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過去は奴隷、未来は贖罪  作者: 海豆陽豆
第二章『新たな贖罪』
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第二章1

 地下へ続く螺旋階段を下りていくと、やがて錆びついた鉄の扉までたどり着く。

 今日から語学や剣術、経済など数多ある習い事に加えてもう一つ、重要な習い事が始まるという。目の前を歩く男はその教師だ。名をオズキという。

「あの、今日から始まる習い事って何ですか?」

 沈黙に耐えきれず僕は口を開く。

 その言葉に彼はどこか上機嫌に答えた。

「アステル様は、この国が如何様にして経済を回しているか、ご存知ですか?」

「……人?」

「んん、不正解です。答えは奴隷。私たち人間の手となり足となる、亜人種や魔法使いの総称になります。そしてこれから始まるのが――――」

 ガチャリと、鍵の開く音が辺りに響く。そして錆びついた扉がゆっくりと開けられた。

「奴隷の、『躾』の授業になります。」

 扉の向こうには狭い部屋が続いていた。

 そしてその奥に鎖で壁につながれ、目隠しをされ、猿轡をはめられた白い長髪の何者かがぐったりとしていた。

 扉が開くときの大きく不快な音でも反応を示すことがない。はじめは既に死んでいるのかと思っていた。

 しかし、ある一定まで近づくと唐突に意識を取り戻した。

「んん! んーーーー! んーんん! んー!」

 猿轡をはめられているため、何と言っているのか分からなかったが、明らかな敵対心をこのものが持っていることは理解できた。

「黙れ。」

 オズキは奴隷に命令する。

「んんー! ん!」

「黙れ。」

 一度命令に従わなかった奴隷に対して、腹部に蹴りを入れ込む。あるいはみぞおちだったのか、奴隷は呼吸困難に陥っていた。

「それではアステル様。こいつを黙らせたことですし、早速授業に入りましょう。」

 振り向いたオズキの顔が、彼の持つ、唯一の光源であるランタンで照らされる。

 その表情はやはり、歓喜に満ちていた。

 僕は無言で頷く。この異様な光景と彼の暴力を間近で見て、声を出せなくなっていた。

「はい。ではまず初めに、こいつの目隠しを外して下さい。」

 僕は頷くと奴隷の目の前まで歩き、目隠しの結び目を解く。

 その瞬間、真紅の双眸と目があった。

 そしてこのとき、生まれて初めて殺意を向けられた。

「ひっ!」

 思わず後ずさりしてしまう。

 すると後ろに立っていたオズキにぶつかってしまう。

「次に、猿轡をとりなさい。」

 嫌だった。

「とりなさい。」

 けれど後ろからの殺気に耐えることができなかった。

もう一度近づく。再度目が合う。

 ここで初めて、この奴隷の顔を良く見ることができた。

 真紅の目に白い髪、僅かに釣り目で気の強そうなこの奴隷は、年端のいかない、せいぜい自分と同い年の女の子だった。

 手を止めてしまう。

自分と変わらない年齢の人間が、ここまでの憎しみと怒りを持っていることに衝撃を覚えていた。

 あるいは、彼女の狂気に飲まれていたのかもしれない。

「どうしましたか? アステル様。」

 オズキの声で僕は我に返る。止めていた手を再度動かして猿轡を外した。

「殺す! 殺してやる! ママを、パパを、殺した罰だ! 殺してやる! 殺してやる!!」

 彼女の曖昧だった殺意が言葉によってはっきりと輪郭を帯びる。

 彼女の持つものは殺すという意思ではなく、殺すという決意だった。

 それを一身に受けた僕は恐怖で身動きがとれず、涙さえ流すことができない。

「さて、それでは最初の躾です。先ほど私がやったように黙らせてみましょう。」

 今回ばかりは、彼の指示に従うことができなかった。なぜなら身体が動かないからだ。

「はあ……仕方ありませんね。」

 するとオズキは僕の一歩前にでる。そして彼女の首を一方の手で押さえつけた。そしてもう一方の手に持つランタンでその首を照らす。

「アステル様、見えますか? この管が。」

 確かに彼女の首から一本の太い管が伸びているのが見てとれた。

「それでは次に、何か流れる音が聞こえますか?」

 そう言われて咄嗟に耳を澄ます。確かに何か微量の液体が流れる音が辺りに響いていた。

「では話を変えますが、人間や奴隷たる魔法使いは魔法の行使の際に使用する魔力をどこに保有しているか、ご存知ですか?」

「け、血液中……」

「その通りです。では魔法使いに魔法を使わせないために行う処置で、最も簡単なものはなんでしょう?」

 その問いに対して思考を巡らせる。首から伸びる管、流れる液体の音、――答えは明確だった。

「血を……抜く?」

「その通りです!」

 声とともに彼はランタンの光量を最大まで引き上げる。すると今まで見えていなかったこの部屋の全貌が露わになる。

