王子は人魚姫こそが命を救ってくれた人だと気付けず、彼を救ったことになっている港町の娘と結婚することになりました。……それが私です。
「……はい?」
手紙を読み終わった瞬間に思ったことはただ一つ。
はやる心を抑えながらゆっくりと、おしとやかに手紙を置いて、……一呼吸して私は叫んだ。
「…っざっけんな!!!!!」
どうも皆様初めまして、わたくしはアレリア・リーティア。リーティア公国第十公女でございます。
今は修道院で行儀見習いをさせていただいておりますの、おほほ……なんてのは表面上の話。
まず考えてほしい。
第十公女である。
そもそも王女、公女というのは国内国外の名家に嫁がせて関係を得るための道具であり、そうやって強固な結びつきを得ることは非常に大事だが、それよりも何より、先立つ金がいる。
まずもって婚約を結ぶための諸費用、交通費やらなんやら、持参金、結婚式パレードの費用、と、もう考えるだけで気の遠くなりそうな金がいる。
そして、公女を受け入れる側にも、屋敷を改築したり、新築したり、歓迎パーティーを開いたり、とそれなりの準備が必要になる。
そして現状、我が国はありがたいことに平和である。
近隣国ものんびりまったりと平和を謳歌している。
こんなに娘がいても余ってしまうだけ。
余り過ぎて修道院で行儀見習いなんてものをさせる始末。いったいどうやって修道院で王女としての行儀を習えるというのか。
つまりはあれだ、生贄だ。
修道院で清貧に過ごす公女がいるということで教会勢力とのうんちゃらかんちゃら。民からも王家――まあ正確に言うと大公家――の心象が良くなってうんちゃらかんちゃら。
まあ、別にね?
こんな冒頭から荒れ狂ってる時点でわたしゃ普通の公女じゃないし、別にいいんですよ。むしろ窮屈な城を抜け出せたってことで御の字ですわ。
もう礼儀作法に厳しい侍女頭に怒られないで済むぜ、ひゃっほーーい!とネジの吹っ飛んだ頭で日々を過ごしていたところに届いたこの手紙。
そう、ここでやっと冒頭に戻る訳です。
「メーディナ王国第三王子と私が結婚……いやいやいやさすがに無理があるっしょ…」
こちとら公国の第十王女、格上の王国に嫁ぐとかストレスマックスだし、第三王子って下手したら王位継承権が巡ってきかねない事故物k……おっと失礼。
将来国を背負う立場になられるかもしれない尊きご身分でいらっしゃる。
そして何よりも。
手紙に添えられていた身上書と肖像画を見た瞬間に、私は激しく後ろへのけぞった。
激しいリアクション過ぎて、後ろの箪笥に盛大に頭をぶつけ、その痛みで前へと体を折り曲げ、今度は手紙を置いていた机に顎をぶつけた。
ッパーン!と目の前で火花が散って、しばし悶絶。
この筆舌に尽くしがたい痛みは、経験した人なら分かるだろう。
床にうずくまってただひたすらに呻き、耐え、どーにかこーにか動けるようになると、素早く周りを見回す。
うん、こんだけ騒音を立てても誰も来ないってことは大丈夫。
爽やかな潮風の吹いてくる窓辺に駆け寄って、窓枠に手を掛け、華麗に室外へと脱出。
そのまま潮で風化した石段を駆け降り、あっという間に浜辺へ。
「ケーーーーレアーーーース!!!!! 急用!」
第十公女渾身の、腹から出した声が響き渡る。
自分でも惚れ惚れするような大声が出て、素晴らしく浜辺に反響した。
最強の発声で呼びかけ、待つことしばし。
私の立っている波打ち際よりは少し離れた波間を割って、ざぷんと頭が現れた。
「……なんの用ぉぉ…?」
情けない声で恨めしそうに言ったのは、塩水で濡れた髪をびたーっと顔に貼り付けた男。
目元には何徹したんですかと聞かずにはいられないような立派な隈、目はしょぼしょぼで声はガラガラ。
一瞬急用を忘れて、「今すぐ戻って寝なよ!」と言いそうになった。
いけないいけない。
「私さ、嫁ぐことになったんだけど、その相手がね、メーディナ王国第三王子、アンブロシウス・メーディナ=カーレって名前なんだけど、……彼だよね?」
それを聞いた時のケレアスの顔を、たとえいくら歳を取ったとしても、私は忘れられそうにない。
「待って待って、『なぁにを言ってるんだかー』みたいな顔しないで、ケレアス! だから、その、末のお姫様が恋してる相手って、アンブロシウス第三王子だよね!? 黒髪黒目でアンブロシウスって名前なことしか聞いてないけど、そうだよね!?」
ケレアスは無言のまま、ぱしゃりとヒレで顔を覆った。
ケレアスの顔の何倍もありそうな立派な立派なヒレでぱしゃぱしゃと顔を洗っている。
そう、ケレアスは人魚である。
私とケレアスが出会ったのは、今日みたく私が大脱走してたとき。
心労と現実から逃れるために浜辺まで泳いできたケレアスは、わーお月様が綺麗だなーうふふーって不気味に笑っていて、そんな彼を見つけたのが最初。
