第二十五話
間が空いてしまいましたが、よろしくお願いします。
『いいかい、雫、君は選ばれた存在なんだ。悲しみの底に燻る人々を掬いあげて、慈悲や恩恵を与える存在であるべきなんだ。そのためには、君自身を真っ新にしておく必要がある。この世は、汚い事象、汚い人間で溢れている。それに触れてはいけないし見てもいけない。見せようとする者がいたら、目を背けなさい。真っすぐ、向かい合おうとはしてはいけない。自身を空っぽにして、その器を、すべての苦しみにあえぐ者たちに捧げるんだ」
父の声が体の内から反響する。
血がつながっている父の声のはずなのに、ぞわぞわとした不快感が襲ってくる。
小さい頃から、刷り込まれるように言い聞かせられた言葉。その父の言葉の向こうで、悲し気な表情で立ちすくむ母の姿。
小さい頃は、父の言葉の意図をほとんど理解していなかったが、信じるべく存在の言葉を疑う余地などなかった。
父の言葉一つ一つに頷く私を、母は頷くたびに傷ついたような顔をしていた。
父がほとんど家に寄りつかなくなった後も、母は私を気遣ってくれたが、やはり美波と違って私をガラス細工の品に触れるかのように扱った。
そんな母と二人で暮らすのが辛くて、父の組織への手伝いという名目で家を出た。
その時は、檻から出られたような解放感で溢れていた。
もう、何の感情も見えない母と対峙することもなくなるのだと、当時の私は、簡単に考えていた。
組織―――【光の苑】で何が起きるかなんて何も知らずに楽観的に。
そこで、はっと目を覚ました。
それ以上、先を見てはいけないとでもいうように、無理やり現に覚醒させられたような感覚だった。
はーはーと大きく息をする。額や胸のあたりが湿っているようで寝汗をかいてしまったようだった。そして、見覚えのない場所であることに気付いた。
一気に嫌な予感が去来する。
まさか、あの後、乾さんに連れてこられたんじゃ―――
「あーやっと起きたわね」
ひょこっと壁の向こうから不機嫌そうな顔の少女が顔をのぞかせた。
「え、千里……さん?」
「そうよ、お兄ちゃんにおんぶなんかしてもらって!羨ましいったらありゃしない」
千里は腕組みをして、頬を膨らませている。
「え、千里さん、具合は大丈夫なんですか?え、千里さんがいらっしゃるってことは、ここ、千紘くんと千里さんのお家ですか?え、どうしようどうしよう」
「ちょっと、落ち着きなさいよ!ゆみ子さん、目を覚ましたみたーい」
どこかに声を掛けると、パタパタと軽快な足音が近づいてきた。
「はいはい、ごめんなさいね、体調はどうかしら?痛いところはない?」
茶色のウェーブかかった髪の女性が姿を現した。口を開けたまま何も言わずにいると、女性は真顔になりきちっと正座をして向き直った。
「雫さん、いつも千紘くんと千里ちゃんがお世話になっています。この子たちの伯母にあたる白井ゆみ子です」
「は、はじめまして、……雫です」
私は急いで布団が出て、同じように正座になり向き直った。千里さんがいる手前、苗字を口にするの憚られた。千紘くんには明かしているので、いずれバレてしまうのだろうとは思うけれど。
ゆみ子さんはにっこりと笑みを浮かべた。
「やさしそうな方で良かった。千紘くんも千里ちゃんもあなたの話ばかりしていて……二人があまり他人に心を許すことなんてなかったから、嬉しかったんです」
「ゆみ子さん、私は別にまだこの人を認めたわけじゃ―――」
「千里ちゃん、この人じゃないでしょう。年上の方なんだから、ちゃんとさん付けしなくちゃ駄目でしょう」
ゆみ子さんに釘を刺されると、千里さんは肩をすくめ、「ごめんなさい」と素直に謝った。その千里さんの扱いぶりに、私は一気に尊敬の念を抱いた。
「雫さん、千紘くんは今買い物に外に出ているんだけど、何か口にできるものはある?」
「あ、いえ、食事は、大丈夫です。近くの公園で、千紘くんとお弁当を食べたので。あ、実は、千里さんにも食べてもらいたくてたくさん作ったんです。まだ、食べきれなくて余っていて……余りもので申し訳ないんですが、良かったら食べてくれませんか?」
私は辺りを見回し、見覚えのあるバックを見つけるとその中から弁当箱を取り出した。
「朝から、作ってみたんです。料理をし始めたのが最近で、あまりうまく出来なかったんですけど……」
「え、私に―――?」
戸惑ったような表情を隣に座るゆみ子さんに向ける。ゆみ子さんはにっくりと笑みを浮かべて頷いた。千里はどこか照れくさそうにもじもじと膝を揺らし、小さくだけど確実に「ありがとう」と呟いた。
「本当は、凄く出掛けたかったの。だけど、最近また調子がよくなくて、朝になっても布団から起きれなくて、悔しくて悲しかった。あんた……雫が、お兄ちゃんと二人でずるいとは思っていたけれど、それだけじゃなくて、今まで誰かとどこかに出掛けて外でお弁当を食べるってしたことがなかったから」
「千里さん、私もなんです。私は、家の方針で出掛けたくても出掛けられなくて、だけど、今日初めて知り合いの人と……いえ、好きな人と外でお弁当を食べることが出来て本当に楽しくて嬉しかったんです」
「雫さん、今、好きな人って」
ゆみ子さんの言葉に、私ははたっと我に返った。一気に体中の血が、顔を集中したかのように上半身が熱くなった。
