第二十八話
久々になってしまいました。
どのくらいの時間が経過したのだろうか。
額を床に打ち付けたまま泣き崩れた私は、稀有なことにそのまま意識を手放していたらしい。
顔を上げると、何だか額がひりひりしている。
立ち上がろうとしても太ももに力が入らず、そのままうつ伏せで仰臥した。
床のひんやりとした感触が体全体を包み込んでいる。絶望な気持ちを逸らせないよう、制止をかけているようだ。私はそのままぎゅっと強く瞼を閉じた。
そして、ふと、私が一週間後にすんなりと【光の苑】に戻れるよう、乾さんとかが伯父さんの主治医である加賀見先生に母を足止めしてもらうよう連絡を入れたのかもしれないと邪推をしてしまう。
加賀見先生は、病院に行った時に一度だけ会ったことがあるが、頼先生のように私の気持ちを優しく聞いてくれるような雰囲気を感じなかった。そして、今思えば頼先生も確か加賀見という苗字だったような気がする。親戚や血縁関係のある先生なのかもしれない。
そして、加賀見先生は父の指示の下、依月伯父さんの生死の権限を握っているということだ。つまりは、【光の苑】の協力者ということになる。
(だったら、伯父さんの脳波に反応があったなんて、嘘なのかもしれない―――!)
私は慌てて匍匐前進で床を這いずった。階下の電話で美波に連絡を取り、母に虚言の可能性があるよって、伝えないといけない。
でも、あの希望に溢れていた母の表情を思い出すと、這いずる力が一瞬にして強張り、すぐに体全体に虚脱感が生じてしまった。
母の気持ちを貶めて、家に固定させるのは、私のエゴでしかないんじゃないだろうか。
今までだって、父の脅しや私の監視で何年も何年も自我を押し殺して生きてきたのは何を隠そう母自身だ。それを私は知った上で、真実か嘘か分からない情報を与えて、母を更に絶望の底への沈めるのは本当に正解なのだろうか。
それに、仕事で忙しい美波にも大いに迷惑を掛ける。
そのまま私はしばらく体を床に預けていたが、ゆっくりと上半身から体を持ち上げた。
「……仕事に行く準備をしよう」
一週間、母が帰ってこなかったらそれはそれで仕方ないことだ。明日帰ってきて少し仮眠を取ったら、この家を掃除して綺麗にしよう。
それが、せめてもの、私の罪滅ぼしだ。
今夜はこのまま悶々と考えていても悪い方向にしか気持ちが落ちていかない。それを続けるのであれば、【月夜の森】に行って宮原さんやお客さんたちに会いたい。
限られた日数の中で、精一杯のおもてなしをしたい。それが、今私の出来ることだと思うから。
真っ暗な闇の中をゆっくりと歩く。いつもは気持ちが高揚して仕方がないのに、体も足も鉛のように重くて、なかなか歩を進められない。
【月夜の森】に行きたくて仕方のないはずなのに、あと数日しかこの道をたどることが出来ないのだと思うと、自然と涙腺が緩んでくる。
私は涙が溢れてこないように、ぐっと空を見上げながらゆっくりと歩いた。坂を下りきるまでは足元に注意しよう。
からん
店内に入ると、キッチンの方からひょこっと長い黒髪の女の子が顔を出したので、私はびっくりして後ずさりをしてしまった。
そして、その女の子の顔の上から宮原さんがひょこっと顔を見せた。
「雫さん、こんばんは。すみません、聖良が、店を手伝いたいっていうものだから来てもらっちゃいました」
「あ、聖良……ちゃん!初めまして、このお店で働かせていただいている雫です」
慌てて頭を下げると、「えええと」と聖良さんの慌てたような声が聞こえた。
「あ、宮原聖良です。気の利く、温かい素晴らしい女性がお店に入ってくれたって、大貴さんが話しているのを、聞いてて、一度ちゃんとお会いしたくって」
恥ずかしそうに気持ちを伝えようとする聖良さんに、むわむわーと庇護欲みたいなものが心の底から湧いてくるのを感じた。
(とてつもなく、可愛らしい―――!)