当時の私はまだ心もヤワだったから、お父様から見捨てられた悲しみとか、いつも世話をしてくれていた侍女と会えない寂しさとか、おかあさまが死んでしまった絶望とかで、夜になるとふらふらと修道院を抜け出したりなんかしていた。
うん、まあ、おかあさまが死んでしまって後ろ盾が弱くなったからこそ私は修道院行きになったんだけどもね。
涙をこらえて月を見上げ、それでもやっぱりぽろぽろと零れて砂地へ吸い込まれていく涙をぼんやりと見つめていたら、波間を漂うにっこにこの不気味な笑顔を見つけたのだ。
あの出会い、忘れるはずもない。
しかもその下半身を魚に食われた男――当時の私は伝説に出てくる人魚と言えば美少女だと思っていたので、こんな不気味な生命体を人魚とは思えなかった――は、私に見られたことでビクリと震えて、……そのまま逃げ出すかと思いきや、「わー、かーわいー女の子だーーあっははーー………ハハ、ハハハ」と乾いた声で笑うのだ。
この笑い方、聞いたことがあった。
私の世話をしてくれていた侍女が私のおかあさまの死を知り、その後しばらくは私を城に留めようと奔走し、それでもどうにもならなくなった末に空を見上げて笑っていたときと全く同じだった。
当時の私はおバカな幼子だったので、あの侍女がどれほど精神的に追い詰められていたのかなんて分からなかったけれど、彼女と同じ笑い方をしている彼を放ってはおけなかった。
とりあえず頭をよしよししてあげて、「ちゃんと寝なきゃだめよ?」って言ってあげたのである。
彼は「むーりむーり、無理よりの無理ー! だって仕事山積みだしぃ。それにぃ、寝ようと思っても寝れないんだもーーん!」と駄々をこねた。ちなみに当時、ケレアスはとうに成人済みである。
そこで私は、おかあさまに作っていただいた香り袋をケレアスに渡して、「これを枕元に置いて香りを嗅ぐとよく寝れるのよ」と舌っ足らずに言ったのだ。
ケレアスは「やったーありがとーー」と言って帰っていった。
…そう、海の底へ。
おかあさまの形見をその場の勢いで渡してしまったことに気付いた私は、その後、部屋に戻ってから蒼褪めた。
翌日の午後遅く、厳しい修道院長の監視が和らいだ瞬間に部屋を飛び出し、浜辺へ猛ダッシュ。
果たして、しょんぼりと項垂れたなさけなーい人魚がそこにいたのだ。
大きな手にちょこんと摘ままれた香り袋には塩水が浸みてすっかり潮臭くなり、刺繍糸は色落ちして、完璧に駄目になってしまっていた。
それを見た私はギャン泣きし、ケレアスは必死で謝る羽目になった。
ケレアスが私に謝るために朝からずっと浜辺で出待ちしていたということは、後で知った。
香り袋を駄目にしてしまったケレアスへの怒りやら、形見をほいほいと人に渡してしまった自分への怒りやらでいつまでも泣き続ける私を宥めるために、さらに夕暮れまでケレアスは浜辺にいることに。
それからも私は夕暮れ時になると浜辺へ抜け出すようになって、ケレアスは深い海の底から上がってくるようになった。
追い詰められて酔っぱらっていない時のケレアスは至極真っ当な人間…人魚で、私の愚痴をいくらでも聞いてくれたのだ。時にはケレアスがまた追い詰められていて、私が子守歌なんて歌うこともあったけれど。
なんやかんやで、この関係はもう十年ちょっと続いている。
三百年生きる人魚であるケレアスにとっては、大した長さではないんだろうけど。
…と、話を戻そう。
…そう、ケレアスは海底の城に勤める官僚で、中途半端に出世してしまったせいで上からも下からも文句を言われる地獄の立ち位置にいるのだ。
私と出会った頃よりはちょっぴり出世して権限が増え、少しは心の余裕ができたみたいだけど。でもそれはそれでまた気苦労が増えて大変らしい……と、それはさておき。
今日もケレアスが疲れているのは、末のお姫様が行方不明だったからだ。
末のお姫様はそれはそれは美しく愛らしい少女だそうで、彼女が失踪してからというもの、国王陛下を始めとする王族の方々は心労にやつれていらっしゃるとか。
捜索のためにそこら中を駆けずり回り、人間に捕まりそうになったり、船にぶつかりそうになったり、とボロボロになりながらケレアスたちがどうにか見つけたお姫様は、人間の王子の元にいた。
難破した船から投げ出され溺れそうになっていた王子を助けて、お姫様はそのまま恋に落ちてしまったのだ。恋した王子に会いたくてたまらなくて、危険な魔女と取引して人間の足を手に入れ、声を失う代わりに、王子のすぐ近くで過ごせるくらいにこぎつけたんだとか。
王子はお姫様を愛しているし、お姫様は幸せそうなので、静観することになったらしい。
そういう方向でどうにかまとまって、ケレアスもやっとゆっくり休めるようになったはず。
……なのにまた不健康そうな見た目になっているのは、その王子が別の国の姫と結婚することに決まってしまったからで!
