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第六話

こいのぼりのパイを食べ終えて宮原さんの淹れてくれたコーヒーを飲んでいると、足元にふわっとした柔らかさを感じた。

テーブルの下を覗くと、そこには金の目をした黒い塊が体を寄せていた。

「ヨル」

名前を呼びと、ふにゃーと返事をしてくれた。

「おいで」

私はヨルを下から救い上げるように抱き上げた。

ヨルは真夜中に浮かび上がる月の光を目に宿していた。

「ヨルはすっかり雫さんに懐きましたね」

「……そうなんですか?」

「ヨルは警戒心が強い猫ですから。この人は近づいてもいいと感じた人にしか懐かないと思います」

「そうなんだね……」

ヨルを膝の上に置き、頭や背中を優しく撫でてあげた。ヨルは黙ってされるがままにじっとしていた。

「雫さん、急なお願いなんですが聞いてもらえますか?」

宮原さんがこちらを真っすぐ見つめて神妙な面持ちでそう言った。

「この【月夜の森】で働いてみませんか?あ、もちろん雫さんのお仕事もありますし、無理にとは言いません。もしくは、週に二日や三日、短い時間帯だけでも構いません」

「仕事は、していません。数年前から、仕事というか外にもろくにも出られない生活をしていて……」

私は何も出来ていない自分が恥ずかしくなって俯いた。

「でも、雫さんは外に出て【月夜の森】に来てくれたじゃないですか」

宮原さんの言葉に私はぱっと顔を上げた。

「勝手な解釈かもしれませんが、雫さんは部屋から外を眺めてこの店の光を見つけて駆けつけてくれたんですよね。大きな一歩を踏み出して探し当ててくれたことは大きな勇気ですよ」

「大きな、勇気……」

そうなのだろうか。ただただ浮かび上がる光に私が入る余地があるのかも分からず、がむしゃらに走って探し当てたこの場所は、私の新しい居場所になるのだろうか。

日の下で生きていけなくても、真っ暗な闇の世界でも、誰かを助けられる存在になり得るのだろうか。

「宮原さん、こんな私でも必要とされるんでしょうか?私は、接客の仕事もしたことがないし、料理もほとんどできません。ちゃんとこのお店の店員として振舞えるのか心配で……」

「私も、人と接するのが苦手です。会社員をしていますが、システム開発なのでパソコンが主な仕事相手なので一日人と話さないこともあります。ですが、雫さんはよくまわりを見て動いて相手がどう感じているかを察してくれているように思います。それは接客をすることにおいて非常に大事なことだと思います」

宮原さんの口にすることは、初めて言われたことばかりだった。

相手の機嫌を損なわないよう顔色を窺いすぎて段々とまわりから人が離れていった。だからといって距離をつめて話そうとすると相手は警戒するし、あるいは自分に好意を持っていると勘違いされる。その誤解を解こうと試みても自分を貶めた傷付けたとなじられることもあった。

今になって、記憶の片隅に置いていた記憶を呼び覚ませてしまった。

それを打ち払うよう目を伏せると、ゆっくりと目を開いた。

「宮原さん、私、ここで働きたいです。でも、それが叶うのかどうかは親に相談してみます」

「……分かりました」

「でも、宮原さんがお店にいらっしゃるのに、何故人を雇うんですか?」

宮原さんは、少し悩むように首を傾けた。

「親の残した書物と土地、それと私の趣味をお客様に楽しんでもらうということでお店を開いたのですがいかんせん本業が忙しくなると疎かになってしまうことがずっと気がかりだったんです。新作のお菓子も色々と試す時間も欲しいですし、ここにずっと居浸ることで娘ともますます疎遠になってしまいますし……」

