第二十六話
「待って!雫さん、行っちゃだめだ。行ってしまったら、もう―――」
「千紘くん、それ以上は言っちゃダメだよ。言霊になってしまうから」
私の言葉に、床に転がりながら千紘くんははっと表情を変えた。
「このままじゃ可哀そうだから、拘束を解いていいですよね?」
里穂子さんだった人の目を見据えながら言うと、彼女は不貞腐れたように後頭部をかいた。
「まぁ、そのままその男と逃亡したりしなければいいですよー逃亡したりしたら、白井ゆみ子と梶千里がどうなるかは分かっているとは思いますけど」
「私は、逃げたりしないわ」
ゆっくりと、それでいて強く言葉を紡ぐと、彼女は拍子抜けしたようにこちらを見た。
「ゆみ子さん、鋏とか借りても大丈夫ですか?」
私の言葉にゆみ子さんはこくりと小さく頷くと、キッチンから大きめのキッチンバサミを取り出した。
私は白い柄の部分を握ると、そのまま千紘くんの両腕を拘束している長縄のようなものをばちんと切った。
自由になると、千紘くんは私の腕を取ってぐっと引き寄せようとしたが、私は彼の胴をとんっと強く押してそれを拒んだ。その反動で千紘くんは少し後ろに転がりかけて、ショックを受けたような表情をしていた。
私は「ごめんね」と小さく呟くと、そのまますくっと立ち上がり、彼女と対峙した。
「お待たせしました、行きましょうか」
「ふーん、なかなか肝の据わった御巫さまじゃーん」
にやっと笑みを浮かべ、私は彼女と一緒に外に出た。
千紘くんは追いかけてこなかった。でも、それは想定内の話だったので、これでよかった。これで彼が追いかけてきたら、今度は目の前の彼女がアパートの階段の上から蹴落としそうな気がしていたから。
里穂子さんだった人は、無言で歩き始めた。
そして、私は弁当箱を千里さんに渡したままだったことを思い出した。手ぶらで帰ったら、母に心配を掛けてしまうだろうか。
でも、千里さんに食べてもらいたかったのは事実で、弁当箱を彼女に手渡したのは私だ。弁当箱自体は戻ってこなくても仕方がない。けれど、千里さんが嬉しそうに頬張る姿をこの目で見たかった。
里穂子さんだった人は里穂子さんだった時は長い髪を下ろし、どちらかというと長いスカートを履いて明るい色の服は避けていたように思う。だけど、目の前の彼女はピンクの髪留めをし、蛍光イエローの服に短すぎるくらいのパンツを履いている。服の印象が180度も変わると、里穂子さんの印象が少し残りつつも、もはや別人のようだった。
それに、私に向ける視線も違いすぎる。
温かく柔和な視線を向けていてくれていた彼女が、今や人を人とも思えない冷たく蔑んだ光をその目に宿している。
その落差に、正直かなり気持ちが落ち込んでいる。
「―――あっ」
声色に明らかに嬉しさが混じっている。彼女はその場から一気に駆けた。
目の前に見覚えのある女性が傘を手にして佇んでいる。
「有沙さま!」
「朱夏、あまり乱暴なことはしていない?」
見えない尻尾を振るかのように、朱夏と呼ばれた女性はぐるぐると周りをまわってじゃれているようだ。先程の彼女と対応が違いすぎてびっくりしている。
有沙さんはいい子、とばかりに女性の頭を撫でると、そのままこちらに歩を進めた。
「雫さん、急にごめんなさいね。乾から、少し看過できない思想に陥っていると聞いたものだから。この子、あ、朱夏というんだけど諜報部の人間なんです。分かっていると思いますが、以前【月夜の森】にお客として潜入させたのも、私です。少し、行き過ぎると乱暴を働くところがあるので心配していたんですけど、大丈夫でした?」
「……えぇと」
ちらり、と有沙さんの後方でこちらに鋭い視線を向けて佇んでいる彼女の姿が目に入る。余計なことを言うな、という意思表示に間違いないと思う。
「大丈夫でしたよ」
「大丈夫じゃ、なかったんですね。今の逡巡でそれくらい分かります。すみません、あれでも大分おとなしくなった方なんです。梶さんたちには後に謝罪をいれさせます」
「―――私は、悪くない!」
悲鳴のような甲高い声があがった。
「だって、梶がそいつを連れて行ったんだし、すんなりと返してくれるわけないんだから、強硬手段を取るしかないじゃん!」
「―――朱夏」
ざらりとした感触の冷たさがあたりに広まり、朱夏さんは、びくりと体を震わせた。
「二つ、訂正することがあるわ。私は雫さんを連れてきて欲しいとは言ったけれど、周りの人たちを傷つけてとは言っていない。それが、私たちの組織の印象にも関与すると、考えつかないの?それに、そいつと呼ぶことは今後許しません。雫さんは、私たちの残された希望、それを愚弄することは万死に値すると認識しなさい」
今まで、見たことのない有沙さんの凛として冷たさを持ち合わせた姿に私はその場から動けなかった。そして、それを一身に受けた朱夏さんは、両目から滂沱の涙を流し、その場にうずくまった。
「ごめんなさい、雫さん。朱夏が失礼を致しました」
「いえ……」
「朱夏、あなたは帰って自分の仕事を全うしなさい。私は、雫さんを家までお送りします」
「―――はい」
朱夏さんはうずくまったまま、頭を上げなかった。
有沙さんと共だってその場を離れる時、「どうせ死ぬくせに」と小さく発せられるのが聞こえ、私は思わず振り返った。
だけど、朱夏さんは顔を上げず、表情は全く見えなかった。
