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残雪

作者: 野球の戦士
掲載日:2023/05/05

この作品はフィクションです。作品中に登場する地名や人物名等は、実在するものとは一切関係ありません。

3月には珍しく、雪が降った日。


「今夜、行くんだね」


街を、肌寒い風が吹く。隣を歩いている塚本は、赤いマフラーに顔を半ばうずめて頬だけを見せている。


職場のメンバーで行われた送別会。その日の夜には、俺は飛行機に乗って、異動先の支社がある北の町へ飛ばなければならなかったから、お昼から開始で、なおかつアルコールも入らない飲み会になった。ひととおり盛り上がって、終わったときにはもう夕方だった。


すぐ近くで誰かが笑ったり話したりしている空間から外に出ると、空気がずいぶんすっきりするのと、自動車の音、遠くにいる人の声、川の音の全てが遠くに聞こえて、距離感を失いそうになる。


「それにしても牧口くん、凄いよね。支社は遠いけど、けっこう大きいところでしょ」


「どうだろ。たまたまあそこで抜けた人と、今自分がやってるところが近いからな気がするけど」


「ううん、牧口くん、めっちゃ頑張ってたし。あたしも頑張ったけど、まだあんまりかな」


歩きながら、俺は口数が少ない。ちらりと塚本を横目に見ると、塚本はじっと足元を見つめて歩いている。塚本の言っている言葉をうつろに聞きながら、俺も下を向いて歩く。


川沿いの遊歩道には、溶け切らない雪が残っている。それは真っ白な姿を余しておらず、人の声や、都会の明かりを映して、にぶく輝いているのである。


俺は足元にあった雪の塊を足で軽く蹴りつける。靴で雪の塊を踏みつける感覚は気持ち悪くて、顔をしかめて足を引っ込めた。塚本はそんな俺を、立ち止まって嫌な顔をするでもなく眺めている。


「なんていうかさ」


「なに?」


「道端で溶けずに残っている雪の塊を見てると、思い出すよな。高校のときのこと」


「うん…そうだね」


しばらく、会話がなくなる。お互い距離感を測るかのよう。慣れない気まずさに、しかし一歩踏み込んでみたい気持ちになる。


「その…あの時の俺、馬鹿だったなーと思ってる」


「えっ、その話する?」


「いや…どうかな」




高校生2年生の時。


俺と塚本は、同じ高校の同級生だった。


ある日の帰り道、塚本に告白したことがあった。


今と同じ、まだ春が来るには遠くて、雪が降っては止んでを繰り返していた季節。


受験したい大学が一緒で、授業後の補習でその大学向けのコースを受講していたのは俺と塚本を含む数人だけだった。外が暗くなるまで学校に残って勉強して、苦しい時間を共にするうちに、塚本のことが気になるようになっていった。たまに二人で下校するようにもなり、もしかしたら、という独りよがりな期待が大きくなっていった。


「俺、塚本のことが好きだ。付き合いたい」


3月。ある夕陽の明るい帰り道、俺は塚本に気持ちを打ち明けた。


しかし、塚本はうーん、と困った顔をする。


私、好きな人がいるんだよね。だから、その気持ちは受け取れないかな…。


立っているのがやっとの気持ちで、ただどうすることもできなくて、塚本の伏し目がちの顔を、じっと見ているしかなかった。


雪の小さなひとひらが、塚本の頬に落ちる。丸くてさらさらしていて、少し火照った塚本の頬に雪が触れると、すっとなじむように溶けた。俺の頬にも冷たい感触がして、手で触れると、小さな水滴で指先が濡れた。道端にある残雪はふわふわとした小動物の産毛のように柔らかく、真っ白だった。