 壁には無数の凶器が立ち並び、一つ一つが放つ禍々しさはこの場で拘束されていない自分でも震え上がるほどだった。

 部屋の四辺には深い溝が彫られており、その上から落下防止用の鉄格子が嵌められている。

 その溝の中に数十本もの管が伸びていることに気が付いた。おそらく無色透明であろうそれは真っ赤に染まっている。

 その管の向かう先をゆっくりと目で追う。四方八方に散らばる管の全ては部屋の奥の方に集まっていた。つまり彼女のもとへ、だ。

 部屋が明るくなって初めて彼女の詳細な姿が露わになる。

 みすぼらしい薄布に身を包んだ彼女は痩せこけており、貧血のためか顔色も悪く、髪もぼさぼさだった。

 そして首、両脇、足の付け根、肘裏、背中、膝裏など太い血管が通っているであろう部位の悉くに痛々しく管が突き刺さっている。

 その管の内部は新鮮な血液で濡れていた。

「と、いうわけでして。こいつは魔法を使えるほどの魔力を有していません。せいぜい死なないように少ない血液を使って酸素を体に送り込むことしかできないでしょう。」

 ですから、とオズキは続ける。

「安心して、躾を行ってください。」

 彼に背中を押され彼女の目の前までやってくる。

 すると彼女は顔を上げ、僕を睨みつける。

 憎しみ、怒り、悲しみ、そして僅かな恐怖、それらを纏った視線は生命力に溢れていて、瀕死の彼女にはどこか浮いて見えた。

「さあ、アステル様。」

 肩に押しつぶされてしまいそうな重みがかかる。それはオズキが自分の肩に添えた手によるものだった。

 顔だけで後ろを振り向く。彼は満面の笑みを浮かべていた。

 僕がそのときどのような表情をしていたかは覚えていない。ただ視界には靄がかかっていた。

 肩に置かれた手に僅かだが力がこもる。彼のその行動の真意は未だ僕にはわかっていない。

 ただ、彼の言う通りにしなければ、壁にかかる凶器のすべてが自分に向くような気がして。

 それならば目の前の彼女に全てを被ってもらおうと思って。

 目をつむり、叫びながら。

 僕は彼女の腹部を思いきり蹴り上げた。



◇  ◇   ◇



 真っ暗な細い階段を降っていると、幼い頃の記憶が蘇ってくる。

「それにしてもお客さん、あんたもう三体も買ってるんだってね。若いのにどれだけ金を持ってるんだか。」

 前を歩く男に声をかけられ我に返る。

「そういう職についてますからね。あなたも頑張ってみてはいかがですか?」

「けっ! 俺が頑張っても使い古しくれえしか買えねえよ。」

 案内人の男はお世辞にも上品な恰好とは言えない。なぜなら彼は元浮浪者であり、高額の給料に惹かれて雇われた使い捨ての人間だからだ。

 使い捨て、とはそのままの意味で都合が悪くなったり、行政からの指摘があった際に雇い主が逃げ切るための囮、いわゆるトカゲの尻尾だ。

「それにしても三体も買ってまだ欲しいのか? それとも壊したのか?」

「……まあ、そんなところです。」

「さぞかしボロイのを買ったんだな。」

「いえいえ、三人とも傷なしの新品ですよ。」

 ピタリと男の足が止まる。振り向いた顔には驚愕の二文字が張り付いていた。

「年、性別、人種は?」

「十一歳の人間の双子の男女と、十七歳の魔法使いの女ですよ。」

 その言葉を聞いた男の目は人を見ているものではなくなった。

「あんた……狂ってるぜ。」

「ここに関わる人間なんて、たかが知れてるでしょう?」

「……っは! 違いねえ。」

 そこで会話は打ち止めとなり、無言で地下へと進んでいく。

 階段を降り終え、一本の細い通路へ出る。その道を進んでいくとやがて広い空間へとたどり着いた。

「お待ちしておりました。アステル様。」

 一人の男がゆっくりと近づいてきて一礼する。

 彼は黒いスーツに身を包み、黒髪を七三分けしており、薄暗くジメジメしたこの場に似つかわないほどに上品だった。

 それもそのはず、彼はこの市場の支配人だからだ。

「じゃ、失礼しますわ。」

 案内人は僕を支配人に引き渡すと足早に来た道を帰っていく。

「では、こちらへ。」

 その姿を横目に彼は後についてくるよう促す。

 それに従って歩き始めた。

 この場所は先ほどまでの道とは違い一定間隔で灯りが配置されている。そのため足元を照らすランタンは不要だった。

「本日はどのようなモノをご所望で?」

「性別は不問、傷は一つのみで、なるべく若いのにしてくれ。」

「かしこまりました。」

 カツカツと男が革靴を鳴らす音が辺りに響く。この空間を支配する沈黙は先ほどまでのものとは異なり、意図的に作り出された、人の気配に包まれた沈黙だった。

「実は先ほどまで大商人の男性の方がいらしてまして、複数体ご購入なさったんですよ。なので殆ど残っていませんが、幸運なことに条件に当てはまるモノは女の新品に一体、残っていますよ。」

