五 天才少年、スカウトされる
それから一週間後、僕は電車で戸敷さんと待ち合わせをした拝島駅に出かけた。
前の日に、戸敷さんから「良い話があるから楽しみにしてて。」というメールが来ていたので、僕は改札を出たところで待っていた戸敷さんに挨拶すると、そのことについて質問してみた。
すると、戸敷さんはちょっと興奮した感じで、「これ、見てみて。」と言って、スマートフォンを出して、僕もよく利用するインターネットの動画サイトの一ページを表示した。そこには、先日僕らがセッションをした様子を、お客さんが撮影したらしい動画が公開されていて、驚いたことに、再生回数が三十万回を超えていた。
「昨日、武蔵境で歌ってたら、ギャラリーが二十人くらい集まってきて、『動画観て来ました。』って言うから、なんのことかと思ったら、この動画が、有名なブロガーのブログと、大手ネット企業のサイトのトップページで紹介されてたそうなんだよ。で、そのギャラリーの中の一人がね、インディーズのレコード会社の人で、うちと契約してシングルを一枚作ってみませんかって言うんだけど、僕の一存では決められないから、ギターの子に相談していいですかって、とりあえず言っておいたんだ。」
戸敷さんは、そのインディーズの人の名刺を僕に見せて、
「レコード会社の人が言うには、蒼井君とコンビじゃないと契約はできないって。」
と付け加えた。
僕は、突然降ってわいたこの話に、すっかり戸惑ってしまって、すぐには返事ができなかった。
何しろ、一度だけ、それも数分のセッションをしただけの戸敷さんと、さほど思い入れのない歌謡曲というジャンルでCD制作をするなんて、かなり無理があるように思えたからだ。
僕が「うーん。」とだけ言うと、戸敷さんは意外そうに、
「あれ、もっと喜ぶと思ってたんだけど……。」
と、がっかりした様子だった。
「嬉しいですけど、僕のやりたい音楽と、戸敷さんのやりたい音楽はかなり違うから、一緒に演奏しているとどうしても違和感が出ると思います。」
僕が正直に意見を言うと、戸敷さんは、
「蒼井君のやりたい音楽って、何?」
と聞いた。
「ブルースです。それも、日本の歌謡曲の乗りのブルースではなくて、アメリカの、本格的な弾き語りのブルースです。」
それを聞いて、今度は戸敷さんが、「うーん。」とうなってしまった。
そして、
「僕には、難し過ぎるジャンルだと思う。」と言った。
「曲目を、〝上を向いて歩こう〟にしてもらって、この前のセッションの通りに録音すればいいんじゃないかな。それも難しいのかな。」
戸敷さんがまた質問をしてきたので、僕は、
「それならなんとか。あ、でも、親に相談してからの返事になりますけど。」
と答えた。
戸敷さんは、ようやく安心して笑顔になると、
「よかったあ。僕からも親御さんにお願いするね。せっかくのチャンスなんだから、一緒にやってみようよ。」
と言った。
そこで僕らはCD作りの話を切り上げて、戸敷さんの案内で、バスに揺られること三十分、ボランディア演奏会の会場の、ま新しい六階建ての老人ホームに到着した。
受付の職員さんに挨拶をすると、準備はもうできているという事で、僕らをお年寄りたちの待つ食堂に連れて行ってくれた。
職員さんが大声で、「さあ、歌手の戸敷さんが来ましたよ。」と言うと、椅子や車いすに座った三十人くらいの方々が、窓際の舞台に歩み出る僕らに、にこやかに拍手をしてくれた。
戸敷さんは、ここでの演奏会を、何度か開いたことがあるようで、「今日は、いつものラジカセのカラオケではなくて、ギターの伴奏で歌をうたいます。生演奏の伴奏がつくなんて、豪華でしょう?」と言って、みんなを笑わせてから、僕の方を手で示して、「伴奏者は、小学六年生の蒼井鳥夫君です。子どもなのに、とても演奏が上手なので、皆さんびっくりされると思います。今日は、蒼井君と僕とで、みなさんの若い頃に流行した歌を、一生けんめい覚えてきましたので、歌詞を思い出された方は、一緒に歌ってくださいね。」と言って、僕をうながして、演奏を始めた。
オープニングナンバーは、〝上を向いて歩こう〟だ。
お年寄りたちのうちの何人かが、序奏から曲名が分かったようで、嬉しそうに手拍子を始めたので、他の人たちもそれに合わせて手拍子を打ち始めた。
僕はこの前と同じように、スイングを効かせた伴奏を行ない、戸敷さんは全くスイングせずに、アイドル歌手のようなリズムで歌った。
やっぱり、この曲では、二人の乗り方の違いが面白く調和して聴こえる。面白いというのは、おかし味が感じられるという意味で。
多くの人が、戸敷さんのリズムに合わせて一緒に歌ってくれて、演奏が終わると、嬉しそうにさかんな拍手を送ってくれた。
二曲目は、やっぱり坂本九のレパートリーから、〝涙くんさよなら〟。
セッションの時に、〝上を向いて歩こう〟が上手く行ったので、今回の演奏会でも、坂本九のレパートリーを多く採り上げていた。
だけど、〝涙くんさよなら〟では、先ほど心配した通り、戸敷さんのメトロノーム的なリズム感と、僕のグルーヴする伴奏とが、水と油のように反発してしまって、あまり愉快な効果を得ることはできなかった。
それに、聴き手のお年寄りたちやホームの職員さん達が、戸敷さんの歌のリズムに合わせて手拍子を入れるので、僕の伴奏も知らず知らずのうちに引きずられて、スイング感やグルーヴ感がなくなってしまうという結果になった。
その時、僕が気が付いたのは、もし戸敷さんに強力にスイングする歌い方ができたとしても、聴き手の皆さんは、それに合わせて歌ったり、手拍子を打ったりすることが難しいんじゃないか、という事。
もしそうだとすると、僕がここのお客さんたちを心から楽しませ、満足させるためには、戸敷さんの平易なリズム感に合わせて伴奏するのが、一番自然で無理がない、という事になる。
ところが、まさにそれこそが、今の僕にはもう、どうしようもなくやりたくないことなのだった……。