それから、俺は塚本と一緒に勉強するのも、彼女の姿を目にするのも辛くなって、大学のランクを一つ落とさざるを得なかった。


一方、塚本はその大学に合格した。


3月末に、クラスでやった打ち上げの席で、皆にすごいねーと言われて祝ってもらっている塚本を見ていると、とても直視できなくて、手元にある飲み物に目線が落ちて行った。帰り道で、最後に少しでも話せないかと思わないこともなかったが、そうしたところで俺の何が救われるでもなく、結局、その日の最初から最後まで、彼女と言葉を交わすことはなかった。もしかしたら、二度と塚本と会うことはないかもしれないと思った。




しかし就職で東京に来て、思わぬ形で彼女と再会した。


内定イベントで、俺の前の席に座った女の子。凛とした雰囲気で、髪にネイビーのリボンバレッタを着けた後ろ姿には、どこか見覚えがあった。自己紹介で一人一人前に出て話す時に、「皆さん、初めまして。塚本といいます。」と名乗ったとき、驚きと、追憶が胸の中で頭をもたげた。


でもそれから、何となく気まずい感じと、わざわざ話に行くほどでもないという感じもあって、ずっと直接話さないまま会社の中で過ごしてきたけれど、数年経って偶然同じ拠点で働くことになったときに初めて彼女と話した。


「牧口くんだよね?久しぶり。私のこと覚えてる?」


あっさりした調子で、営業をやっている女性らしい爽やかな笑顔を見せて、彼女は言った。高校最終学年で彼女と話したきり、10年振りに話したのだった。


「久しぶり。」




それから、何度か彼女と昼食を一緒にしたり、同期ということもあり仕事終わりに二人で飲みに行ったりした。


確かに、この1000万人を超える人の集まる東京で、同郷の人を見つけるだけでも相当難儀なのに、同じ高校で、しかも共通の経験がある二人が同じ職場で働くというのは、珍しいことだと思う。


しかし、毎日仕事をしながら、あるいは、過去の話を聞いたり話したりしながら、どうしても、奇遇というそれ以上のことではないと思えて仕方がなかった。

 

 

 

「きゃっ」


歩いていると、塚本の足元にゴムボールがころころと転がってきた。顔を上げると、道の向こう側から小さな男の子が走って来て、何も言わずに塚本の顔と、塚本の足元のボールを交互に見ている。


ボールを拾ってほしいのだろう、そう思って俺が塚本の足元のボールを拾おうとしたとき、塚本はさっとボールを拾い上げて、「ぼく、投げるよー」と笑顔で言ってから、男の子にボールを投げた。男の子はほとんど動かず、胸のあたりでボールをドッチボールのようにキャッチした。


「ありがとうございます」


男の子はそう言って小さくお辞儀をして、塚本はそれに対してひらひらと手を振った。男の子はきびすを返して、そのまま走り去っていった。


「まだ寒いのに半そでで。元気な子だな」


「ねえ、今の男の子すごく可愛くなかった?」


「いや…そういう目で見てないから分からん」


それから、俺と塚本はいろいろな話をする。仕事の話も、昔の話も、東京での生活についての話も…。


話すうちに、俺も塚本も、語彙がずいぶん増えたことに気づかないわけにはいかない。学生の時は、先生だとか、テストだとか、学校だとかそういう言葉ばかり使っていた。けれど今、俺と塚本が使っている言語はすでに10年前のそれとは語彙の面で大きく違っている。


「ねえ、煙草っておいしいの?」


俺はほとんど無意識のうちに、煙草を吸っていた。煙を肺にちょうどためていたとき、塚本から聞かれて、俺はあわてて煙を吐き出す。


「おいしいかどうかかあ。考えたことないけど。あんまおいしくないかな」


「ふーん。おいしくないのに吸うんだ」


「まあ。…ぼんやりしたいときに、吸いたくなる気がする」


「疲れてるの?」


俺は答えず、黙って吸い続ける。遠くに見える高速道路が、車のライトに彩られて、銀色の流線形を描いている。煙草の煙が、視界をぼやけさせて、胸の中に、ある種の脱力と、倦怠をもたらす。


