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第四話

私はヨルを抱きかかえながら小さく手を振る宮原さんに大きくお辞儀をすると、そのまま人気のない闇の中を歩き始めた。

左右から行く手を阻むかのように身を押し込んでくる大きな闇の渦は、容赦なく私の頬を撫でる。

だけど、それを払うことを私はもう厭わない。

先の見えない闇の彼方に、一片の光が灯っていることを知っているからだ。

宮原さんに、ヨルに、出会えた。

その真実だけが、闇の中を突き進む私の力になっていた。

今後また、父の許可が下りるか分からない。

母の虚ろな瞳に、私の今夜の行動が吉とであるか凶と出るか、それによって光が映し出されてくるのか今は分からない。

これから私は繭の中で意識を閉ざし闇に包まるのだろう。

だけど、次に目覚めた時にあたりが闇に染まっていたのだとしても私はもう怖くはない。

闇の中でしか生きられないのが、息をするのが私だけではないからだ。

そのことが分かっただけでも、今夜思い切って外に飛び出して良かった。

今度、美波が家に来た時に話してみようか。

父が管理し、それに付き従う母のいるこの家に今も住まう私の目を見て話を聞いてくれるだろうか。

この先、これから未来、まだ見ぬ将来―—―

私は、闇の中でも少しでも光を灯しながら、ゆっくりゆっくりと生きながらえているのだろうか。


私は家の鍵を持たされていない。

出かける際には何度も何度もあたりのドアを開けたり閉めたりを繰り返し、入り口のドアの施錠も何度も引っ張って確認する母がドアを開けておくことはないだろう。

私はふうっとため息をつき、階段の上のある茶色のドアを見上げた。

階段を一段上ったところで、かちゃと鍵が開く音がした。

「おかえりなさい、雫」

「……お母さん、起きていたの?」

「寝ている途中で起きちゃっただけよ。早く中に入りなさい。夜が明けてしまう」

「うん……」

玄関の三和土に足をのせると、リビングに続く廊下がいつもよりひんやりと冷たさが含んでいるように感じられた。

人気の感じられない無音の空間。

「お風呂にお湯残っているから、入るなら追い焚きしてからにしなさいね」

「ありがとう」

母はリビングに入っていった。

私はゆっくりと階段を上って行った。

母は美波の隣の部屋の寝室で眠っている。父がいた頃も、母は父と寝室を共にすることはなかった。

ふと、母の寝室を覗きたくなり、私はゆっくりとした足取りでドアの前に来た。

普段、母は寝室に鍵をかけているが今日は掛けていなかった。

ドアを開くとベットと小さな机と椅子、奥にはクローゼットが置かれている。

小さい頃、美波と家の中でかくれんぼをした際にこのクローゼットに隠れたことがあった。クローゼットの中には小さな写真立てが服に覆い隠されるように隅に転がっていた。

見てみると同じ背丈の男女が三人仲良さそうに笑顔を浮かべながら肩を組んでいた。

母らしき女性が口元を大きく開けて楽しそうにピースをしているのを見てとてもびっくりした。

母は昔から淡々と家事育児をこなし、この家を守り、ほとんど笑った顔を見たことがなかったからだ。

父がたまに家に顔を見せる時はさらに一通りの表情だけを見せるよう顔に鍵を掛けているかのようだった。

美波がおねーちゃーん、こうさーんと声を上げているのを聞いて、私はクローゼットから飛び出した。

その時、部屋の扉から覗く母と目が合い、私は恐怖のあまり体を後ろに仰け反らしてしまった。

部屋のドアを閉めて、駆け寄ってきた母は私の肩を掴んで言った。「何も見てないわよね」と。

私は勢いよく何度も何度も大きくうなづいた。

母は納得したのか分からないが、幼少時の私から見た母は何かにとても怯えていた。

「お母さん、お母さん、ごめんなさいごめんなさい」

泣きじゃくる私を母はそっと抱きしめてくれた。

そして、「クローゼットの中身は、雫とお母さんだけの秘密よ」と耳打ちした。

その時から母の部屋は変わっていなかった。

そして、階下の廊下のようにひんやりと涼しさが感じられた。

私は怪訝に思い、母の布団に近づいた。枕もシーツも先ほどまで寝ていたと話す母の体温は微塵にも感じられなかった。

「お母さん……」

リビングで私の帰りを待っていてくれたのだ、と分かると涙があふれてきて仕方なかった。


いつもなら微睡む程度の眠気しか訪れないのに、今日に限っては猛烈な眠気に襲われてしまった。

お風呂に入る余裕はなさそうなので、今日はこのまま寝てしまおう。

母は相変わらずリビングに籠っているのか二階に上がってくる気配はなかった。

私はゆっくりと自分の部屋に入ると後ろ手でドアを閉めた。

部屋の端に中学生ごろから使っているベッドが置かれている。幼少期は一人で眠るのが心細くて母に大きなぬいぐるみをたくさんねだって買ってもらい置いていた。

今は心細いという感覚はなく、ベッドにはぬいぐるみは一つも置かれていない。

薄汚れてきたぬいぐるみは捨てて、比較的綺麗なものは美波にあげた。美波が家を出て行った時に持って行ったのか処分をしたのかは分からない。

でも、ヨルを抱っこした時のぬくもりが温かくて、抱き上げた時に無性にきゅうと胸が締め付けられるようだった。

あの温い柔らかな存在がいとおしい。

いい年した大人が黒猫のぬいぐるみが欲しいなんて話したら、母は目を大きく開いて鉄壁な表情を少しは崩してくれるだろうか。

そんなことを思いながら私はベッドに転がると、すぐに自分を包んでくれる闇の世界へと抱かれていった。


「そうです。ええ、あの子はすぐに帰ってきましたので問題ないかと思います。少し膝を擦りむいていたみたいですが……ええ、病院には連れて行っておりません。ご安心ください」