どうすればよいのだって偉い人に聞かれてもどうしようもないよー!っていうケレアスの泣き言を昨日聞いたばかりである。
「うわぁぁぁ…。まさか結婚相手がアリィだとは……」
「いやもうほんと、どうしてくれるんだって感じだよね…」
深い深い溜息を吐くケレアスに、頷きながら鬱々とした顔になる私。
…そう、私が婚約断ればいいって問題じゃないんだよね、これ。
こちとら、そもそも立場の弱い第十公女。
父上の決定に従わないと、すぱーんと首を飛ばされかねない。末のお姫様の幸せを祈る心はあるけど、私だって死にたくはない。
この手紙だってモロモロ決定した後で、「ハイ決まったから従えよ?」くらいの知らせだろーし。
うわぁぁぁギブミー権力ぅぅ!
「…んー、まあ、政略結婚だったはずなのに婚約者が王子を好きになっちゃうって危険は避けられる訳だし、婚約者側の情報も私からケレアスに流せる訳だし、この前までのどうにもなんない状況に比べればマシじゃない? ほら、最悪、私はお飾りの妻になるみたいな」
いつまでも悩んでたってしょうがないからね。
ぐにょぐにょと悩んでいるケレアスにそう言ってやったんだけど、ケレアスは浮かない顔で言う。
「…アンブロシウス第三王子ってめっちゃイケメンらしいから、アリィが好きにならないとは言い切れないんじゃ? そしたらますますどうしようもなくなるじゃないか…」
私の頭の中でブチっと何かの切れる音がして、思わず強い口調で言っちゃったんだな。
「それはありえない」
そう言ったときの私、結構怖い顔してたかも。
だって、ケレアスがびくっと震えたから。
……言えたらいいのに。どうしてそれがあり得ないか、って理由を。
「あー、まあとにかく、現状だと私は何もできないから、とりあえず第三王子が来るのを待つよ。こっちに向かってるんだって。そしたら、お姫様のことをどう思ってるのかとか、聞いてみるからさ」
慌ててその場を取り繕うように早口で言って、ばっと駆けだした。
その背中で、ケレアスの声がした。
「違うんだっ、アリィと王子が結婚した次の日の朝に、姫は泡になって消えるんだ! そういう契約で! そ、それに!」
…そっか、私と王子が白い結婚をすりゃいいって話じゃないんだね。
……そうだよね、好きな人と結婚できなくてもいいって割り切るなんて、本当の恋じゃないもんね。
ロマンティックな恋に生きる人魚の姫。
「あーもう分かったよ! とりあえず頑張ってみるから!!」
振り返りもせずに、投げやりな言葉を放ってただひたすら走る。
後ろでケレアスがどんな顔をしてるのか、知りたくなかった。
そして次の日も、その次の日も。
私は浜辺へ行けなかった。
婚約パーティーの準備が恐ろしい勢いで始まって、ドレスの採寸やら取ってつけた行儀作法のレッスンやらで忙しくなってしまって、一瞬でも抜け出せそうになかったから。
そうこうしているうちに、修道院から城へと連れ出されてしまう。
これまでの私はどうでもいい公女で、放っておかれていたから、いくらでもケレアスのところへ遊びに行けたのに。
ケレアスは今頃どうしているのかな、って考える。
きっと、目元の隈はもっと酷いことになっているんだろうな。
ケレアスはもともとお酒に弱いから、ちょっと飲んだだけですぐ子供っぽくなる。
ケレアスもそれなりに責任ある立場に就いちゃってるから、人前ではそんな姿は見せられない。だから、彼が駄々をこねる姿を知っているのは私だけ。
「…ちゃんと寝ないと駄目だよ、ケレアス」
私の髪を結いあげている侍女たちにも聞こえないように、小さな小さな声で呟いてみる。
「アレリア公女殿下、何かおっしゃいましたか?」
「……いえ、なんでもなくってよ」
淑やかな口調でごまかして、侍女たちが重い宝石で私を飾り立てていくのを待つんだ。
ようやっと櫛を置いた侍女たちは、優美な言葉遣いで私の見た目を褒めてくれる。
「ぬばたまのような黒髪に真珠が映えております」とか「青い瞳の輝きとネックレスのサファイアとが、空に輝く三つの星のようでございます」とか。
