表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

一 天才少年、ブルースに出あう

 僕は蒼井鳥夫あおいとりお。十三歳、中学一年生。

 僕の名前を、聞いたことがあるって人は、動画サイトで、子どもが演奏するのを観るのが好きな人だと思う。

 幼稚園の頃から、僕はお父さんにギターを教わって、お父さんのバンドと一緒にライブハウスの舞台に立っていた。

 難しい曲でも、早く覚えて弾けたから、お客さんたちは僕を、〝天才〟だと言ってさかんに褒めてくれた。

 才能ある子どもを紹介するテレビ番組に、出演したこともある。

 その番組には、音楽だけじゃなくて、ダンスとか、書道とか、空手とか、いろんな分野で、大人顔負けに上手な子どもたちが出演していた。

 司会者から天才ギタリストと紹介されて、僕はアップテンポのロックをカラオケに合わせて演奏したんだけど、ゲストで来ていた、テレビで見た事のあるギタリストから、「自分より上手。」と言われて、すごく嬉しかった。


 それが、小学二年生の時。


 そのテレビ番組がきっかけで、別のテレビ番組や、地方の音楽イベントなどから出演依頼が来たので、僕らは東京だけじゃなくて、大阪や仙台や福岡まで出かけて行って、おおぜいのお客さんの前で演奏した。

 遠征をする時は、学校を休まなければならなかったけど、勉強があまり好きではなかったから、むしろ親の公認で休めることが嬉しかった。学校の友達と遊ぶ時間があまりなくなったのは、嫌だったけどね。

 お父さんたちは七十年代から八十年代にかけての洋楽ロックが好きだったから、バンドもその頃の曲をレパートリーにしていた。

 僕も自然と、ディープ・パープルやジェフ・ベック、マイケル・シェンカーなど、一昔前の曲が好きになって、ライブの予習もかねてよくCDを聴いていた。

 お客さんは、僕がどのくらい原曲に近い演奏ができるかを楽しみに来ているので、僕は繰り返し聴いて細部まで覚え込んだ原曲の演奏を、お父さんが買い揃えてくれた六本の異なるギターと音響機材を使って、原曲に近い音色で、原曲とまったく同じように奏でるのが仕事だった。

 僕も、小さいながらに、チケットを売ってお金を稼いでいるプロなんだ、という自覚があったから、ショーの前はバンドメンバーと入念に練習をしたし、失敗なく演奏できると、お客さんも特別盛り上がったから、人を喜ばせるのが好きな僕にはもってこいの、本当にやりがいのある仕事だった。


 ところが、テレビに出て二、三年の間は、それで良かったんだけど、五年生くらいになると、急にお客さんの入りが悪くなってきて、イベントやライブハウスからの出演依頼も、めっきり入らなくなって来た。


 考えてみると、お客さんは、まだ七歳とか八歳の小さな子どもが、身に余る大きなギターを抱えて、大人に交じって達者な演奏を披露するという、その珍しいショーを見に、わざわざライブ会場に足を運んでくれていたのであって、僕がそこそこの年齢に成長してみると、お客さんの期待するところも変わってきて、いつまでも同じ演奏を繰り返しているだけでは飽きられてしまう、というところまで来たんだと思う。

 ただ、僕の方も、自分の成長に合わせて、音楽的に成長していかないといけないなとは思っていて、四年生ぐらいからは、それまで興味のなかったジャンルの音楽にも、積極的に耳を傾けるようにはなっていたんだ。


 そんな中で、特に興味を惹かれたのが、ブルースとジャズだった。それも、今どきの新しいのではなくて、戦前とか戦後すぐとかの、大昔のアメリカの音楽。

 金沢のライブハウスで親しくなった照明係のお兄さんが、たぶん僕の行き詰まりを予感して、こういうの聴いてみたらって、マディ・ウォーターズとチャーリー・パーカーのベスト盤を貸してくれたのがきっかけなんだけど、最初はどれも似たような曲で面白くないなって思ったんだ。

 でも、七十年代のロック・バンドの中にも、ブルースやジャズの影響を受けたグループはたくさんあって、そういうバンドの演奏に親しんでいるうちに、彼らの演奏は、もっと古い時代のミュージシャンの演奏を基礎にしているんだということに気が付いたんだ。

 そうすると、急に目からうろこが落ちたみたいに、大昔の音楽の良さが分かるようになって行った。


 それと同時に、僕が好きな音楽が、身近な人の好む音楽ではない、という場面にも、たびたび出くわすようになって行った。


 たとえば、吉祥寺のジャズ喫茶で、マスターとうちのバンドの人たちが、ビートルズについて話していたんだけど、マスターがジョン・レノンのギターの腕前について力説するので、じゃあレコードで確かめようという事になって(ジャズ喫茶だけど、マスターの好みでロックのレコードも置いてある)、彼とオノ・ヨーコの共作アルバムをターンテーブルに載せたんだけど、うちのベースの岸田さんが、