「宮原さん、娘さんがいらっしゃるんですか?」

私がそう言うとどこか寂しそうに口元を歪めた。

「戸籍上は、娘なんですが、あちらは親とは思っていないと思います」

「―—―?」

「あ、すみません。雫さんに自分の家庭のことを話しても仕方ないですよね」

仕方ないですよね、という宮原さんの言葉に少し傷つきながらもそれ以上は詮索することは止めておいた。

「あ、あの、私―—―」

からからん

すうっとした涼しい風と共にカウベルの音が鳴り、私は思わず目を細めた。

「あれ、お客さん?珍しいね」

響くような低い声に私はドアの方へ目をやった。

カーキ色のジャケットにベージュのズボンを履いた青年が立っていた。

眠いのか目がとろんとしており、大きなあくびをしながらゆっくりとこちらに歩いてきた。

「梶くん、久しぶりだね。試験は終わった?」

「うん、何とか。でもこれからエントリーシートに卒論のまとめもやっていかないと。色々とやることが山積み」

梶くんと呼ばれた青年は宮原さんの隣に座る私に視線を落とした。

「この店に来る奇特な客は俺ぐらいだと思ってたよ」

「失礼だな、でも、昨日から来てくれてるお客さまだよ。早速このお店で働いてくれないかって交渉しているんだ」

「この店で?夜11時から開く店で働くのってきついんじゃないの?」

「あ、でも、まだ働けるか分からなくて。親に訊いてみないと―――」

そう口にすると男性は一瞬にして嘲るような視線に変わった。

「いい大人なのに、自分の意思で働く働かないって決められないんだ?」

「―—―梶くん!」

男性の言葉よりも、急に声を上げた宮原さんに私は驚いて肩を震わせた。

「そういう自分の物差しで相手を判断しちゃ駄目だよ」

「……」

「あ、でも、その通りですから。実際、いい年なのに自分の意思で何も決められないし。変わらなくちゃって思うんですけど、ずっと外に出ることも難しくて……」

二人の視線に私はなかなか言葉を紡げずに下を向いてしまった。

「ゆっくりでいいんですよ。アルバイトのことも、無理だったらお客さまとしていらしてくれればいいし。お菓子のアドバイザーだけしてくれてもいいし、ヨルの遊び相手として来ていただくだけでも構いません」

「ヨル?ヨル来てるの?」

青年はぱっと顔色を変えて言った。

「梶くんはヨルが大好きだからね。でも、あまり頬ずりすると嫌がって逃げちゃうからね」

「……分かってるよ」

青年はテーブルの下や椅子の下とのぞき込み、あたりを歩き回りヨルを探している。

お店に入ってきた時は人が近づいてこないようぴりぴりとした空気を纏っていたが、ヨルと聞いた瞬間にその空気があきらかに和らいだ。

私もヨルがいると気分が高揚するので、その気持ちはよく分かる。

「宮原さん、早速今日帰ったら母に相談してみます。母には色々と人たちと話して色々な世界を知りなさいって背中を押されたんです。だから、きっと分かってくれると思うんです」