ケレアスはもっと、…もっと単純な言葉で、率直に褒めてくれたのにな。
でも、こんな感傷はいったん置いておかないと。
「では、そろそろお時間でございます、アレリア公女殿下」
「…ええ、準備はできているわ」
細くて今に折れそうな靴で、私は扉の向こうへ踏み出した。
婚約パーティーはつつがなく進んだ。
いざ王子との対面となって、付け焼刃の行儀作法にびくびくしながら進み出た私を見て、王子は目を見開き、目を輝かせて抱き着いてきたのだ。
「やはりあなただ! 波打ち際で倒れていたぼくを救ってくれた、浜辺の娘!」
……そういやそんなこともあったかもしれない。
この間、あの修道院の近くの海で船が難破して、船に乗っていた中の一人が浜辺に流れ着いた。それを最初に発見したのは私だったから、救助を呼んだことがあったけど。
でも、大したことはしてないはず。
倒れてる人に「大丈夫ですかー」と声を掛けて、意識を取り戻したのを見て、救助を呼んできただけだ。
手紙と一緒に送られてきた姿絵を見ても思い出さなかったレベルで印象に残ってなかった。
いや、ほんと何もしてない。
運命の人を見つけたときのようにぎゅうぎゅうと抱きしめられるようなことは、一切してない。
っていうか、ずっと修道院にいた私は当然、男慣れしていない。正直かなりビビった。
しばらく震えが止まんなくて、まともに喋れなかった。
ちょっとこの王子、夢見がちなのでは?
……なんて思いながら王子の腕の中でひたすらに現実逃避するしかなくて。
そしたら、とんでもない美少女と目が合ったんだ。
ふわふわでさらさらの金髪に、私のそれよりも透き通った美しい青い目の、儚げな少女。
その子は悲しげな瞳でただじっと私と王子の方を見ていて、私と目が会うと、瞳を潤ませてそっと目をそらした。
……末のお姫様じゃないかい!
会ったことないから顔は知らないけど、凄まじい美少女って聞いてるからこの子に違いない。
まさか付いてきているとは思わなかった。
どうにかして末のお姫様に話しかけられないかって思ったけど、婚約パーティーの間中、王子が無駄にキラキラしい顔面で私へと愛を囁き続けるせいで、そのたびに情けないことに私は震えあがってしまって、何もできずに終わってしまった。
まさかここまで男への耐性が自分になかったとは……。
なんというか、王子はこっちの話を聞く意志がさっぱり無いというか。
私への愛もたぶんあるだろうし運命の出会いに舞い上がっているのもあるだろうし、たぶん悪い人ではないんだろうけど……ああダメだ、王子に肩を抱かれて耳元で延々と囁かれてると背筋がぞっとして、萎縮して、何も話せない。
思い返せば大人の男性っていうものに触れた機会はケレアスしかなかった。
ケレアスは、その、…酔うと幼女みたいになるし。
絶対に私への無理強いとかしないし、いつまででも話を聞いてくれるし、全然違うから。
ケレアスのこと考えてると目の奥がツンとしてきちゃって、……ああもう、考えるのはやめよ。
きっと、姫に話しかける機会が明日あるはず……なんて思ってその場は耐えたけど。
その夜は全然眠れなくって、腫れぼったい目をこすってベッドから起き上がれば、即座に侍女に囲まれて、朝っぱらから風呂に化粧に着付けに…と大忙し。
凶器になりうるレベルで重い白いドレスに身を包んで、コルセットで窒息死しそうになりながら部屋の外へ。
昨日の夜から、私を見るたびに侍女たちが「おめでとうございます」って言って深々頭を下げるもんでなんとも居心地が悪い。
まあ王子と婚約が決まればめでたいだろうけど。
そりゃ、普通はね。
上質な絹地は長くて重くて、裾をさばいて歩くだけで筋肉痛になりそう……。
拷問するときにはこれ着せて何曲も踊らせれば一発で情報を吐くんじゃないかなー、なんて、馬鹿なこと考えて現実逃避。
侍女たちに連れられて来たのは大きな扉の前。
あれ、そういえば今日って何があるんだっけ?