「ヨーコの歌は飛ばしてくれよ。」

と言ったので、マスターは、

「飛ばさないでか。」

と答えた。

 するとお父さんは、

「ジョンもうんざりしてただろうね。」

とにやけながら言ったんだ。

 そういう時僕は、違うんだ、そうじゃないんだって思うけど、口に出すことができない。

 だって、大人たちは、自分たちの方が音楽についてよく分かっていると思っているし、僕自身、音楽について、大人たちよりもよく分かっているとは到底思えないからだ。


 そういうわけで、僕は舞台では相変わらずロックの定番曲を再現する仕事をこなし、家ではしゃにむに泥臭いブルースやジャズをかき鳴らし、声変わりし始めたおかしな声で男女の恋模様の歌をがなり立てる、とても風変わりな小学生になって行った。


 お父さんは、僕がジャズやブルースに熱中しているのを見て、「そういう音楽は金にならんよ。」と諭すように言ったし、じっさいに、一度舞台でブルースの弾き語りをやらせてもらった時には、精一杯の歌と演奏ができたのに、お客さんはどう受け止めたらいいのか分からない様子で、拍手もお情け程度にまばらだった。

 ドラムスの吉田さんはライブの後で、

「お前のブルースは子どもっぽいんだよ。まあ実際子どもだからしょうがないけど。つまり、ブルースの味わいは自分の体験からにじみ出るもんだろう。人生経験の浅いお前にはまだ無理なんだよ。」

と言った。

 僕はそうなんだろうな、と思う半面、そうじゃないだろうと思う気持ちもあった。どうしてそうじゃないと思えるのかは、分からなかったけれど……。


 ジャズのガイド本を読むと、昔のジャズマンは、音楽だけで食べていけなかったから、小作人だったり、洗濯職人だったり、港湾の荷運び人足だったり、音楽とは別の仕事を本職にしながら、合い間に酒場やパーティーなどで演奏をしていたらしい。

 僕はプロの演奏家になりたいけれど、もしブルースを専門に演奏するミュージシャンになるなら、やっぱり同じように、別の仕事をしながら、演奏活動を行わなければならないんだろうか。ジャズなら、全国にジャズ喫茶があるし、大都市にはジャズがメインの大きなクラブもあるから、ブルースよりは仕事が多そうだけど……。そういえば、日本の本格的なブルースの演奏家って、いったいどこに行けばお金をとって演奏することができるんだろう。

 お父さんに聞くと、インターネットで調べてくれて、なんと僕の住む三鷹から電車で通える立川に、ブルースの演奏家も出演するライブハウスがあることが分かった。

 平日は不定期、土曜と日曜は毎週生演奏が聴けるということだったので、僕らは早速週末にその店に出かけてみることにした。


 店の名前はトランプといって、立川駅から歩いて十分くらいの、大きな通りに面した商業地の一角にあった。昔のアメリカ映画に出てきそうな、ダウンタウン風の、赤レンガと白い板壁を組み合わせた、いかした建物だった。


 夕食時という事もあって、店内はお客さんがけっこう入っていて、壁際のソファ席と、八つほどあるテーブル席では、若い人からお年寄りまで、いろんな世代の人がにぎやかに食事をとっていた。テーブル席の奥の、一段高くなった半円形の舞台には、椅子やマイクスタンドや使い込まれたドラムス、そしてマーシャルのアンプ二台が所狭しと並べてあった。

 僕らが入り口近くの席に着いて、ドリンクが運ばれて来てから間もなく、拍手が起こって、舞台のそでから初老の演奏家が登場してきて、軽く客席に手を振ってから中央の椅子に座った。


 その日の出演者は、運よく弾き語りのブルースマンで、高谷公吉たかやこうきちさんという人だった。お父さんによると、お父さんが子供の頃に活躍していた、日本のブルース界の草分け的な人なのだそうだ。

 ごま塩の無精ひげを生やし、やせて頼りなげな物腰ではあったけれど、大きな目に迫力を感じる人だった。

 高谷さんは、ケースから使いこまれたアコースティック・ギターを取り出して、チューニングを済ませると、軽いあいさつをしてから、少し呼吸をおいて演奏を始めた。

 一聴して、ミシシッピ・ジョン・ハートの奏法の、完全な模倣だと分かったけれど、見事なスリー・フィンガー奏法だった。


 お客さんたちは、高谷さんの技術の高さに満足しているようだったし、高谷さんの歌声や歌詞のほのぼのした味わいを、心から楽しんでいるようすだった。

 高谷さんは、一貫してスリー・フィンガー奏法の曲ばかり演奏した。それも、ジョン・ハートと同じスタイルだ。

 曲間に、若いころの思い出話などを交えながら、十五曲ほど演奏して、ショーが終わると、高谷さんは拍手を受けながら舞台を下り、そのままバーカウンターに行って、お酒を飲み始めた。