「し、雫さん、何か顔が蕩けてますよ!」
宮原さんの声に、私ははっと我に返った。
「あ、すみません、あまりにも聖良ちゃんが可愛らしくて、よ、よだれまで出ちゃいました」
急いで口元を拭うと、目の前の聖良ちゃんと宮原さんが大袈裟なくらいに笑い声を上げていた。
「し、雫さん、よだれって、ちょ……っ笑わせないで下さいよ!」
ひいひい言いながら壁にしだれかかる宮原さんの姿に、口元を抑えながらハーフスクワットを無意識に繰り返している聖良ちゃんを私はきょとんと見つめているしかなかった。
その後、何とか二人をなだめながら業務を再開した。
お客さんが来るまではカフェの本を読んでいたいという聖良ちゃんと離れ、宮原さんはどこか愛おし気に聖良ちゃんを見ながら私をキッチンまで促した。
「―――聖良なんですけど、実は今高校生になったんですが、ほとんど家にいるみたいで、久々に外に出たのが【月夜の森】らしいんです。まぁ、不登校、ですよね」
小声で話す宮原さんに、私は小さくうなづいた。
「ずっと、両親のことは聖良に任せっきりにしていました。以前、母に痴呆の症状が出ていると聞いてから、病院の通院の手伝いなどはしていたのですが僕があまり息子として接していたら聖良の存在が有耶無耶なものになるのではないかと危惧していたのです。つまり、彼女を居場所を僕が奪ってしまうのではないか、と。だから最低限の補助しかしませんでした。だけど、母の排他意識がどんどん強くなっていったみたいで、気づいた時には父が手が追えないくらいに二人の関係は悪化していました。今、母は通院から施設に入院しています。聖良は、母との関係を向上させるために模索していましたが、暴力も振われていたみたいで、父にはしきりに謝られました。僕が、子供みたいに自分の居場所がなくなるということで聖良に嫉妬して、目を背けてしまったことが元々の原因です。今は、なるべく父と聖良の元に居ようと実家に戻っています。でも、聖良は元のように学校に通えなくなってしまいました。母を施設に押し込んで、自分だけなかったかのように普通の生活を送ることに罪悪感がある、と言うばかりで、直接の原因が母のことかは分かりません。でも、彼女は大きな心の傷を負ってしまった、それは確かなんです。でも、少しずつ彼女の居場所を作ってあげたいと思い、週に二日か三日ほど、この店でリハビリを兼ねて出てみないかと提案しました。さっき、雫さんと話していて、あんなに楽しそうに笑う聖良は久々に見ました。雫さんがいてくれれば、今後聖良もきっと、前のように過ごせるようになってくれるかもしれません」
宮原さんは希望を秘めた笑顔を浮かべた。
だけど、その希望に、私は寄り添えない。
「宮原さん、ごめんなさい。私は、聖良さんと宮原さんの未来にいることが出来ません。一週間後、私はこの街を出ることになったんです。だから、【月夜の森】を辞めさせてください」
「―――え?一週間後?」
希望にあふれた宮原さんの表情が一気に凍り付いた。
「急な申し出で、本当にすみません。実は、昨日急に決まったんです。ここから遠く遠く離れた場所に、家族と引っ越すことになりました」
「雫さん、もちろん、あなたの言うことを疑っているわけじゃないんです。だけど、僕は実は雫さんのお母さんに雫さんのお店での様子を逐一電話で知らせていたんです。それは、あちらの要望でもあったので。だけど、昨日の夕方くらいにお電話した時には、そんなことを一切聞きませんでした。決まったのは、昨日だったんですよね?」
疑っていないと言いながらも、宮原さんの目は明らかに疑っているのが明らかだった。母と宮原さんが定期的に連絡を取っているのは知らなかった。普段、私が寝ている時間帯に連絡を取っていたのだろう。
「はい、昨日です。だけど、母から事実を知らせるよりは、雇っていただいている私から事実を伝えるべきだと母も考えたんじゃないでしょうか」
私はしっかりと宮原さんの目を見据えながらはっきりと伝えた。しばらく宮原さんと見つめあっている形になったが、私は自分からその目を逸らさなかった。だって、決して嘘じゃない。私が遠くの街―――【光の苑】へ行くことを決めたのは、確かに昨日のことなのだから。
むしろ、宮原さんの電話の相手である母が、その事実を知らないままなのだ。
ふっと息を吐き、最初に目を伏せたのは宮原さんの方だった。
