第五話
日がとっぷりと沈んでも、なかなか母は戻ってこなかった。
私は仲林有紗という女性の残り香が漂う玄関で、しばらく母の帰りを待っていた。
むせかえるような香りに吐き気を覚えながらも、そこから逃げてしまってはいけないと湧き上がる理性が私を耐えさせていた。
私は二階に通じる階段の一番下に座り、膝を抱えて待ち続けていた。
私の小学校の時は体育座りで通っていたが、今は三角座りという名称らしい。
しばらく体を動かしていなかったせいか、三角座りをしているとお尻の筋肉が痙攣して引きつってくるのが分かる。
昨夜、家から坂を下っている時も何度か躓きそうになったし、現にちょっと人にぶつかっただけで転倒してしまった。
体もなまってきているし、体幹もしっかりしていないのだろう。
小さい頃から私は運動全般が苦手だった。
走ることも鉄棒も、マット運動も、跳び箱も、水泳だって何一つうまくこなしたことはない。
だからといって勉強が出来たわけでもなく、図書室で黙々と本を読んでいる女の子だった。
本を読んでいると、「魔女が黒魔術を学んでるーこわーい」とクラスメイトに言われ、その噂は広がり、私のあだ名は魔女になってしまった。
黒魔術の本を読んでいたわけではなく、魔法を使って手助けをする女の子のシリーズにはまっていたので勘違いをされてしまったようだった。
本の裏表紙に大きく五芒星が縁取られていたのもその噂を増長させてしまった理由かもしれない。
空も飛べない、魔法が使えない黒い服を着続ける大人になった魔女は、自分一人では生活も出来ず、ただ夜を統べる国でしか生きられなくなってしまった。
それが、父の意思であることは薄々気付いていた。
母は、その意思に付き従っているだけなのだと。
仲林有紗という女性も、父の命の下、母に私の監視管理をさせているのだろう。
だけど、私は何もできない魔女のままでいたくない。
私はすくっと立ち上がると急いで階段を上っていった。仕度をしよう。
もう一度【月夜の森】に行き、宮原さんとヨルに会おう。
夢中で箪笥の引き出しから服を探している時、背後からひっそりと近づいてくる影に私は気付くことができていなかった。
「雫」
地の底を這うような低い声に私はびくりと背中を震わせた。
「有紗から聞いたよ。この時間帯に目を覚ましているなんて珍しいね」
ゆっくりと後ろを振り返ると、部屋の電気を着けていなかったせいか中央に佇む人物の顔が窺えなかった。
ただ、見えなくても分かる。
そこに佇むのは、幼少時から知る、大きな闇なのだと。
「―—―」
声を出したくても、声帯を絞められているかのように声が出せなかった。
ひゅーひゅーとかすかな息だけが漏れ出してくる。
「……母さんは、また約束を破ったみたいだね。雫を一人にするなと、あれほど話しているのに困った女だな」
その闇はゆっくりと歩みを進めて距離を縮めてきた。
窓から差し込む月の光に顔の半分が姿を現す。
見慣れているはずの、父の顔。
見慣れているはずなのに、いつまでも脅威であり畏怖でもある存在に変わりはなかった。
「……急に来るなんて珍しいね」
父は小さく首を傾げた。
「父親なんだから、家に帰ってくることくらいおかしなことじゃないだろう?」
「そうだけど、仕事で忙しくてあまり家に帰ってくることがないから……」
父はにっこりと笑みを浮かべ、
「たまには娘と直接話して交流をはかりたいと思うことは父親の本分だろう?」
と口にした。
本分―—―
本当に父にとっての本分はそうなのだろうか。
交流ではなく、確認なのではないだろうか。
私が黙っていると、父はふといくつか引き出しが開けっ放しになっている箪笥に目をやった。
「どこかに、出かけようとしていた?」
私はぎゅっと服を掴んでいた手に力をこめた。
父は呆れたように大仰にため息をついた。
「……母さんがいないのに、駄目じゃないか。外の世界は闇や汚れに充ちている!有象無象がはびこっている!それを君は、自分で体感したんだろう?」
「私が―――?」
「……もういいよ。僕には時間が限られているんだ。こういう処理に僕自身が駆り出されるのは非常に困るんだよね」
そして、父は手の平を私の目を覆うようにかざした。
「雫、俗世への関与は控えて、おやすみ―――」
ちく、としたかすかな痛みを首の後ろに感じた時には、目の前の父は歪んでいた。
手足の力が抜けていき、私はいつの間にかいつもと同じ暗く冷たい闇の底に沈んでいた。
ごとん、という強い力に押し付けられるように私は闇の底に落とされた。
誰かが後頭部を強く掴み、何の慈しみもなくその身を放り出され、私は声を上げることも出来なかった。
いつもはひんやりと心地よいほどの暗い昏い闇の底は、静謐で傲慢な欲がにたりと口を広げて私を待ち構えているようだった。
怖い怖い怖い―――
私は夢中で空を掴もうともがくが、それは徒労に終わり、どんどんと底のさらに仄暗い底の底へと誘われていくようだった。
《雫―—―》
誰かが呼ぶ声が聞こえる。
呼ぶ、声、誰を?