ぼそぼそと小さく呟かれる声にうっすらと目を開くと、まだ太陽は中天に差し掛かっている時間帯なのか窓から燦々と日差しが入り込んでいた。

レースカーテンも開けっ放しだったようで部屋には暑さがこもっていて汗ばむほどだった。

部屋にこもる暑さからなのか、誰もいないひんやりとした闇の世界の冷たさの怖さからなのか、気付かないうちにびっしょりと汗をかいていた。

ベットの脇の時計を見やると13:45を差している。

いつもなら夕方か夜くらいまで目が覚めないのに今日は珍しい。

二度寝を試みるも妙に目が冴えてしまい、私はゆっくりと体を起こすとベットに腰かけた。

ベットに小さい頃から使っている机や椅子。わずかな服しか仕舞われていない箪笥。

この部屋はずっと時が止まっているままだ。

でも、それは無機質でありながら優しさを隠す母のせいでもなく私自身がそこから動こうと努力をしないからだ。

ぎゅっと服の袖の部分を強くつかみながら忸怩たる思いをかみ殺す。

お風呂に入り忘れたことを思い出し、私はひとまずシャワーでもいいからすっきりしようと思い立った。

箪笥の引き出しを開けると黒のシャツや黒のズボン、スカートと黒のものばかりが溢れている。

昔から私は黒い服ばかり着ている。

それは私の意思ではなく、母、むしろ父の意思を反映したのだと思う。

小さい頃から汚れにくいという理由を元に、私にも美波にも黒い服がたくさん用意されていた。

小さい頃の私たちはそれに抗う理由もなく、用意された服を着続けた。

いつからか、小学生の頃になると女の子たちは着ている服がその子本来のステータスの証となってくる。

『雫ちゃんは何で黒い服ばかり着ているの?』

低学年の内は「親が用意してくれるから」という言い分で相手は大体は納得してくれる。だけど、中学年から高学年にもなるとそういう理由は通用されなくなってくる。

親の意思でしか動けない、自分の意思が弱い面白くもない女の子―—―

それに一歩大きく動いたのは美波だった。

『もっと淡いピンクやブルーの可愛い洋服が着たい』

母は一瞬悲しそうに眉尻を下げるも、美波の意思を尊重させなかった。

特例は許されないとばかりに首を縦に振らなかった。

美波は悔しそうに苦しそうに唇をかみしめた。

それを傍から私は見つめていたが、胸を搔きむしる程の悔しい思いをしたくなかったので黙って黒い服だけを着続けた。

ある時、美波が学校帰りに楽しいそうに大きな紙袋を抱えて帰ってきた。

『お母さん、お姉ちゃん、見てみて!』

紙袋を勢いよくさかさまにすると、中からフルーツや花柄のワンピースやフリルのついた華やかなシャツ、この家では見かけたことのないキラキラした世界が潮が満ちるように広がっていった。

『近所の奥田さんが結婚して家を出てった娘さんの小さい頃の服がたくさん余っているからどうぞってくれたの!私、こういう服が着たかったの。お母さん、いいでしょう?』