「雫さん、ごめんなさい。梶千紘との関係性は私たちとしては疾うに気づいています。ただ、それを容認し放置することは出来ません。それは、分かってください」
「それは、父の指示の下ですか?」
「……そう、ですね。ですが、今回のことは首座の指示は直接仰いでいません。乾と私の意思の下、決断をしました」
「有沙さん、父の具合はあまり良くないのですか?」
私の言葉に、有沙さんの表情が一瞬固まった。
「どうして、そう思われるんですか?」
「乾さんが、父は最後の儀の最終調整に入っていると、話していました。だけど、それは父がここに来ることは出来ない原因をそう仕立て上げているだけのように思えたんです。父の具合が悪いと、最高責任者が不在となる、その権威を埋めるために早く私を【光の苑】に戻したいんじゃないんですか?」
「……私の口からは、詳しいことはお話しできません。ですが、その刻は目前まで迫っているとは申し上げておきましょう。雫さん」
有沙さんは歩みを止めて、私と向き合った。
「正直、私たちはあなたの存在に縋って、あなたの生き方や人生そのものを侵害し、とてつもない深く昏い深淵の底にあなたを押し込めようとしているのではないかと、ずっとずっと思っています。だけど、首座の意思は私たちの意思、それを変えることはこの先ないと思います。首座の意思の下、雫さんには【光の苑】の御巫になっていただきたい」
有沙さんの言葉はすっと私の体の中に入ってくるようだった。
乾さんも、有沙さんも、自分の信念の下、【光の苑】存続の希望として、私を担ぎ入れるしかないのだと。
彼らは苦しみながらも、その決断しかないとはっきりと伝えてくれた。
今まで、むしろ、余裕を持たせてくれたのだろう。だけど、もう時間がない。
「有沙さん、あと1週間猶予を頂けますか?働いている先の店長さんやお客様や、千紘くんたちにきちんとお別れをさせてください」
「―――雫さん」
泣きそうな表情を見せる有沙さんに、私は精一杯の笑みを向けた。
「大丈夫です。その間に、頑張って心の準備をつくりますから」
家の前まで来ると、そのまま有沙さんは踵を返して戻っていった。
最後まで、彼女は母に挨拶をしようか迷っていたが、決断は自分から伝えたいと話すと、有沙さんは小さく頷いてくれた。
鍵を開けて中に入ると、一階に人気を感じなかった。
(二階で寝ているのかな)
洗面所で手を洗い、そのままゆっくりと階段を上がった。階段を上がりながら、あと一週間しかこの家に居られないのだと思うと悲しさがぐっと込み上げてくる。
自分が言い出したことなのだから、言葉の責任を持たないといけないと思いながらも、そう簡単に感情との決別は出来そうにもない。
だけど、この家でずっと私を守ってくれていた母には、きちんと事実を伝えないといけない。それは長年私と家族でいてくれたこと、一人の人間として扱ってくれたこと、愛情を持って接してくれたこと、すべてを鑑みてやっておかなければならないことだと思うからだ。
笑顔で、きちんと、伝えなければ。
母の部屋で何やらがさがさと物音がする。もともと家の中もきっちりと片付けられているので、今更片付けなければいけないところもないと思うが―――
がちゃ
母の部屋のドアをゆっくりと開けると、母の横顔が見えた。
その表情は、今まで見たことがないくらいに嬉々としている。いや、むしろ恍惚としているというくらいに、頬も心なしか上気しているようにも見える。
「お、お母さん?どうしたの……?」
あの母であることを確認するように、私は制止の声を掛けた。
だが、母は至ってその行動が普通であるかのように、服を掴みながら無垢な少女のようにきょとんとした表情をこちらに向けた。
「あら、雫、帰ってきたの?」
「お母さん、何をしているの?」
「あ、お母さんね、ちょっと今から病院に行ってくるから。もしかしたらしばらくあっちにいるかもしれない。雫は、これから仕事でしょう?何日分かの食事は作ってタッパに詰めてあるからちんして食べなさい」
すらすらと便宜上は普通の母の対応であるが、声が上ずっていていつもの落ち着きある母ではない。
「病院?何かあったの?」
その言葉を待ってました、とばかりに母は目を輝かせた。
「―――依月が、もしかしたら意識を取り戻すかもしれないのよ。さっき、加賀見先生から連絡があって、脳波に反応が見られたって!お母さん、ちょっと居ても立ってもいられないからしばらく依月の傍にいるわ。雫、何か困ったことがあったら美波にでも相談して。でも、あなたはもう一人でも大丈夫よね。働き始めてから血色もいいし、元気になってきている。お母さん、安心しているのよ」
「でも、でもお母さん、聞いて!私、一週間後に―――」
「あ、もうこんな時間。あまり遅いと部屋に入れてくれないかもしれないから行くわね」
母は私の目を見ずに、鞄を一つ持ってそのまま急いで階段を下りていってしまった。
「お母さん!お母さん!」
二階から下に向かって叫ぶも、家のドアが閉まる音しか聞こえてこなかった。
『あなたはもう一人で大丈夫よね』
『どうせ死ぬくせに』
母と朱夏さんの声が交互に呪詛のように脳内に反響する。
あまりの絶望に、私はその場に座り込んでしまった。
「誰か、私の話を、聞いて……」
苦しくて寂しくても、その声は空に霧散するだけで、誰も私の存在など気にしていない無力感に苛まれていた。
無情にも、その刻まで時間は過ぎていくしかないのだ。