昨日はたぶん婚約パーティーで、今日は親睦会とかかな?
そんなふわふわした考えは、扉が重々しく開いた瞬間に吹っ飛んだ。
目の前に広がるのは分厚い絨毯の一本道。
くらくらするほどの群集に、麗々しく飾り立てられた柱の数々、荘厳な音楽。
そうして、私に向かって甘く微笑む第三王子。
どこからどう見ても……ほら、アレだ。
結婚式だ。
思えば、予測はできたはずだ。
王子は私のことを運命の人だと思っているからすぐに結婚したいはず。
私の元へ知らせが届いたのはつい最近だったから勘違いしていたけど、この結婚自体はずっと前に決まっていたんだから。
侍女たちからの祝福の言葉だってヒントの一つだ。
私が今日結婚することは当たり前過ぎて、もう誰も言わなかっただけ、そう、きっとそれだけだ。
さながら悪夢だった。
悪夢を見ているような気分だった。
花びらの散る中を歩いて、聖僧に祝福を受けて、誓いの言葉に呆然と頷き、王子のキスを手の甲に受ける。
「慈悲あまねき神の名の下、ここに二人は結ばれた。未来永劫の愛に幸あれ!」
私はそれら全部をただ呆然として見ていた。
全てが目の前を滑っていくようで、全く現実味がないんだ。
それが終わると、王子に肩を抱かれて船へと乗り込む。
花で鮮やかに飾られた船上でパーティーを開くらしい。
海。
浜辺には何度も行った。
海に出るのは、初めてだ。
ここがケレアスの育ったところ。
涙は出てこなかった。
きっとケレアスと初めて会ったとき、おかあさまのことを想って泣いたあのときに、一生分泣いてしまったんだ。
悲しいはずなのに、ただ胸にぽっかりと穴が空いているようで何も感じられない。
空虚な心のままにぼんやりと周囲を見回していると、悲しみと痛みに濡れた瞳と目が合った。
末のお姫様。
私に見られたことに気付くと、すぐに視線をそらしてどこかへ行ってしまう。
結婚式にも参加していたのかな。呆然としていて気付かなかったけど。
……ああ、駄目だ。
このままじゃ、誰も幸せになれない。
船上の宴はもうじきに終わる頃。
私に近づいてきた王子はにこやかに微笑みながら、私を豪奢な寝室へいざなおうとする。
「…あの、第三王子殿下? あの娘さんは、いったいどなたですの? 殿下のお傍にいた、金髪に青い目の彼女のことですわ」
これまで、私は王子の前でほとんど何もしゃべってない。はい、いいえ、なるほど、くらいの最低限しか。
王子は私からの言葉に少し驚いた様子で言った。
「あの娘はね、口の利けないみなしごなんだ。どこから来たのか誰も知らないけれど、とても優雅に踊るのでね、傍に置いているのだ」
王子は言いながら愛しいものを見る目をしていて。
…でもどう見たって、妹や娘に向けるような、子供を可愛がるような目線でしかなくて。
確かに末のお姫様はグラマラスではないが。
お前は胸と尻に肉がついてないと恋愛対象として見られないのか、そうかそうか、肉と脂肪が好きか!?
…なんて、八つ当たりでしかないんだけど。
私も、末のお姫様も、本当に好きな人に好きだと気付いてもらえないままなんだって気付いたら、どうしようもなく報われない気持ちになってしまったから。
「…そうですの。あなたが汚らしい孤児の娘なんてものを傍に置いているとは思いませんでしたわ」
嘘だよ、嘘だよ!
王子に嫌われよう大作戦で行ってみようって、ただそれだけで。
だから、だからお願い王子、……お姫様のために怒って。
「……なんてことを言うんだ、あなたは」
王子は愕然とした様子で私を見る。
うん、そう、それでいいの。
明日の朝になればお姫様は泡になって消えてしまう。
でも、もしかしたら今からでも変えられないかな、どうにかできないかな。
「あら、わたくしは高貴な血を引く姫ですのよ。そしてあなたは王国の第三王子。まぁ、ペットとして平民を可愛がるのはよろしいけれど…ほどほどになさってね?」
…決まった!