「そうですか。それは良かったです。応援してくれる家族がいてくれると心強いですよね」

「はい」

すとんと首元につかえていたものが落ちたようだった。

私は大丈夫。そう言い聞かせて前を見据えた。

コーヒーはすっかり冷めていたけれど、その冷たさが今は火照った体にちょうど良かった。


コーヒーを飲み干すと、私は一刻も早くうちに帰って母に話したかった。

宮原さんは私の表情で察したのか、にっこりと頷いた。

帰る前にヨルに挨拶をしたかったが、先ほどの青年と一緒にいるのか姿が見えなかった。

私は宮原さんに一礼すると、ドアを開いた。

がん

「痛っ」

ドアを開けた先に人の姿があった。

「え、あ、すみません!」

見下ろすと誰か蹲っているようだった。

「……いいよ、俺がドアの前にいるのが悪いんだし」

青年―—―梶さんは私がドアを開けた拍子に少し前に倒れてしまったようだった。膝を軽くはたいてゆっくりと立ち上がった。

宮原さんも背が高い人だったが、梶さんはそれ以上に見上げる形になった。180㎝近くはあるんじゃないだろうか。

私は母や美波よりも背が低く、正確な身長は分からないが150㎝には届いていなかったように思う。

梶さんはヨルを抱っこしていなかった。ヨルは気紛れなので、また夜陰にまぎれてしまったのかもしれない。所在なさげに視線を動かしている。

「……帰るの?」

「え?あ、はい」

「別にまだいればいいじゃん。俺が余計なこと言ったからだよね。初対面なのにごめん」

必死に弁明をしようと言葉を選んでいるその姿に私は何だかおかしくなってしまい、ふふっと笑みがこぼれた。

「あなたの言葉に気を悪くしたとかではないです。私が、早く母にここで働けるように許しを得たくて。許してくれるか分からないけれど、宮原さんが大きな勇気って言ってくれたから。その勇気を示して一歩を踏み出したいんです」

たどたどしく言葉を紡ぐ私を梶さんはじっと黙って聞いてくれていた。

「……親はそんなに厳格な人なの?」

「厳格……?うーん、そういう感じではなくて、特に父に至ってはあまり私を外の世界に触れさせたくないみたいで―――」

「何それ?娘可愛さに閉じ込めておこうみたいな人なの?」

梶さんは理解が出来ない、というように眉をひそめた。

「可愛い?それはないと思います。でも、母は私の意見を尊重してくれると思うんです」

「ふーん」

梶さんはそれ以上は訊いてこなかった。私は安堵していた。

父の存在は私でも説明できない範疇だからだ。

ピコーンピコーン

立て続けて何かの通信音が鳴った。

梶さんはズボンのポケットから何かを取り出した。白い箱のようだった。

「あー……呼び出しだ。俺もそろそろ帰るか」

「―—―あの、その小さい箱、音が鳴ってるんだけど何ですか?」

私の問いかけに梶さんは数秒時が止まったかのように動かなかった。何か失礼なことを言ってしまっただろうか。

「スマホ、だけど……」

「スマホ、ですか。誰かと通信できるんですか?」

「―—―マジで言ってる?」

「うちにはそういう機器はないですし、誰も持っていないので」

「……どんな旧時代を生きてる家庭で育ったんだよ」

「ちゃんと固定電話はありますよ。母しか出ないですけど」

馬鹿にされている感じが否めなかったので、私は精一杯の知識を披露したつもりだった。だけど、目の前の梶さんは理解できない生物に遭遇したかのような表情をしていた。

「家族は、誰も持っていないの?まわりの友人とかは?」

「もしかしたら家を出ている妹は持っているかもしれないですけど……」

「もしかしたらって……」

梶さんは長い溜息をついた。

「信じられないな。そんなに無関心なの?テレビでスマホのCMとか流れるじゃん」

「テレビも、あまり観ないので」

これ以上話していると自分の世界があまりにも狭くて世間知らずでみじめな思いをしそうだったので、梶さんとは一刻も早く不毛な会話を終わらせたかった。

「それじゃあ、失礼します」

私は早口で言うとそのまま踵を返そうとした。

「ちょ、待ってよ」

いきなり手を掴まれたことにびっくりして、私は思わず強く払ってしまった。

「……すみません」

「いや、俺こそごめん。あ、あと、さっきから不快な思いさせててごめん。ずけずけと人の家庭のことに意見をするべきじゃないよな。それがいかにデリカシーがない行為か、自分がよく分かっているはずなのに―――」

「―—―?」

自分に言い聞かせるように呟く梶さんに私は何も言えなかった。

「色々とごめん。もう、俺に会いたくないと思うけど、たまにこの店にも顔を出すこともあるかもしれないけど、また来てやってほしい。もし働けなくても、俺以外にも常連さんはたくさんいるからあなたの話を真摯に訊いてくれる人はいると思う」

「……」

「じゃあ、俺は帰るから。またいずれ会えたら」

そう言うと梶さんは私が来た逆方向へ歩いて行った。最初はゆっくりと歩いていたが、途中から走って闇の中に消えていった。

気配が完全になくなった後も、しばらくはその場に佇んでいた。

そして、すうっと大きく息を吸って長く息を吐くと大きく一歩を踏み出した。

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