「ねえ、チョコ食べない?」


「チョコ?」


「そうそう。さっき、コンビニで買ってきたの。家で食べようと思ってたんだけど、牧口君にも分けてあげる。ここで食べよう」


塚本は一人でベンチに向かっていて座ると、コーラルピンクのハンドバッグから、チョコレートの箱を出した。そこから、一粒ずつ取り出して、「はい」と手渡してきた。


俺も黙ってベンチに座って、金色の包装紙に包まれた一粒のチョコを、口に入れる。


「ん、うまい」


「でしょ。最近あたしも仕事で行き詰まりそうなときとか、食べてるんだ。栄養補給は大事だしね。カカオ70%だよ」


口の中でチョコを転がしながら、俺は70%のカカオの風味を味わう。確か、煙草もカカオも、温かい地方で作られる嗜好作物だ。チョコレートも、ほのかな苦みと、スモーキーな香りがあって、煙草と似ている気がしなくもない。ただ、チョコレートの方が、温かくて、ちょっと甘い。


気づくと、塚本が俺の顔をじっとのぞき込んでいた。してやったりといった顔をして、


「煙草なんかより、チョコの方がおいしいでしょ」


と、くすくす笑いながら言う。


それ以上でもそれ以下でもない気遣い。壁。塚本はずっとこうだ。甘いチョコレートを頬張りながら、この関係が大きく変わることはもうないのだ、とぼんやりと感じた。




それから、俺と塚本は別れる、地下鉄の駅に着いた。


階段、券売機、窓口、乗り換えの案内表示。駅は、人でごった返していた。


「わ、すごい人。みんなこれからディナーにでも行くのかしら」


「そうかもな。いい時間帯だし」


「ね、また機会があったらおいしいもの食べに行きたいね」


「おう」


きらびやかな地下街をしばらく歩いて、改札口に着いた。塚本はこの駅も定期が通っているらしい。


「じゃあ…そろそろ?」


改札口の前で塚本が振り返って、じっと俺を見た。しかし、俺は言葉が出てこなくて、1歩、2歩、塚本に近づく。


ふと、雑踏の中で、ロシアの曲…カチューシャが流れ始めた。列車の発車だか何かの作業だかを広報する目的で、駅が流しているものだろう。しかし、駅でこの曲を聞くのはこれが初めてのことだった。


せわしく動き回る人たちを見ながら、はしなくも頭の中に白黒の映像が浮かぶ。…限りない雪原を、鋼鉄の戦車とソビエトの兵士たちが進んでいく。一丁の武器を握りしめ、殺さなければ殺されるという戦争の論理に彼らが生きたのだとすれば、自分もまた、人を殺すことを知らないだけで、彼らとそれほど変わらないのではないかという気がしなくもない。


「あのさ」


「なに?」


「握手しないか」


「握手?いいよ」


塚本は少しおかしそうに笑って、右手を差し出した。俺はそこに右手を乗せて、軽く握手をした。


「牧口くん、めっちゃ手冷たい」


塚本に言われて、俺は苦笑した。


それから、塚本は軽く手を振って、雑踏の中に消えていった。10年前、また明日すぐ会えることが確約されていたあの時のように。


地上に出て、もう一度、空を見上げた。


一面灰色の空という空。道端には、季節が忘れたみたいに、雪がわずかに残っている。泥と排気ガスでくすんだ鈍色の雪。


煙草を取り出して、吸ってみる。視界がぼやけて、身体がこの空に溶けていく感じがする。やっぱり、チョコレートじゃなくて、煙じゃないと、似つかわしくない。


「あの時の俺、…」


きっと二度と口にすることのない言葉を頭の中で繰り返しながら、俺は一回、二回、雪の塊を蹴った。


春が来れば、残った雪は滞ることなく、さらりと溶ける。その頃には、俺は新しい生活をすることになっている。名残惜しく思う必要はないし、言い訳する必要もない。偶然は偶然のまま、すれ違いはすれ違いのまま、ただ絶え間なく過去には盲目になりながら、世の中を歩いていけばいいんだ。


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