第二話
しばらく目にしていなかったベージュのスニーカーは母が洗ってくれていたのか綺麗に玄関に置かれていた。
外に出る、そう思うだけでどくどくと胸が早鐘を打つ。
それは恐怖なのか高揚なのか。
多分、両方の感情が私の全身を駆け巡っていて、それを抑えることは出来ないのだろう。
母が無言で見つめているのを背中で感じながら、私は外への扉をゆっくりと開いた。
押し込んでくる闇に体を投じながら私はゆっくりと坂を下り始めた。
11時を過ぎると、近所の家の明かりも少なくなってきていた。私はぽつぽつと点在する明かりを数えながら一歩一歩噛みしめながら歩き続けた。
窓の外から見えた小さな光。
わずかな光を何の根拠も情報のないまま真っ暗な外の世界へ飛び出した私の行動の大胆さに今更ながら驚きを隠せずにいた。
隣には母もいない。美波もいない。
母の庇護の下、昼の世界では世間から目を背けるように背中を丸めて眠り続け、夜の世界では目を凝らしひたすらに息を殺して小さな存在を誇示しているだけの私。
(光が降り注ぐ世界は君には重すぎる。光は良いところも悪いところもあらわになってしまうからね―――)
どこからか声がしたような気がしたが、今の私には瑣末なことだ。
今はあの光のところに行きたい。だけその思いだけが私を支配していた。
坂を下り切ると、大きな通りに出た。
私は急いでフードを被った。
人通りはなく、車も数台走っているだけであまり気配を感じられなかった。
前方に24時間営業のコンビニの光が灯るのみで、あたりに光は見当たらなかった。
フードを手で押さえながら歩いていると勢いよく左側に吹き飛ばされ転倒してしまった。
「あ、すいませーん」
「ちょっとー何やってんのよー」
私は俯きながら人が通り過ぎるのを待った。
何も言わず微動だにしない私を不気味に思ったのか、ぶつかってきた二人は「行こう」と足早に離れていった。
少し脛を擦ってしまったのかひりひりと痛んだが、私はゆっくりと立ち上がるとそのまま歩き始めた。
人知れず、私は両腕を抱え込んでいた。
ぶつかられたのが怖かったわけじゃない。
人にぶつかったのに妙に高い声のトーンに何かを思い出したのか、体の震えが止まらなくなってしまったみたいだった。
それを打ち払うように私は両頬をばちんと強く叩いた。
もしかしたら、今夜のような外出の機会が今後はないかもしれない。
大事なこの時間を有効に使い、光の所在を今夜中に確かめないといけない。
私はそう奮い立たせ、鉛のように重い両足に力を入れた。
しばらく歩くと、大通りから瀟洒な住宅が建ち並んでいる通りに出た。
しん、と静まり返っている夜の住宅街を私のような深くフードを被り辺りを見渡している姿を目にした人はどう思うのだろうか。
やはり、不審者にしか見えない一択なのだろう。
思わずふふっと笑みがこぼれた。
その時、ふにゃあっという声とともに何かが胸に飛び込んできた。
私はまた転倒しないよう左の後ろ足に力をこめて受け止めた。
「な、何……?」
ふにゃーお、とか細く鳴いたそれは闇に溶け込んでいた。真っ黒な小さな猫だった。
「ね、猫……?」
「ヨル、ヨル、どこに行った?」
呼びかける声に顔を上げると、その先に小さな琥珀色の光を軒先に灯す一軒の建物が見えてきた。
(もしかして、あれは―――)
「―—―あれ、そこに誰かいますか?」
夜陰にまぎれ、真っ黒なパーカー、スカート姿の私はヨルと呼ばれた猫を抱っこして立ち尽くしていた。
声を出せずに立ちすくんだままいると、声の主もぴたっと発するのやめてこちらを窺っているようだった。
「あ、あの―――」
私は思い切って声を出した。相手もほっとしたのか息を吐いたのが分かる。
「ここは、お店ですか?あ、あの私、少し離れた…坂の上の家に住んでいるんですけど、二階の角から灯りがともるのが見えて、それだけを頼りにあたりを探していたんですけど……」
たどたどしく、でもしっかりと自分の意思を伝えたくて一語一語嚙みしめるように口にした。相手の人も「ああ…」と声を漏らす。
「ここが見えたんですか?夜の11時からオープンするので、あまり近所でも知られていないんですよね。見つけてくれてありがとうございます」
(やっぱり、窓から見えた光の場所はここだったんだ)
ふわっという綿菓子のような思いが胸の中いっぱいにあふれ出してきた。
「…すみません、暗闇だとお互いの顔も分からないですし、良かったら少しお店の中に入りませんか?」
「い、いいんですか?」
「もちろん、ここを見つけてくれた奇特なお客様ですから」
私たちが話し終わるのを待っていたのか、腕の中にいたヨルはそのままぴょんと飛び出し、闇の中に消えていった。
「あ、猫が―――」
「ヨルは気紛れなので、気が向いたらまた戻ってきますよ。さあ、中にどうぞ」
ゆっくりと店の外の電灯に近づくと店の外観が現れてきた。
深い紺の壁に緑の竪枠がついた扉があり、そのすぐ横には黒の立て看板が置かれていた。立て看板には白地で【月夜の森】と記載されている。
「月夜の森……?お店の名前ですか?素敵ですね」
「ありがとうございます」
店の明かりに照らされて、相手の表情が段々と見えてきた。
少し茶色がかった短髪に黒ぶちの眼鏡をかけている。その男性は店の扉すれすれぐらいの背丈のようで、少し屈みながら店の扉を開けてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。お邪魔します」
扉をくぐると、目の前に外といるのかと思わすような存在感のある街灯がそびえたっていた。周りには天井すれすれまでの大きな本棚が所狭しといくつも立ち並んでいる。店の真ん中には大きな丸い机と何脚もの白い椅子が周りを囲んでおり、窓側には縦長の机が置かれ、花弁を思わすランプが取り付けられていた。
「ここは……喫茶店?」
「ブックカフェです。夜11時から朝5時まで営業しているので、お客様は限られてくるんですけどね」
「ブックカフェ?」
「父の忘れ形見の置き場所に困りまして、処分するのも勿体ないし、せっかくならたくさんの人に手に取ってもらいたいので始めました。私の趣味でコーヒーについても学んでいたので、ちょうどよかったです」
私自身、小さい頃から父の書斎に入り込み、たくさんの活字の海に投じていた。だけど、いつからか父の書斎にも入らなくなり、活字を目で追うと頭痛や耳鳴りが起こり、あまり本を開くこともなくなっていた。
だけど、父の書斎を超える本の多さに圧倒され、どくどくと胸が高鳴っていた。
「少し、本を手に取ってみてもいいですか?」
「もちろん、いいですよ。好きな席に座って手に取ってみてください。私はキッチンの方にいるので、何かあったら声をかけてください」
「ありがとうございます」
外は闇に充ちているのに、この世界は未知なる光にあふれている。
私はゆっくりと身をかがめ、端から本の背表紙を目で追い始めた。