これは完全に決まった。
っていうかお姫様は人魚の姫だしね。平民ではないよね。
たとえお姫様が平民だったとしても、身分が理由でお姫様と王子の結婚が許されないんだとしたら……私とケレアスだって。
王子は言葉もなく、失望した顔で私を見ている。
私は手に持っていた扇をふぁさっと広げて、パシッと打ち鳴らし、ヒールをかつかつと鳴らしながら立ち去ってやった。
…実は扇が広がりにくくて一瞬ヒヤッとしたけど、まあ、王子には気付かれてないと信じる。
ドジっ子属性じゃ悪役にはなれないからね…。
そして一旦柱の裏に退場。
さてお姫様はどこだ…。
いまや宴もお開きの気配。
使用人の方々が甲板で数人立ち働いていて、貴族の大半はもう船室へ移動した頃かな。
ほとんど夜通しでどんちゃん騒ぎしてたから、朝までは時間が無い。
えいやっとヒールを投げ捨てて、素足になって駆けだす。
ああもう、王子に嫌われる作戦よりも、王子に真実を伝える作戦の方が良かったのでは?
今更になって気付いたよ!
でもあのまま「真実を話します…」なんて言ってたら「じゃあ寝室でゆっくり聞こうか」ってなりかねない雰囲気はあった…。
っていうか王子とまともに喋るのも結構難しいんだよね、男に慣れてない自分が恨めしい!
いまさら後悔したって仕方ない、とにかくお姫様を探さなきゃ!
そして、走り回ってやっと見つけたお姫様は甲板の手すりに寄りかかって、海を見ていた。
違う、波間に漂う数人の人魚と話をしていたんだ。
「そのナイフは魔法使いと取引をして手に入れたの。わたしたちの髪と引き換えたわ。だから、これで王子の心臓を突きなさい。温かい心臓の血があなたの足にかかれば、あなたはまた人魚に戻れるわ!」
波に揺られている人魚たちは全員が美しくて…でも、言う通りに髪がぶつりと断ち切られていた。
そしてお姫様は、銀のナイフを手に持っていた。
「さあ急いで! 日の昇る前に、あなたか王子かが死ななければならないの! おばあさまはあなたのことを心配し過ぎて、髪がすっかり抜けてしまったわ。海の底ではずっとあなたの不在を悲しんでいるの! 日が昇ってしまうわ、急ぎなさい!」
そう言い残して美しい人魚の姫たちは波間に沈んでいく。
残された末のお姫様は甲板に立ち尽くして……銀のナイフを見つめる。
…いや、まさか、本当に王子を殺す気じゃ。
空の向こうが赤く染まってきた。
日が昇ってくる。
どうしよう、どうすればいい?
私が躊躇って何もできなかった数秒間。
瞬間、お姫様はナイフを投げ捨てた。
そしてそのまま海に向かって身を投げ出そうとして…その華奢な手をぎゅっと掴まれて驚いた顔で振り返る。
お姫様の腕を掴んでいたのは第三王子。
王道系優男な王子は細身なんだけど、男だからお姫様よりも力がある訳で…。
王子はお姫様の肩に腕を回してきつく抱き寄せ、キ、キキキキキキ…。
うっわぁぁぁぁあんなにぶちゅーって!
え、ちょっと、激しすぎない!?
し、舌を入れるの…!? そんなことしちゃっていいの!!??
お姫様も最初は驚いたように体を震わせて王子の腕から逃れようとしていたけど、すぐにくたっと力が抜けて王子にもたれかかって、うっとりと熱に浮かされたような表情をしていて…。
やだやだ、男慣れしてない私には刺激がががが。
やだー!
幼女ケレアス、来て! へるぷみー!
そ、そういえばお姫様が投げたナイフはどうなったんだろう…って現実逃避気味に海を見たら、なんか変なのがいる。
バンザイしてる変な奴が。
真上に腕を上げて、バシッと手のひらを合わせてる変なケレアスがぷかぷかと。
私と目が合ったケレアスは所在なさげにきょろきょろと視線をさまよわせてから、なさけなーい顔で言った。
「真剣白刃取り成功……なんちゃって…」
「ボケてる場合じゃないでしょ!? しかも面白くない! そのまんまじゃん! 刃物で遊ぶなってちいちゃい頃に教わらなかったの!?」
「うっ」
ほんとに全くもう、「うっ」じゃないんだよ、馬鹿ケレアス。
ケレアスがいることに気付いた途端に足が震え始めて、なんだか泣いてしまいそうだ。
もう日は昇っている。
鮮やかな桃色の朝日が海の上に長く光の尾を伸ばして、煌々と輝いている。
でもお姫様は消えてない。
王子と何回めかさっぱり分からないキ、キキキ…をしてるところ。
だからもう大丈夫なんだ、きっと。お姫様も王子も、もう大丈夫。
「……ケレアス」
情けないことに、私の声は震えてた。
でも、言わなくちゃ。
「うわっちょっ、待って待って、せめて俺から言わせて!?」
この空気読めないケレアスが!