 僕はお父さんに連れられて、高谷さんのところに行き、挨拶をして、僕がプロのギタリストで、ブルースが好きで練習していることを話した。

「小学六年生?すごいね。」

 高谷さんは、とても穏やかな人で、僕が普段演奏している曲や、どんなブルースを聴いているのかを、興味深そうに聞いてくれた。

 そして、「何か弾いてみせてよ。」と言って、自分のギターケースを開けようとした。僕はあわてて、「ブルースはまだ練習中なので、下手なんです。」と言った。すると、高谷さんはカウンターの向こうにいるワイシャツを腕まくりした恰幅のいい人に、「ハヤちゃん、エレキ出してきてよ。セッションしようよ。」と言った。そのハヤちゃんと呼ばれたマスターらしき人は、「今日はセッションの日じゃないよ。お客さんもフォークソングを聴きに来てるんだし。」と、いかにも、僕みたいな子供を舞台に上げるのは気が進まない、というようすだった。

「じゃあ、今度のセッションの日に、また来なよ。俺も来るからさ。ね、一緒に演奏しようよ。」

 高谷さんはそう言って、僕がうなずくのを待っていた。僕は、ハヤさんの顔色をうかがいながら、「よかったら、はい、お願いします。」と、しどろもどろに答えた。


 指定されたセッションの日の水曜日、お父さんは仕事の都合でいっしょに行けなくなったので、僕は夕方の六時に、ギターケースを背負って、一人で立川のトランプに行った。

 土曜日に来た時とは、テーブルの配置が変わっていて、奥のステージの周辺が、広めに空間を取ってあった。

 お客さんは、先日より少なかったけど、それでも結構にぎやかだった。ほとんどの人が、常連客という感じで、お互いに顔見知りのようだった。

 ニルバーナのトレーナーを着た女の人がエレキベースをいじっていたので、「こんばんは。ギターで参加する蒼井です。よろしくお願いします。」と挨拶したら、「まじ?何年生?」と聞いて来たので、「六年生です。」と答えたら、「まじやべえ。」と言ったので、お客さんがどっと笑った。

 でも、お客さんの一人が、「その子、動画サイトで見たことあるよ。名前忘れたけど、プロのギタリストなんだよな。」と言ったので、お客さんはいっせいに、おおーと言った。僕はなんだか、プロだと名乗るのが恥ずかしく思えたので、軽く頭を下げて、機材のセッティングをし始めた。ギターケースから赤のギブソンSGを取り出すと、お客さんはまたおおーっと声をそろえて驚いた。プラグインしてチューニングしているとき、カウンターの方からマスターのハヤさんが歩いてきて、「こんばんは。」と言ったので、僕はどぎまぎしながら、「こんばんは。」とだけ答えた。どうもこの人は苦手だ。ハヤさんはお客さんに「高谷さんがまだ来てないけどはじめるよ。」と言ってドラムスの椅子に座った。どうやらセッションの日はハヤさんがドラムスを叩くのが決まりになっているらしい。

「高やんは遅刻魔やもんなぁ。」と誰かが言ったので、お客さんはまたどっと笑った。

「ぼく、何が弾きたいの?」

 ハヤさんが聞いて来たけど、僕は自分を『ぼく』と呼ばれて、少し腹が立ったから、「クリームの〝Crossroads〟で。」と、答えて、お客さんのオーという声をかき消すように、大音量の急速調でリフを弾き始めた。

 それから二十分くらい、即興のジャムを延々と続けたけれど、ハヤさんは僕とベースの女の人の演奏について来るのがやっとという様子だったから、途中から少しテンポを落として演奏してあげることにした。