確かに華やかで今まで着ていた黒で無地の服とは大違いだった。

だけど、満面の笑みを浮かべていた美波の顔が急に途切れた。

見上げた先の母は能面のように無表情だった。

『……勝手にしなさい』

それだけ言うと踵を返し、リビングに消えていった。

私は俯く美波とリビングに行ってしまった母とをおろおろと交互に見やることしかできなかった。

美波は何も言わず、私に黄色のTシャツとフリルのついたスカートだけ渡してくれた。

そして、後日、ゆっくりと呟いた。

『外で着るとお母さんが悲しむから、家の中でおままごとをするときにだけ着よう。それなら問題ないよね』

私はこくりとうなづいた。


服を持って下に降りるとしんと人気がなく、物音ひとつ聞こえなかった。

玄関を見ると、母の靴が無かったのでどこかに買い物に出かけているのかもしれない。

私は脱衣所に入り、ゆっくりと服を脱いでお風呂に入った。

簡単に頭や体を洗い、シャワーを浴びて上がった。

洗面台に映る化粧気のない覇気のない顔をぼんやりと見据える。

一度も染めたことのない黒髪が肩に掛かるくらいまで伸びている。

私の髪の量は多く、六月の梅雨の時期に入ると膨らんでしまいなかなか髪が整わなくなってしまう。

美容室に行きたい気がするけれど、昼夜逆転の生活をしているため美容室の営業時間が過ぎていることが多く難しい。

かちゃかちゃ

鍵が開く音がする。母が帰ってきたのかもしれない。

わしゃわしゃと髪を急いで拭くと、洗面所の扉を開けた。

「……あら、雫さん?」

胸くらいまでの栗色の髪をふんわりと巻き、体の形を強調させる黄緑色のワンピースを着た女性が白地の傘を畳んでいるところだった。

「5月なのに昼間から凄い日差しの強さですね。それにしても、この時間帯に雫さんが起きていらっしゃるなんて珍しい……菜月さんはご在宅ですか?」

「……母は、たぶん出掛けています」

タオルを掴む私の指は小刻みに震えていた。

私の名前、母の名前を知っているこの女性は誰だっただろうか。

しかも、何の遠慮のなく、この家の鍵を使って玄関にまで入り込んできているこの女性は誰なのだろうか。

「あら、お忘れですか?お父様の秘書の仲林有紗です。本日は菜月さんにお話があってお邪魔したんですけど……いらっしゃらないなら仕方ありませんね。今日お伺いすることは話していたんですけど、日を改めますね」

訝し気に見つめる私に気づいたのか、仲林有紗と名乗る女性はにこりと営業向けの笑みを浮かべ、

「ますますお父様に似られてきていて、嬉しい限りです」

と口にした。

その言葉の意味を問いただす隙を得られるまま、仲林有紗という女性は「お邪魔しました」と言い、出て行ってしまった。

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