第二十四話
かなり間が空いてしまいすみません。
日中、ほとんど太陽の光を浴びていない私には少し刺激が強かったのかもしれない。
1時間もすると、寝不足もあったからかふらっと眩暈がしてしまった。
千紘くんは無理しないように、と公園内の小さな四阿へ一緒に移動してくれた。そこには小さなベンチが二つあり、座るとふうっと小さく息を吐いた。
「すみません、やっぱりきちんと睡眠を取らないとダメでしたね。小学校の遠足とかもほとんど参加をしたことがなかったので、前日に楽しみで眠れないということもなかったので……」
「え?遠足?じゃあ、林間学校や修学旅行なんかもっての外だよね?」
私はこくっと小さく頷いた。
家族で遠出をしたこともないし、ゆりが丘動物園や遊園地に行った覚えもほとんどない。
美波が校外学習にリュックを背負って楽しそうに向かうのを、何とも言えないもやもやとした気持ちで見送っていたのを覚えている。だから、母に日本や世界の観光名所が掲載されている雑誌や本を与えてもらい、読んでいた。カラー写真だけでは、やはり風の匂いや太陽の光の眩しさ、鳥のさえずりや木々のそよぐ音、そういった現地へ赴かないと感じ取れないものはもうずっと得ることが出来なかった。
ずっと、心がざわざわしていた。
だけど、それは娘に制限させざるを得ない母もとても辛く悲しんでいるはずだと思い、私は遠足へ行けないことを平気だというようにずっと笑顔で過ごしてきた。
母を安心させたい、その一心で。
「―――でも、今日、青い空の下でシートを敷いて千紘くんとゆっくりとお茶を飲んで過ごすのって、遠足みたいです!今まで、参加できなかったけれど、今日こうして参加することが出来ました。だから、今日はとても楽しいんです」
心の底から湧き上がってくる嬉しさに、私は思わず言葉尻が強くなってしまった。こんな小さなことを意気揚々と話す私に幻滅していないだろうかと、思わず隣の千紘くんを小さく見上げた。
千紘くんは目を細めて嬉しそうにこちらを見つめている。
その彼の柔らかな表情に、私の胸が高鳴った。
「そうだね、遠足みたいだ。俺も、雫さんとまだ日が高い内にこうして一緒に出掛けることが出来て嬉しいよ。いつもは真っ暗な夜にしか、会えないし」
「そう、ですね……」
何だかとても恥ずかしくなり、私は千紘くんを真っすぐ見つめなくなってしまった。彼のいる反対方向に目をやりながら、小さくそう呟いた。
その私の態度を訝しく思ったのか、何度か私の背中を千紘くんの視線がぶつかっているのがわかる。
「雫さん?急にどうしたの?」
「な、ななな何でもないです。ちょっと、眩しいなぁって思って、下を向いているだけなので……気にしないでください」
「え、でも四阿の下だよ」
「横から、日の光が入ってくるんです」
「横から?」
千紘くんが噴き出す声が聞こえてくる。
「本当ですよ。日の光が屈折して、入り込んでくるんです。凄く、眩しいんです」
「うん、そっか。そうだね」
そのまましばし沈黙が続いた。
「―――雫さん、いつかゆりが丘動物園に行こう。もし、それがクリア出来たら、俺ともっと遠くに行こう。自転車の練習をしてサイクリングで海沿いを走ってもいいし、電車でずっとずっと遠くに行くのもいい。行ったことのない土地の食べたことのない名産を食べて、温かい温泉に浸かって、手を繋いで一緒に夜の温泉街なんかを散策してもいい」
「温泉ですか?行ったことないので、いつか行ってみたいです」
「本や映像だけじゃ感じられないものを、雫さんにきちんと肌で感じて欲しい。この世界はとても広くて、とても壮大で、とても美しいんだって教えてあげたんだ」
「はい、行ってみたいです。この日本のこと世界のこと、もっとよく知りたい」
「見識を広くすれば、雫さんもきっと夜の世界だけじゃない世界で生きていけるよ」
「―――はい」
ざくっと草を踏む音がした。
視線を向けると、そこには黒縁眼鏡のスーツを着た背の高い男性が立っていた。
「雫さん、それは難しいと思います。貴方には、悲しみや辛さを抱える信者たちの祈りを聞き届ける使命があるのです」
得体のしれない悪寒が体中を駆け巡った。そして、この後の台詞を千紘くんに聞かれたくない感情が膨れ上がった。
「千紘くん、ちょっとここから離れよう―――」
「梶千紘くんだね。入信者、梶もと子の息子の。君は、彼女がどんな尊い存在か知らずに気軽に声を掛けているが、それはわきまえた方がいい」
「もう、やめてください!乾さん!」
絞り出すように叫んだ私の声に、乾と呼ばれた男は一瞥をすると、そのまますっと一歩後ろに下がった。
「―――これは出過ぎた真似をいたしました、お許しください。ですが、無知のまま色々なことを雫さんに話さないでいただきたい。その刻が、迫ってきています」
「……父は、一緒に来ていないのですか?」
私の言葉に、乾さんは一瞬眉をぴくりと動かした。
「首座は、最後の儀の最終調整に入っています。雫さん、貴方への正式な譲渡のために。仲林から、話は聞いていますね。近々、お迎えに向かいます。先程のような理想を語るのは後々に俗世へのしこりとして残ります。そのような欲は一切捨てて、真っ新な状態で御巫として務めを全うしていただきますようお願い申し上げます」