「この期に及んで、かっこつけて俺って言ってもダサいよ、ケレアス?」
「相変わらず辛辣ぅ! でもそんなアリィが僕は恋愛的な意味で好きですごめんなさい!」
「え、え、え、え、………いやなんでごめんなさいって付けたのよ!」
「どうせ妹を可愛がるような「好き」なんでしょって言われないための予防線として「恋愛的な意味で」を付けたのに、ヘタレが災いしてなんでか謝っちゃったよぉぉぉ!」
「そ、そそ、そんなヘタレなところも含めて、す、すす、好きよ!?」
「アリィこそなんで疑問形!!!」
熱いキ、キスで結ばれたロマンティックな二人と違って、私たちはやっぱり締まらないな。
でも、こういう方が私たちらしくていいなって思っちゃったり。
しかも、そうしてる間もケレアスは波間から上半身だけ突き出してプカプカしながら、バンザイしてるもんね。
私はヒールをほっぽって、裸足でドレスの裾を掴んで持ち上げてるもんね。
最高に締まらない。
絵面がコメディでしかない。
朝陽が目に染みて、なんでか私は泣いてしまった。
めちゃくちゃに焦るケレアスを見てる内に今度は笑い転げちゃって、私ってばなんだかもう情緒不安定だなぁ。
その後、ようやくバンザイをやめて船の方へ近づいてきたケレアスから、説明を聞いたんだ。
もう何十回目か分からないぶっちゅーを終えて落ち着いた王子も、お姫様の肩を抱いたままだけど、一緒に話を聞いた。
「や、だってさ、人魚の姫が人間の王子を殺して逃亡なんてことになったら、人魚が狩られかねないじゃん? やばいじゃん? だから仕方ないじゃん?」
「うるっさいよ、ケレアス。言い訳しないで簡潔に!」
ぶつぶつ言い訳するケレアスをいつものように叱ってたら、王子は目を真ん丸にして私を見るんだ。
「ちなみに僕のアリィはいつもこんな感じだから。あんたの前ではこういう素顔を出してないだろうけど、僕の前ではいつもこうだから」
そんな王子に対して、子猫みたいに威嚇するケレアス。
でも王子のキラキライケメンオーラに怯えて、一歩下がってるし。
「はいはい、脱線してないで説明!」
「あ、うん。つまりね、魔法使いと取引して、王子の見てる夢につなげてもらったんだ。それで末のお姫様がいかに王子を想っているか、王子の運命の人は誰なのか…っていうのをダイジェストにまとめた映像を流したの」
「…ああ、あなたが私のためにあんなに苦しんでいたなんて! 人魚の姫よ、どうか罪深い私を許しておくれ、一生あなたを愛し、幸せにすると誓うから! あなたこそが私の運命の人!!」
ケレアスのふにゃふにゃした説明と、間に挟まる王子の熱い告白。
いや、ほんとに温度差がすごくて風邪引きそうだわ。
「で。代償は何なの」
「待って待ってアリィ、声が平坦で怖い…。言うよ、言うから怒らないでぇ! 僕の役職ですぅ!」
「…は?」
「きゃぁ、やめて睨まないで! あのね、説明する! 実は海の魔法使いって王様の友達だったんだよ!」
きゃーきゃー騒ぎながらケレアスが説明したところによると、魔法使いは今の王様と仲たがいして城を追放されてしまった人魚で、元は王様の一番近くで仕えてたらしい。
お互いに悪いところがあった感じの喧嘩で、王様も後悔してたんだとか。
だからちょっぴり強引にケレアスの役職を譲ることで、魔法使いが城に出入りできるようにして、王様と仲直りをしてもらおうと画策したらしい。
魔法の契約は世界の理だから、王様の決定よりも優先されるんだとか。
「海の渦の中で一人で過ごしているのは退屈で飽きたから、久しぶりに忙しく働きたいんだって」
「それで、ケレアスはどうすんのよ」
「そうだ、私と姫を繋いでくれた君は、どうするのだ?」
王子の腕の中で、お姫様もこくこくと頷いてる。
「僕は海神を祀る祠の掃除係になりましたー」
「左遷じゃん?」
「ザ・閑職だよー!」
「そっかぁ、おめでとうケレアス!」
「アリィなら分かってくれると思ってた! 僕ってやっぱ官僚向いてないもんね!」
やったね!って船の手すり越しにハイタッチする私たち。
朗らかな顔してるケレアスを見ると、嬉しくなっちゃう。
王子は「そ、それでいいのだろうか…?」って戸惑ってるけど、いいんだよ。