 コードを叩きつけるように何度も繰り返し刻んで曲が締めくくられると、お客さんは大喜びで歓声を上げたり手を叩いたり指笛を鳴らしたりして大騒ぎだった。

 ハヤさんは、

「いや、すごいわ、この子。」

と言って、汗だくの顔をタオルで拭くと、「マサシ代わって。」と言ってドラムスの席をお客さんの中の若いドレスシャツの人に譲った。


 その時、僕はカウンター席の隅に、高谷さんが座っている事に気が付いた。彼がグラスをかかげて挨拶して来たので、僕も軽く会釈で返した。

 その後、一時間くらい、飛び入りの参加者が入れ替わりながら、洋楽ロックの有名曲を次々に演奏したけれど、高谷さんは結局、どの曲の演奏にも参加することはなかった。


 セッションが終わって、僕がお客さんに混じって帰り支度をしていると、高谷さんが呼んだので、僕は少し得意な気持ちで彼のとなりに座った。

 高谷さんは、かなり酔っているようで、どんよりした血走った目で僕を見つめると、しゃがれた声で、

「ごめんな。昔は、ブルースロックも弾いてた時期があるから、できると思ったんだけど。」と言った。

 僕は、

「いえ、高谷さんがロックを弾いてるのって、想像できなかったから……。」と答えた。

 そして、「僕の演奏、どうでしたか?」と聞いてみた。

「鳥夫は、自分の演奏を上手いと思うかい?」

 高谷さんが、逆に質問してきたので、僕は、

「上手いと思うけど、ミスると、ああ駄目だな、と思う。」

と正直に答えた。

「俺は、自分の演奏を下手だと思うよ。でも、自分の駄目なところが分かるから、逆に言うと、これから上手くなれる可能性はあると思ってる。」

 高谷さんはそう言って、

「鳥夫は、小学生にしては上手い。でも、自分の演奏に酔っている所がある。」

とつづけた。

 僕は、さっきみんなから子ども扱いされたときと違って、欠点を指摘されても全然いやな気持ちがしなかった。むしろ、その先が聞きたかったので、素直にうなずいて黙っていた。

「自分の演奏の悪いところが分からないと、それ以上上手くはなれないよ。」

 高谷さんは、グラスを傾けたり、指先でグラスの縁をなでたりする自分の手元を見つめていた。

 僕は思い切って、

「僕にブルースを教えて下さい。」

と頼んでみた。

 高谷さんは、「いいよ。」と言って、片づけをしている給仕のお兄さんに、紙とペンを出してもらって、立川の住所と電話番号を書いて、僕に渡すと、「いない時も多いけど、会いたいときは連絡して。」と言った。

 僕は、自分の人生にとって、すごく大きな道が開けたような気がして、お酒に酔ったような心地良い気分で家に帰った。


 その週の土曜日が、学校も仕事も休みだったので、僕はさっそく、木曜日の夜に高谷さんに電話をしてみた。すると、高谷さんの奥さんが電話口に出て、「今出かけているから、後でかけ直させるね。」と言ってくれた。だけど、次の日の夜になっても、高谷さんから電話がなかったので、心配になってこちらからかけてみたら、高谷さんが出て、「ごめん、忘れてた。じゃあ明日、待ってるよ。」と軽く約束してくれたので、僕は拍子抜けして、お願いします、とだけ言って電話を切った。だけど、何時に行くかを伝えていなかったので、再度かけ直したら、「君もおっちょこちょいだね。」と高谷さんに笑われてしまった。


 翌日、僕は約束した正午よりもずいぶん早く、待ち合わせをした立川駅に到着した。でも、バス停のベンチで待っていたけど、正午になっても、一時になっても、二時になっても、高谷さんが現れないので、携帯で高谷さん家に電話してみたら、高谷さんが出て、「ごめん、寝てた。すぐ行くから。」と言ったので、僕はあきれながら、それからさらに一時間待っていた。

 高谷さんはギターケースを荷台にくくりつけた自転車をこいでやって来て、「奥さんが出かけてて、起こしてもらえなかった。」と言った。

 そして、家で弾くと近所迷惑になるから、河原に行って弾こうと言って、駅から三十分くらい歩いた多摩川の土手に僕を連れて行った。

「駅の近くに昭和記念公園があるけど、あそこは許可なしで楽器を持ち込んでいいか分からないから。」と言いながら、高谷さんは土手の石段に座って、ケースからギターを取り出すと、さっそく軽やかな指さばきでブルースを爪弾き始めた。

 驚いたことに、高谷さんは、スリー・フィンガー奏法だけではなくて、ピックを使った単音弾きのソロ奏法も、ボトルネック奏法(ガラスの筒を弦に当てて滑らせながら弾く奏法)も弾けて、しかもものすごく上手だった。

 僕は、細かな表情付けの方法を、自分のギターで見よう見まねでやってみながら、「どうして、舞台ではスリー・フィンガー奏法しかやらないんですか?」と聞いてみた。

 高谷さんは、「それが一番得意だからだよ。他の奏法は、お客からお金を取って聴かせられるほどのものじゃない。」と教えてくれた。

 僕は、いつも温厚な高谷さんの、自分の音楽に対する厳しさを知って、僕が自分の音楽に対してどれだけ甘かったかを思い知らされた気がした。

 三時間くらい弾き続けて、気が付くと、あたりはすっかり真っ暗になっていた。

 まだ全然弾き足りなかったけど、その日は駅まで送ってもらって、「また来いよ。」と言われて家に帰った。



 挿絵(By みてみん)



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 『自分の成長に合わせて、音楽的に成長していかないといけない』 小4でこれですか! すごい! [一言] やはりこびとさんの音楽話は面白いです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