乾さんは深々と一礼すると、一瞥することなく公園の外へ向かった。
何も言わない千紘くんと二人きりになった後、さっきまでの胸の高鳴りは苦しいまでに締め付けられる痛みに変わった。後ろに立っている彼の表情を見るのが怖くて、私はそのまま立ち尽くしていた。
「……何だか、色々と腑に落ちたような気がする」
千紘くんがそう呟き、私はゆっくりと後方を振り返った。
困ったような、今にも泣きたくて泣けないような表情のまま、千紘くんはこちらを見つめている。
「スマホを知らないって聞いた時、どんな箱入り娘なんだろうと思ったけれど、話を聞いているとそういう感じでもなかったし……ずっと日の光が怖くて家の中にいるとか、自転車に乗るのをお父さんが許してくれなかったとか、遠足を許してくれなかったとか、危機意識が高すぎる家庭の中に育っているんだなぁとか思っていたけど、そうじゃなかったんだ。雫さんは、もっと、俺とは違う次元に生きている女性だったんだな」
「違う次元って……そんな、そんな線引きで片付けようとしないで!」
胸が張り裂けそうだった。
千紘くんは、乾さんの言葉に酷く動揺している。動揺している上で、何とかその苦しみを納得させようと、言葉を探しながら零している。でも、無理に納得させないで欲しい。むしろ、面罵してくれればいいのにと思う。
「千紘くん、無理に納得させようとしないで。何となく、私の正体のことは勘付いていて、でもそれを受け入れたくないからそんな風に切り離そうとしているんだよね。そんなこと、しなくてもいい。もっと、ふざけるなとか、よくもずっと騙していたなとか、いっぱい心の声を私にぶつけてくれていいの!」
千紘くんは歯を食いしばりながらかぶりを振った。
「そんなの、嫌だ―――雫さんは、俺をだまそうとしていたとか、そんなことは一切考えていない。考えたくもない。雫さんは、そんな強かな人じゃないよ」
「千紘くん、聞いて。私の名前は宇野雫。【光の苑】設立者にして首座である宇野律人の娘よ。あなたのお母さんが入信した【光の苑】を支えているのは、私の父であり、あなたたち兄妹の不幸の権化である。わかる?千紘くんは、私を憎しむ権利があるの」
「―――やめてくれ!」
千紘くんは両耳を塞ぎ、目を真っ赤にしながら叫んだ。
「俺には、雫さんを憎く思うことなんて出来ない。雫さんが、母さんを連れて行った奴らの関係者だったとしても、雫さんは何もしていないじゃないか。むしろ、幼少期から色々と抑制されて、家に閉じ込められて、自由も奪われて、雫さんだって被害者じゃないか」
被害者―――そうか、私は、被害者だったのか。
小さい頃から、周りの友人たちや美波たちと違って、母と家で留守番をすることが多かった。でも、それは父の言いつけ通りにすることが絶対であり、不自由に思うことはあったけれど、母と一緒だったからあまり辛いとも思わなかった。
そんな生活が普通なのだと、多分自分に言い聞かせて生きてきたから。
「……そうだ、ね、私は被害者だったのかもしれない。でも、私よりずっと辛かったのは母だったのだと思うの。私がいる所為で、母はずっとずっと我慢をして、苦しくても苦しいと言えなくて、泣くことすら出来なかった」
私の心の中は、しんと静かで冷たかった。
もう、先程のような温かな胸の高鳴りは鳴りを潜めてしまっていた。
「千紘くん、今までありがとう。千紘くんや宮原さんに出会えて、短い間だったけれど【月夜の森】で働くことが出来て、私はすごく幸せだった。でも、私はやっぱり千紘くんと一緒に遠くへ出かけたりは出来ない。私は、自由にこの世界をまわりたいという願いを口にしてはいけない存在なの」
「……どうして?」
「私は、千紘くんのお母さんのように苦しんでいる人たちの願いを聞き届け、魂を救済しなければならないから」
一瞬、奇異の目をした千紘くんが映る。
私は体の力がふっと抜けるのを感じていた。
今まで、何に対して抗っていたのだろう。私は、人並みの幸せを願ってはいけないはずなのに。ずっと、母を苦しみから解放してあげたいと思っていたはずなのに。
「宮原さんには、後日きちんとご挨拶に伺います。千紘くんとは、ここでお別れしよう。千里さんに挨拶出来ないのは心苦しいけれど、私はどこか遠くへ引っ越したと伝えてもらえれば―――」
「雫さん!」
千紘くんの強い言葉に、私は体をびくっと震わせた。
「それが心からのあなたの言葉じゃないって、俺は分かっているから。自分にそう言い聞かせようとしているだけだよね」
私は口元を震わせ、何度も何度も頭を振った。
「俺は、雫さんが……宇野雫さんが好きだから、【光の苑】へなんか行かせない」
千紘くんは私の腕をぐっと引き寄せると、そのまま強い力で抱きしめられた。
「ち、千紘くん、離して―――」
「嫌だ、離さない!これで離したら、雫さんは俺の前から一切姿を消してしまうだろうから、絶対に離さない」
ぽたり、と何か冷たいものが私の手の甲に落ちた。
私はそのまま、千紘くんの表情を見ないようにそのままじっとしていた。
お日様の匂いと、千紘くんの匂いが交じり合って、何だかふわふわと意識が飛ばされそうになる。
「私も、千紘くんが好き―――」
そう口にした瞬間、千紘くんが言葉を紡ぐ前に私は意識を手放した。
まだ続きそうです。よろしくお願いします。




