその言葉で、もう少しこの世界で粘ってみなければならないと思えるようになった。喜美子には、しばらくはあちらで待ってもらわないといけないなぁ」

五十嵐さんの言葉に、私は指をぎゅっと握った。

宮原さんは足元が覚束ない五十嵐さんの傍についた。

「五十嵐さん、一人で帰れますか?少しでも眠気が来ているようでしたら店の二階に私の仮眠場所があるので良かったら好きなだけ使ってください」

「お気遣いなく、大丈夫だよ。むしろ、久々の心地よい浮遊感に私は感動しているんだ。いつでも眠れるよう和室が万年床になっているからね、帰ったらすぐに横になるよ」

「……わかりました、お気をつけて」

宮原さんは後ろに佇む私に視線を向けた。慌てて私は店の扉まで移動して開けた。

「また来てください。お待ちしています」

「ありがとう。お嬢さんも、あまり無理をしないよう頑張りなさい」

「はい」

五十嵐さんは杖をつきながらゆっくりとした足取りで闇の中を進んでいった。

(根本的な問題の解決にはなっていないけれど、これで良かったんだろうか……)

私は単に母に勧められたものを五十嵐さんに勧めただけだ。

リラックス効果が少なからずあったとはいえ、それが今後も五十嵐さんに作用するかどうかは分からない。

でも、店の外に出る五十嵐さんの横顔は笑顔に充ちていた。

言い様のない高揚感に打ち震えているようだった。五十嵐さんは不安感や焦燥感の鎖から解き放たれたのだろうか。

「雫さん」

扉を開けたまま微動だにしない私を心配したのか宮原さんが声を掛けた。

「あ、すみません。戻りますね」

俯いたままゆっくりと歩く私に宮原さんは不思議そうな視線を向けている。

「どうしました?」

「私の判断は、正しかったのでしょうか?【月夜の森】の売りは宮原さんのコーヒーなのに、余計なことをしてしまったんじゃないかって……」

「別に私のコーヒーを提供しなくちゃならないって店の決まりはないですよ。お客様が何を求めに店に来ているのか、それを雫さんは見極めて飲み物や食べ物を提供することが出来た。誇らしく思うべきですよ」

「そんな、私なんて……ただ、母が淹れてくれたカモミールティーを思い出したからお出ししただけで」

「雫さんは、自分と五十嵐さんの境遇を照らし合わせてみて、似ていると思ったから必要なものを提供できたわけですよね。私には出来ないことだと思います。自信を持ってください」

宮原さんの言葉に私はゆっくりと頷いた。

うまく眠りの世界に到達できない苦しみを共感し、私なりの改善方法を咄嗟に五十嵐さんに言ってみたけれど、喜んでくれたと思ってもいいのかもしれない。

何が正解で何が不正解か分からない。

だけど、五十嵐さんに休むことを享受できない自身の体を厭わないで欲しい。

母にも迷惑を掛けてるし、美波にもきちんと生活のできない社会不適合者というレッテルを貼られてしまっているのだろう。

だけど、これが私であって何とか踏ん張って生きていくしかないんだ。

とても苦しくて辛くても、常にあたりが闇で覆われていたとしても、私はその闇の中でもがきながら生きていきたい。


五十嵐さんの後にお客様は来ないようだったので、宮原さんには閉店時間まで休んでもらうことにした。

宮原さんはショートスリーパーで2,3時間ほど眠れば一日の疲れが取れるらしい。

日中、10時間近く眠り続ける私とは大違いだ。

「雫さん、すみません。もし何か困ったことがあったら遠慮しないで呼んでください」

「はい、分かりました」

宮原さんのいないたった一人の空間に、私は窓を背にしてぼんやりと眺めていた。

しん、と静まりかえっているが何故かと心細さは感じなかった。

窓の外を見ると、あたりは闇に充ちていた。夜風が出ているのか、軒先の木がさわさわと揺れている。

自分の部屋から見下ろす夜の世界はただただ冷たく不安な気持ちを増長させるだけで怖くてたまらなかった。だけど、今はその気持ちが全くない。自分がいても許される夜の世界がここに存在しているからだ。

何てあたたかな夜の光なのだろうか。

ふと床を見ると誇りの塊がふわふわと動いていた。机の下などを見ると、ところどころに埃が溜まっている。宮原さんは日中仕事をしてから夜は【月夜の森】の接客、コーヒーの提供などをずっと一人で行ってきていた。なかなか店内の清掃にまで意識が回らなかったのかもしれない。

(よぉっし―――)

店内をうろうろと歩いているとバケツや雑巾、モップや箒などの掃除用具を見つけた。自ら掃除をしたことがあまりなく、ほとんど母に任せっきりだった。お客様が途切れている今だからこそ、店の中を綺麗にしよう。宮原さんも喜んでくれるだろうし、お客様も気持ちよく寛いでくれるはずだ。

私は母のうっすらとした記憶を手繰り寄せ、まずは箒で店内のごみをかき集めた。モップで拭き掃除をして、窓や机や椅子などを濡れ雑巾で拭いた。

気付くと、掃除に没頭していていつの間にか外が白々と明るくなってきていた。汗でぬめっていた額を手の甲で拭いた。

固い床につけていた膝が少し痛いが、綺麗になった店内を俯瞰的に見やると何だか心まで洗われているようですっきりしていた。

「……おはようございます。すみません、お店をお願いしてしまって」

二階から眠気眼の宮原さんがふらつきながら降りてきた。私が雑巾とバケツを手にしているのを見ると、店内をぐるりと見やった。

「お店が、凄く綺麗になっています……雫さん、掃除をしてくれていたんですか?」

「時間がありましたし、清掃用具もあったので」

「本当にすみません!いつもなかなかきちんと掃除をする時間が取れなくて。後回しにしていたんです。飲食業なのに、良くないですよね」

宮原さんは深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございます」

「宮原さん、私、ちゃんとお給料をいただいてお仕事をしているわけですし。ぼーっと突っ立って店番しているよりも、やりがいがありますし問題ありませんよ」

「そう言ってもらえると助かります。あ、雫さん、少しお時間はありますか?出勤前にコーヒーを飲まないと仕事にならないので淹れるんですけど飲みますか?」

「ありがとうございます。ぜひ」

宮原さんはすっきりとした酸味のあるコーヒーを淹れてくれた。

「ジャマイカ産のブルーマウンテンです。酸味の他に苦みや甘みも感じられるコーヒーなんですけど、今回は時間が無くて中炒りで焙煎をしたので酸味が強いかもしれません」

「でも、凄く美味しいです。飲みやすいですし」

「それなら良かったです」


私と宮原さんは店の外に出た。宮原さんは扉に鍵を閉めるとそのまま会社に向かうそうだ。

「では、また夜の時間に」

「はい、宮原さんも気を付けていってらっしゃい」

私の言葉に宮原さんは目が点になった。

「どうしました?」

「いや、ずっと会社前に誰かにいってらっしゃいと声を掛けられることが無かったので新鮮で……でも、朝にそう言ってもらえると嬉しいですね」

照れながら頭を掻く宮原さんに私は思わずふふっと声を立てた。

「では、行ってまいります。雫さんも、いってらっしゃい」

その言葉に自然と肩の力がぬける感覚が体の中を巡った。宮原さんは疾うに前方を軽い足取りで歩いている。

私はいつの間にか手と手を絡ませて、ぎゅっと力を入れていた。

いってらっしゃい―――

宮原さんはさようなら、やおやすみなさいとは口にしなかった。

そう、夜の世界を駆け抜けた私はまたここからが生きる世界だ。ここからがまた私の一日の始まりだ。

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