デジャヴかな?
天文部の部室がある旧校舎では、弁論部と思われる発声練習の声が木霊していた。耳障りの良い言葉のリズムに自然と耳を傾け、自分もそれを口ずさみたくなる。
聞こえてくるのは外郎売。
アナウンサーの発声練習でも使われるそれは、長台詞で有名な歌舞伎の演目の一つだ。
仇に近づくために行商人に扮した男が、周囲が感嘆するほどの早口を捲し立てる。
仇の男はそれが外郎の効能だと信じ、女を口説くのに使えると考えた。
もしそんなものがあるなら、欲しいものだ。
なんてことを、前を歩く背中を見ながら思った。
「あんたらっていつからそんな感じなの?」
隣を歩く先輩が、何の脈絡もなく訊いてきた。
部室であったあの一幕の気まずさから、僕らは示し合わせたかのようにそれぞれ距離を取っていた。
そうすると自然と、先頭に山内と早乙女、少し離れて番原先輩と僕という二組が出来上がった。
番原先輩が訊いてきたのは、合流してきた僕らの微妙な雰囲気を敏感に感じ取ったからだろう。
「いつからって、別にいつもこんな感じですけど」
「はぁ? マジで? ……てかアンタはなんであんな子がいて別の子に行くのよ。身の程知らず? 身の程知らずなのか?」
「もう、うるさいなぁ。身の程ならずっと弁えてますよ。それにこの間、嫌というほど味わいましたし」
「あぁ、あれね。ちょっと可愛い子に好意向けられてるから自分がモテるって勘違いしちゃったやつね。わかるわかる」
「先輩の経験談ですか?」
「……調子乗んなよ」
図星かよ。
そんなに古傷が気になるならやめればいいのに。
「てか、これどうする気ですか?」
そう言って先輩に見せたのは、ポケットに忍ばせていたコンドームだった。
「いやちょっと。あんたそういうの女の子に向けるとか、やばいよ? ノンデリすぎない?」
「アンタが山内に押し付けようとしてたもんだろうがよぉ!」
「いや……流石に冗談っていうか……なんか面白い玩具見つけたなぁと思って悪ふざけしただけだし」
最低だこの人。
あっけらかんと悪気もなくそう言う先輩に、天文部のかつてのOGたちを幻視する。
どうしてこの人が天文部にいるのか、何となくわかってしまった。
「じゃあ、僕らは何しに行くんですか?」
「だから敵情視察よ。私、あの山内君のことも、その幼馴染の河上って女子のこともよく知らないもの。その二人が話してる時の様子でも見れば、脈アリかどうかなんてすぐに分かるわ」
「えぇ、本当ですかぁ?」
女の勘とかいうやつかもしれないけど、この人のこれまでの言動からはとても信じられなかった。
僕の滲み出る不信感を察したのか、先輩の眉間に深い皺が寄る。
「あんたが河上とかいう子が好きだったんだろうなって分かるくらいには本当よ」
「……」
何も言えなくなった僕を見て、先輩は小馬鹿にするように鼻を鳴らした。腐っても恋愛アドバイザーを語るだけの洞察力はある。そんな感じだった。
先輩に強烈なカウンターパンチを喰らっているうちに、僕らは渡り廊下を抜け、本校舎側に入る。
基本的に静かな文化部の部室が密集している旧校舎とは違い、本校舎には多種多様な音が入り混じっていた。
限られた空間を有効的に活用するための階段で持久走をするバドミントン部や、ドリブル音を体育館に響かせるバスケ部。
少し遠くから聞こえるのは吹奏楽部の演奏だろうか。
そのどれもが必死に何かに打ち込む学生としてのあるべき姿で、何となく居心地の悪さを感じる。
「美菜の陸上部ってこの時間は外だっけ?」
早乙女がそう訊ねると、少し考えるように顎に手をやった山内が答える。
「うん。でも、もうそろそろミーティングのために戻ってくるんじゃないかな」
「じゃあ、下駄箱の方で待つわよ」
そう言って正面入り口の方へと進んでいく先輩。
完全に出遅れた僕たちは慌てて後を追う形になる。
間に山内を挟んで三人横並びになった僕らの空気は何となく気まずい。
それは僕と早乙女のこともあるが、それよりもとぼとぼと自信なさげに歩く山内の存在が大きかった。
「なぁ、早乙女はなんか訊いてないのか?」
「……明」
「……明は河上さんからなんか訊いてないのか?」
「そんなに美菜の事が気になるんだ?
あんなに好きだったもんね」
そう言って流し目を向ける早乙女の口先が尖る。
何だこいつ、面倒臭ぇ!
「只野が美菜を……? そう……だったのか。
そうとは知らずにこんな事相談するなんて……俺は本当にダメなやつだ」
あっあ。
こっちまで飛び火してる!