「雫さんの意思は、よく分かりました。遠くの街に、行くんですね。折角雫さんのコーヒーを淹れる技術も上がってきたし、もっと雫さんのコーヒーを飲みたいと思っているお客様は多いと思いますよ。それは、僕もです」
「……本当に、すみません。だけど、聖良ちゃんが【月夜の森】にいてくれるようで、安心しました。宮原さんから聖良ちゃんにコーヒーの淹れ方を伝授したら、彼女はあっという間に私の技術を抜いちゃうんじゃないかなぁ。うん、そうですよ、きっと」
明るく言葉にすればするほど、声が擦れそうだ。涙腺がじわじわと緩んでくる気配がして、私はぐっと唇を噛みしめた。
「―――雫さんがいなくなると、寂しくなります」
宮原さんの言葉に、決壊が崩れた。そのまま、目から温かな水がこれでもかと溢れてくる。拭ったところでどうせ止まらないのだから、私はそのまま放っておいた。
「雫さん、失礼しますね」
気付くと、宮原さんの胸の中にいた。
「……あとで、梶くんに謝っておきます。涙の止め方を、知らなくて、こんな形でごめんなさい」
私はふるふるとそのまま首を振った。
「雫さんが、【月夜の森】に来てくれて、本当に良かった。一緒に働いてくれて、どんなに感謝しているか分かりません。あなたの言葉に、笑顔に、どれだけの人が救われたか分からない。それは、僕も同じです」
宮原さんは私に一切触れなかった。ただ、胸を貸してくれただけだった。
「一週間、悔いのないよう、ここで過ごしてください。何か作りたいものがあるとか、やりたいことがあるとか、そういうことがあれば何でも言ってください……」
言葉尻は擦れるような声で、私は小さくこくこくと頷いた。
「そうですね、だったら―――」
「お客さんたちを交えた、パーティ?え、楽しそう!」
「時間帯も時間帯だから、本当にこじんまりとしたお茶会みたいな感じなのを開けたらなぁって。聖良ちゃんにも、手伝ってもらっていいかな?私、あと一週間でお店を辞めちゃうから」
「―――え?」
嬉しそうな表情から一瞬にして暗くなる聖良ちゃんに申し訳なく思いながら、私は寂しさを出さないようにこりと精一杯の笑みを口元に浮かべた。
「でも、このお店は宮原さんと聖良ちゃんで切り盛りできそうだし、私がいなくなっても大丈夫だと思うの。ごめんね、折角聖良ちゃんとこのお店で働けると思ったのに」
「え、でも、たまには顔を出してくれますよね?大貴さんだって、雫さんに会いたがっていると思います」
「うん……でも、遠い遠い街に移住することになるから、頻繁にこっちに戻っては来れないと思うんだ。本当に、ごめんね。あ、だけど、コーヒーの淹れ方だったり、お菓子の作り方だったり、接客だったり、私が宮原さんから受け継いだことを少しでも聖良ちゃんに伝えていければと思うの。短い間になるけど、よろしくね」
「わかり、ました……」
悲しそうに目を伏せる聖良ちゃんに、申し訳なさを感じながらも、これからもずっとこのお店で働ける環境が用意されていることに一抹の妬みの感情が浮かび上がってきた。聖良ちゃんは、学校に行けなくて苦しんでいて、少しでも元の生活に戻れるようリハビリを兼ねて【月夜の森】で働いているのに。その苦しみを、私は理解をしてあげるべきなのに。私は私のことしか考えていない、傲慢な大人なのだ。
小さなお茶会は三日後に開催されることになった。
五十嵐さんや【夜の教室】の僚介さんを始め、悠くん、香音ちゃん、朔太郎くんたちにも招待状を発送することにした。里穂子さん―――朱夏さんは送っても、多分顔を出してくれないだろう。有沙さんや乾さんにも送ったら来てくれるだろうか。
そして、千紘くんや千里ちゃん、ゆみ子さんにもぜひ来てもらいたい。
梶さん宅から帰る際に、ゆみ子さんからメモを渡された。四つ折りの紙をあらためて開くと、何かの番号が記載されていた。
多分、ゆみ子さんか、千紘くんのスマホという箱状の連絡機器に連絡が出来る番号なのだと思う。
宮原さんから休憩を貰い、私は【月夜の森】を出た。
店を出て少し歩いた先に公衆電話の光が煌々と見える。公衆電話の使い方は宮原さんから教えてもらった。
梶さんの家の場所は覚えているが、もし私が行ったことが【光の苑】に知られて、何らかの攻撃を受けるかもしれない。自宅や【月夜の森】から連絡は出来るけれど、盗聴されている可能性がある。
すーはーと大きく息を吸って吐いた。
自分から電話を掛けるという行為自体、初めてだ。
私は心を落ち着かせてから、紙に書いてある電話番号をゆっくりと打ち始めた。




