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異世界転生ハッピーライフへの道のり  作者: 竹ノ内 ワビ
1/9

前世の記憶


物語の初めは、こんな不幸から



深く烟る霧の奥から、鳥の鳴き声のような警笛が聞こえる。


女は、もうこんなところまで追って来たのか、と焦る心を力に変えて、ボートの縁を必死で押していた。

霧で湿った衣類がからだに負荷をかけ、足がもつれる。

いまは何時だろうか、とおもう。太陽が昇るにつれて霧は薄くなるであろう。早く出航しなければ、濃霧に紛れて姿を隠すのも難しくなる。

ドレスの裾が泥に塗れるのも構わず、すべらかな肌をなぞるように汗が吹き出ても、木材のささくれが手に食い込んでも、歯を食いしばって、湖へと舟を押した。


「   さま」


ボートの中から、か細い女の声が縋るようにないている。


「お黙りなさい。お前、これしきの災難で、わたくしの星を奪うつもりだったの?弱音を吐くなら其処から出ておいで。わたくしが今すぐ殺してやる」


何度も靴底が滑り、やっと舟が少し進む。

警笛の音が先ほどよりもずっと近くに来ていた。

息が上がり、獣のような短い呼吸を繰り返して、女はふと、追手は犬を放って探しているのかもしれないと思った。

船底を擦る音が変わり、ボートを押す手が僅かに軽くなる。

もう少しで湖へ出る。もっと沖まで押せば流れに乗って反対側まで流れるだろうか。


「  さま、お願いです、どうか」


再度、女が縋る。

まさしく懇願しており、声は震えていた。

女は黙したまま舟を押している。

膝が浸かり、腰が浸かり、肩口まで水が来るほどの深さまで舟を誘導し終えると、少しだけ身を乗りあげてボートの中をのぞく。

中には、虚脱状態で蒼白とした顔色の少女が少年に寄り添っていた。

少年は微動だにせず横たわっており、一目で上等だと分かる衣装はあちこちが破れ、血が滲み、煤けているうえに、硝煙の臭いを纏っている。

死んでいるように見えるが、目を凝らせば肌には脂汗が滲んでおり、舟の軋みと水音で聞こえ辛いが、呼気もしっかりとある。

女は、ほっと息を吐くように笑んだ。


「わたくしのアルファ星。大切なあなた。愛しいあなた。わたくしはどんな時でも、貴方を想っています。ですから、どうか、その身を星のように燃やし尽くしてしまわないでくださいませ。わたくしは、それだけが心配です」


母親が子を嗜めるよりも甘く、けれども、恋人が愛を紡ぐよりは距離のある強さで、女は微笑んだ。

船縁にかけた手をそっと少年に向けるが、指先が少年のどこかに届く前に止めた。ひどく触れ難い、という様子に、傍観していた少女は静かに涙をこぼしている。


「貴女の温もりさえ、この方に残して下さらないのですか」

「お前がいるわ」

「どうか、お願いです。早く舟に乗って下さい」

「お前がいるわ」

「さんざん私を虐めて笑って、暴言を吐いていたのに、こんな時だけ酷いじゃありませんか」

「姑は嫁をいびるのが仕事なのよ」

「お願いします、お願い、どうか、舟に乗って、お願いします」


今にも気を失いそうな体力で泣いた所為か、少女の身体が前へと傾ぐ。女は少年の上で彷徨っていた手を、素早く倒れ込む少女の前にやって支えた。そのまま静かに横たえてやり、顔にかかった髪を指先で梳いてやると、少女は耐えられないというように顔を歪ませて、更に涙をこぼした。


「追手はわたくしが引き受けます」

「やめてください!」


少女が真っ白な顔で悲鳴をあげる。が、それももう力ない。


「閣下に説明された順路は覚えているわね?覚えていなくても思い出すのよ。いいわね、必ず生き延びなさい」

「目覚めてあなたが居られなければ、この方は一生を苛まれ生きて終われます!」


少女の痛切な懇願に、一瞬、困ったように笑んだ女は、やはり「お前がいるわ」と言って笑みを深めた。


「まったく、最後までしまらないわねぇ…なんで恋敵にこんなこと言われなくちゃなんないのかしら」


わざとらしくため息を吐いた女は舟の縁近くに備えていた剣を掴むと、乗りあげた体を水に沈めて、外から舟を力一杯押した。


「この先、幸せである瞬間を呪うことがあればやめなさい。そして決して、その努力を惜んではなりません」

「    さま!」

「どうか、戯れでもわたくしを愛してくださったならこの願いを聞き届けて下さいますよう、あの人にお伝えしてちょうだい」


少女の細い叫びが霧に消え、舟の軋みが遠ざかる。

その姿が消えるまで女は見送り、一度、強く瞼を閉じて開くと岸辺へ身体を向けた。

やまびこのように聞こえていた警笛の音が、間近に迫っている。

水から上がり、剣でドレスの裾を斬り、手足の裂傷を拭って、岸から離れた木立へかけた。こんな小細工でもしないよりはましであろう。


「もはや、今生に未練はない」


呟くと、腕の震えが少しおさまる。

あの人を守る。

そのために生きた。

もう、あの人のそばにはあの子がいる。


「他人の心ばっかりは、仕方ないものねぇ」



女ははじめて憂いた表情を浮かべて、しかしすぐに剣を握りしめると警笛を誘導するように駆け出した。







2021/08/06

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