雫って、私の名前だった?
「―—―雫!」
覚醒させるのには十分なくらいの強い声に、私ははっと目を覚ました。
「大丈夫!?何かされたの?」
私が返事をせずにいると、母は私の様子に何か気付いたようだった。
「白檀の香り……あの人がこの家に来たのね?」
今まで見たことのないような悔しさに唇を嚙みしめる母に私は戸惑いながらもこくりと頷いた。
「雫、ごめんなさい。あなたを遅くまで一人にしてしまったせいね」
母はぎゅっと力強く私を抱きしめた。
「ごめんなさい、雫。でも、もう少しなのよ。もう少しで、あなたを助けられる……」
「お母さん……?」
母は顔を上げると、私の後方にある箪笥に目をやった。
箪笥の引き出しはいくつも開けっ放しで服も数枚あたりに散らかっていた。
「そう、雫は出かけようとしていたのね。昨日と同じ場所に」
「どうして分かるの?」
「分かるわよ。ずっと、守ってきたから」
母はじっと私を見つめると、何かを決心したように目を伏せた。
「……行ってきなさい。いえ、近くまでお母さんも行くわ。そこからは雫の好きにしなさい」
「いいの?」
「雫のように夜にしか生きられない世界もあるのよ。だったら、そこから無理やり脱しようとして自分を曲げることはない。その限られた世界に順応していけばいいのよ」
何年ぶりだろうか。
私は母と手をつないでゆっくりと夜の街を歩いていた。
母は遠くを見据えながら、足取りを合わせてくれていた。
私はまだまだ母の子供なのだ、と思うと何とも気恥ずかしい思いが湧き上がってきた。
昨夜はただ光の在処を夢中で無計画に探し回っていたが、今日は隣に母がいて、私はほんのりと浮かび上がる光の道を辿るだけなので心が急かされることはなかった。
母がいる心強さを感じたのも久しくなかったかもしれない。
「あ、この角を曲がった先の住宅地の中にあるの。【月夜の森】っていうブックカフェだった」
「そう―――」
母はぴたりと歩みを止め、私をゆっくりと見据えた。
「私は家に戻るけど、雫は納得するまでそこにいなさい。そこで、色々な人たちと色々な話をしてきなさい。今は闇の世界でしか生きられないかもしれないけど、そこには一筋の光が必ずあるって知ることが出来ると思うから」
「……うん」
「いってらっしゃい」
私は母の手を放し、そのまま前だけを見つめて歩き出した。
後方からは母の視線を感じているが、虚空を張り付けるような冷たいものではなかった。
隣には母はおらず、私一人だ。
だけど、自分を待ってくれている空間があると思わせてくれるだけで温かくて強い気持ちを手に入れられる。
からん
ドアを開くと同時にドアベルが鳴った。
昨日は付いてなかったように思えたが、雫はそのままゆっくりと店の中に入った。
音に気づいたのか、入り口付近から宮原さんが顔だけをひょこっと覗かせた。
「雫さん?来てくれたんですね」
「はい」
宮原さんの嬉しそうな声に、私の背筋にも力が入った。
「ドアベル、付けたんです。お客様が来ないだろうと仕事に没頭しちゃうと来客に気づかないことが多くて……」
宮原さんはお盆に何かを乗せて運んできた。
「今日は冷凍のパイシートでパイを作ってみたんです。こどもの日は過ぎちゃったんですけど、こいのぼりを象ってみたんです。良かったらいかがですか?」
「頂きたいです」
私は中央の席に着いた。
「昨日は遅くなっちゃいましたけど、大丈夫でしたか?」
「あ、大丈夫です。怒られることもなかったですし」
「そうですよね。雫さんも大人の女性ですものね。おうちの方もそう干渉はしないですよね」
「干渉……」
干渉、父が行っていることは行き過ぎた干渉なのだろうか。
「こいのぼりにキウイやバナナ、黄桃やみかんを乗せているんです。果物のアレルギーとかは大丈夫ですか?」
「果物は全部大好きです」
こいのぼりの目玉がこちらを見上げているようだった。
「こいのぼりの目玉はホイップクリームですか?」
「あ、そうです。クリームの上にチョコレート菓子が乗せてあるんです」
こいのぼりをフォークで刺す時に罪悪感を感じながらもそのままはむっと口に入れた。
「……美味しいです。チーズの味もする」
「マスカルポーネチーズもパイに挟んでいるんです」
こいのぼりはチーズの酸味とクリームの甘さにさくさくのパイの食感でとても美味しかった。
「来年はもっと早めにこいのぼりスイーツを考えないとですね。ロールケーキなんかも試作してみたいですね。雫さん、また味見してもらえますか?」
「ぜひしたいです」
来年の今頃もこの【月夜の森】に私は出入り出来ているのだろうか。
未来のことは分からない。
けれど、宮原さんと食べるこいのぼりパイの味を私は忘れないだろうと思う。