「え、ええと、すみません、私ったら一体何を―――」
「千紘くんを、好きでいてくれるのね」
両手で顔を覆いそうになる直前に、どこか言い聞かせるように穏やかに話すゆみ子さんと視線がぶつかった。
私は、そのまま力が抜けたかのようにすとんと膝に両手を落とした。
「はい、千紘くんが、好きです。ごめんなさい」
「どうして、雫さんが謝るの?」
「だって、私は、人を愛する資格がないから。だれかと必要以上に話したり接したりしたら、その人に多大な迷惑を掛けてしまうから」
「それは、【光の苑】が関わっているから?」
口にしようとしても憚られるその名前に、私はぎょっと表情を強張らせた。そして、おそるおそる千里の方へ視線を向けた。彼女は、ただじっとこちらを見つめている。
「そんな、顔色をうかがうようなことしなくていいわよ。全部、知っているから」
「―――どうして!」
「千紘くんを、責めないであげてね。あなたを、どうしても救いたくて私たちに相談してくれたの。雫さんが、【光の苑】の宇野律人の娘さんだということも、知ってるわ。でも、だからといって雫さんを憎々しく思ったり、疎ましく思う必要はないでしょう。向けるべき敵意は、あなたではないのだから」
「それでも、それでも、千紘くんと千里ちゃんのお母さんを奪ったのは、私の父です。たくさんの人の人生を掠め取り、周りの人たちの人生をめちゃくちゃにしたのは、あの人に間違いないんです!」
私を、憎んで欲しい。許さないで欲しい。
「私は、そんな父の血を継いでいるんです。そして、直に父の代わりとして【光の苑】に連れ戻されて、そこで私は苦しみ人たちの願いを聞き入れて、一生をそこで過ごすしかないんです」
「雫さん、勘違いしないで欲しいんだけど、あなたは自分の人生がそうなるべきと言われて、はいそうですねとどうして素直に聞き入れてしまうの?あなたは、将来こうしたいこうなりたいという意思は持ち合わせていないの?妹のもと子は、自分の意思を持って子供たちを置いて自分だけ救われたくてこの家を出ていった。それはとても勝手だしずっと怒りを覚えていた。だけど、妹の心の内は私も子供たちも知る由もなかった。その心の内を唯一知っていたのは【光の苑】だけだったのだと。その心の内に入り込み、操って、入信するように仕向けたのはあいつらなのだから妹を責め立てるのはお門違いだと、本当最近のことだけど考えるようになった。だから、雫さん、あなたもきちんと考えて欲しいの。【光の苑】に何度も操られてはいけない、自分の意思を持ってほしいの。自分の意思をはっきりさせた上で、【光の苑】に戻るわけにはいかないと、きっちりと意思を示すべきだと思う」
ゆみ子さんの言葉に、私はふっと大きく息を吸った。
自分の意思は、もう疾うにはっきりしているのだ。ここに、いたいと。
でも、私の意思を尊重できない理由がある。
私が何も言わずに俯くと、「何か理由があるのね」とゆみ子さんは呟いた。
「……はい。実は」
「―――雫さん!」
ばんっと勢いよく扉が開くと、そこには青ざめた表情の千紘くんが立っていた。だが、何故か彼は身動きが取れないよう、両腕を後ろに回している。
「ごめん、尾けられてた」
「はぁーい、これ以上余計なことはしないことねー」
千紘くんの横からひょこっと顔を出したのは見覚えのある女性だった。
「―――里穂子さん」
私の呼びかけに気付いているはずが、彼女はまるで見えていないかのようにただゆみ子さんを見据えていた。そして、髪も頭の上で団子にくくっており、以前より子供っぽく見える。
「白井ゆみ子さん、梶もと子の姉だからと多めに見てあげていたけれど、それに余計なことを色々と吹き込まないようにしてくれないとあなたが困るんだよー?立場、分かってる?」
それ、と顎で示したのが私だった。
「甥っ子に足がつかない携帯を買わせたのもあなたでしょ?これをいざというときの連絡先とそれに持たせようとしたんだろうけど、どうせ乾さまに【光の苑】に入る前に没収されるだけだら、無駄だと思うよー」
にやにやと笑いながら、里穂子さんだった人はそのままどんっと勢いよく千紘くんの背中を押した。千紘くんは三和土に叩きつけられた。
「―――千紘!」
「甥っ子は返すからさ、それを返してくれるかな?あなたに直接関係ないよね?むしろ、これ以上足を踏み込むと、さらに自滅させるようにするから控えた方が身のためよー」
「―――雫さんは、渡さない!雫さんは、自由になる権利がある!彼女の人生を縛ろうとするな!」
千紘くんが叫ぶと、里穂子さんだった人は今まで見たこともないような冷たい表情を浮かべた。そのまま拳を振り上げようとしたので、「やめて!」と力のある限りに叫んだ。
「やめて!この家の人たちに、乱暴を働くようなことはしないで!私なら、すぐにそちらに行きます」
すくっと立ち上がると、私は一歩踏み出した。
その時、ゆみ子さんから手の中にかさっと何か紙のようなものを押し込まれた。だけど、私は気づいていない振りをした。
「最初から周りを巻き込むようなことをするからだよーちゃんと自分の立場ってものを考えてから、行動してくださいね?雫さま」
何の敬意も抱いていない表情で、彼女はそう言い放った。