ケレアスはなんだかんだ言って優秀だからいずれまた役職に就くかもしれないけど、ひとまずの休息は必要だと思うし。
ケレアスにはまず寝てもらわないと。
「とゆー訳でー、王子サマ、ちょっと相談があるんだけど」
私がいかにケレアスを寝かしつけるか考えてたら、悪い顔をしたケレアスが王子ににじり寄って話しかけた。
「…ほう。…なるほど。…分かった」
二人の相談をちょっぴり呆れながら聞いてれば、もうあっという間に日が高く昇ってきて、他の人たちも起きだしてくる。
人魚はまだまだ伝説の中にある存在。
姿を見たことがある人はそれなりにいるだろうけど、はっきりと姿を見られたらあんまりよろしくないからね。
その場は慌てて解散したんだ。
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あの爆速結婚式から一か月が経った。
そうそう、末のお姫様が第三王子を助けたってことは詳細(お姫様は元人魚なこととか)を伏せつつ国中に広まって、いまや純愛を貫いた二人を祝福する声でいっぱい。
王子は愛を貫くためなら王族としての立場を捨てるって言ってたんだけど、お姫様は健気に王子としての彼を支えたいとかなんとか言って、そんなお姫様に王子は愛を囁き始めて…。恒久砂糖生産工場だったね。激甘過ぎて……。
まあ、第三王子だし、今のところは王位を継がなくていいはず。
もしそんなことになったとしても…まあ、あの二人ならラブラブでやっていけるんじゃないかなー。
めでたいね。
隙があればぶっちゅーを始めるあの二人にはかなり参ったけども。
そして私は、結婚したその次の日にばばーんと離婚できました!
しかもしかも、第三王子がケレアスの身分をうまいことでっち上げてくれたんだな。
実は王国の貴族筋ってことになってるんだよ、今のケレアスってば。
王子が最高品質の真珠と珊瑚(ケレアスがコネを活かして手に入れた)で作ったネックレスを公国に持って行って、「アレリア公女殿下を嫁に迎えたいという者がおりまして…王国の貴族筋で、これだけの宝石を用意できる裕福な家でして…」ってやってくれたの!
王子の従者さんがケレアス役をしてくれたから、私のお父様はケレアスが人魚だなんてさっぱり知らないんだよね、笑っちゃう。
いやぁ、夢見がちクソ王子とか思っててごめん!
結婚式翌日に離婚されたっていうのはさすがに傷物案件だから、そうなった私をこれ以上貴族に嫁がせる訳にはいかないもんね。
でも、王国の貴族の血を引いてて、少々金持ちの名家なら、私を嫁がせるにもなかなかいい条件だってことで、一発で認められたんだなぁ。
…そう、そう、つまり、今の私は…ケレアスの、その、つ、妻ってことになっちゃうんだ。
まあ、その、書類上というか、手続き的に必要だったからやったことで。
既成事実とか結婚式とかは全然ないんだけど。
王子が贈ってくれた海のすぐそばにある小さな家に帰る、足取りは今日も軽い。だってケレアスが待っているんだから。
私はいま十八歳。どんなに長生きしたってあと百年は到底生きられない。それでもケレアスには三百年あるうちの半分以上がまだ残っているから。
私とケレアスは違うんだ。
お別れが近づいたときにどうするか、それはまだ決めてない。魔法使いに何かを渡して寿命を伸ばしてもらうっていう選択肢もある、きっと代償は凄まじく重いものになるだろうけど。あるいは人魚の肉を食べるという選択肢もあるけど、ほんの少しの肉ではただの毒なんだって。そして十分食べれば私は不老不死になってしまうし、それだけ食べられた人魚は死んでしまう。あるいは、何もせずにただゆっくりと老いていって、ケレアスに看取ってもらうのでもいい。
でも、そんなことはそのときに考えればいいと思うから。
いまや、私が、私こそが、私の人生を決められるんだから。
「ただいま!」って叫んで扉を開けたら、海水を満たした浴槽の中から「おかえりアリー!」って声がした。
私はきっと今、すっごく笑顔だと思うよ!
イチャイチャの書けない病気を患っているので訳分からなくなりながら書きました。批判でもなんでも感想いただけたら狂喜乱舞します。いやほんとに「つまんない」でもいいですので…