やだこの空間、面倒臭さが飽和してる。
さらに落ち込む山内と、それにあわあわと慌てることしかできない僕。そんな僕らの滑稽な姿に溜飲を下げたのか、早乙女はくすくすと忍び笑いを漏らす。
「そうだよぉ、この咲月くんは今でも美菜の事を狙っているんだよぉ。だから、この相談だって親切なふりをして君たちを仲違いさせようとしてるのかもしれないよ」
うーん、これは否定できない。
でも、そんなこと言ったら山内が誰も信用できなくなっちゃうだろ!
ピュアな山内から疑いの目を向けられる事を覚悟していると、意外なことに山内は首を横に振った。
「只野はそんなことしないよ」
山内の目がまっすぐと僕を捉える。
その澄んだ瞳には一分の疑いの色もなく、心からの言葉だと訴えていた。
「只野とは交流は少なかったけど中学から一緒だったし、それくらい分かるよ。早乙女さんだって分かっているでしょう?」
僕は望外に寄せられた信頼に呆気にとられ、言葉が出なかった。
早乙女のくすくす笑いが、ぴたりと止まった。
彼女の瞳が、一瞬鋭くなって山内に向けられる。
「へぇ。美菜に鈍感だってよく言われてたのに、それは分かるんだ」
早乙女の声には少しだけ棘が混じっていた。
でも、山内はそれに怯まず、静かに続ける。
「美菜の受け売りだよ。早乙女さんがあんなに心を開いているのは只野くらいだって」
今度は早乙女が固まった。
「な、何を言ってるのかな?」
「僕達だって二人のことは見ていたんだよ。もどかしいなぁって。まぁ僕達が言えることじゃないかもしれないけど」
番原先輩が、前で「ぷっ」と吹き出したのが聞こえた。
早乙女の頰が、ぱっと赤くなる。
いつもみたいに悪戯っぽく誤魔化すかと思いきや、彼女は唇を噛んで、視線を逸らした。
「……うるさい」
小さな呟き。
でも、その声はどこか震えていて、いつもの強気さが消えていた。
「ははは、ごめん。ちょっと揶揄いすぎたね。でも、僕らばっかり肴にされたんじゃ不公平でしょ?」
そう言って照れくさそうに頭を掻く山内の表情は、いつもの、あの後ろの席から眺めていた頃の屈託のない笑顔だった。
僕が憧れた、あの人の好きな人の顔だった。
「オーイ! みんな戻ってきたぞー!」
「美菜ー! 今日のタイムどうだった?」
「やばかったよー! 自己ベスト更新したかも!」
下駄箱の近くまで来ると、陸上部の生徒たちがどやどやと雪崩れ込んできた。汗と土埃と笑い声が混じった熱気が、一気に廊下を埋め尽くす。
その中心に、河上美菜がいた。
ユニフォームの裾を軽く絞りながら、仲間とハイタッチを交わしている。ポニーテールが揺れて、頰がまだ上気したまま。
山内が、思わず足を止めた。
僕はそんな山内の袖を軽く引っ張る。
「ほら、行ってきなよ。山内くんなら大丈夫だよ」
山内は、びくりと肩を震わせて僕を見る。
顔が真っ赤だ。
「で、でも……」
「『お疲れ様』の一言でいいんだよ。あとは一緒に帰ろうって誘えばいいんじゃない?」
早乙女の声は、からかうようでいて、どこか優しい。
僕はその横で、安心させるように頷く。
番原先輩が、後ろから山内の背中をドンと押す。
「行け行け! ここで止まったら一生後悔するわよ!」
山内が、よろよろと前に出る。
僕に男女の機微はわからない。
でも、そんな事は関係なく僕らは大人になっていく。身体の成長に合わせ、心の成熟に連られて変わっていく。
いつだって彼らは僕の前にいた。
目の前で繰り広げられていたラブコメが、等身大の恋になっていく。
ぼくもあぁなりたいなんて。
二人を見て、身の程知らずの願望を抱いてしまう。
意を決した山内はゆっくりと顔を上げ、河上さんの方へ歩き出した……その瞬間、襟首を番原先輩にがっちり捕まれ、柱の影へと引きずり込まれた。
「あっ、」
早乙女の気の抜けた声に釣られて、僕はその視線の先を見る。
そこには、仲が良さそうに……いや、率直に言って恋人同士のように身体を預け合う河上美菜の姿があった。
「すみません、最上先輩。」
「ううん、全然良いよ。今日の練習はハードだったからね。乳酸が溜まったのかも?」
会話だけ聞けば、なんてことはない。
仲の良い部活の先輩が、疲れの溜まった後輩を支えているだけだ。
しかし、僕らには彼女と彼の見せる表情が、それだけではないと言っているように感じられた。
あれは、中学の頃の河上さんと山内くんが見せていた空気感そのものだった。
つまり――
「お前、もう負けてるじゃねぇか!」
番原先輩が山内の頭をぽかりと叩く音が、柱の陰から響いた。