「そいつは大商人サマの御眼鏡に適わなかったのか?」

 その問いに彼は首を横に振る。

「今回は労働力となる若い男手が多く欲しかったそうでして、まずはそちらを七体、買い占めていきました。そして残った予算的に二~三体しか愛玩用を選ぶ余裕がなかったそうです。」

 それで、と彼は続ける。

「女の新品が三体、中古が六体、在庫がありまして。新品二体に中古一体を買っていきました。」

「……中古のそいつは余程美人だったのか?」

「まあ、そうなんですが。実は新品の二体は双子で、中古はその親に当たるそうです。セットでお楽しみになるそうですよ。」

 その言葉に閉口する。その反応を見た男はにやりと口角を吊り上げた。

「いやはや、なかなかに良い趣味をお持ちの方でしたよ。」

「親子一緒に暮らせるなんて、僥倖かもな。」

 会話をしているうちに両開きの大きな鉄の扉の前にたどり着く。それには大きな錠がかけられており、男は手元の鍵を差し込むと錠を解除した。そしてゆっくりと扉を開ける。

「どうぞ。」

 彼は鍵をポケットにしまうと入室を促す。

 それに従って扉の先に足を踏み入れた。

 瞬間、いくつもの視線が一斉に僕に向けられる。

 その視線の持ち主は鉄格子を挟んで大人しくしている奴隷たちだった。

 本来であれば、奴隷制度は八年前の革命によって廃止されている。

 いや、事実廃止されているのだ。

 そのためここにいる人間や亜人、魔法使いは正確に言えば奴隷ではない。

 彼らは自身の同意の上で自身の人権を売買されている人たちだ。

 過去、奴隷国家といわれるまで奴隷の取引で莫大な利益を得ていたこの国の市民、特に貧しい人たちにとって、親族を奴隷として売り出すことは一つの大きな収入源だった。唯一と言っても過言ではないかもしれない。

 そんな生活を送っているなか魔法使いの集団が反旗を翻し、王家の命を奪うという形を持って革命を起こした。そして奴隷制度を廃止、身分制度でさえも廃止にしたのだ。

 このことにより奴隷売買に関わった商人は制裁を受け、貴族たちは莫大な資金を元手に商売を本格的に開始した。保持していた地位や特権を投げうったことは当時の彼らにとって相当な痛手であっただろう。

 しかし最も被害を受けていたのは彼らではない。その対象は、本来であるならば奴隷制度の廃止によって搾取される側から救われたはずの貧民だった。

 身分は皆平等になったのだ。しかし今まで積み重ねてきた教養や専門的知識、財産、種族の能力は平等ではない。

 貴族や裕福な市民には財産や教養が、魔法使いには魔法などの専門的知識が、亜人にはもって生まれた身体能力がある。

 人間たる貧民には、何もなかった。

 それゆえに、国が与えた人権を売りに出したのだ。

 人権を売るには五歳以上の本人の同意が必要となる。そのため革命前は大半を占めていた人攫いによる奴隷は皆無だ。そのため人権の価値は一気に何倍にも膨らむ。

 そのことに貧民は最も歓喜したという。

そして生んだ子が生まれもって魔法が使える魔法使いだった場合、高値で売れるために殊更に喜ぶのだという。

人権を売るということは自らの身分を奴隷に落とすことと何ら変わりはない。

つまり未だに奴隷は無くなっていないのだ。

では貧民にとって革命の大きな成果とは何だったのか。

 奴隷の価値を引き上げた。

 これに尽きるだろう。

「アステル様。お目当ての品はこちらです。」

 扉を閉めると支配人は奥に向かって歩き出す。

 この区画は女の奴隷を扱う場所であり、入り口に近い方が『中古』と呼ばれるモノたちで、奥の方が『新品』と呼ばれるモノたちだ。

 当然、奥に行くほど価値が上がる。

 真っすぐ進んでいくと一人の少女が囚われている檻の前までたどり着いた。

 頭髪は栗色で、肩口あたりで切り揃えられている。暴れたりするわけでもなく、恐らく寝床であろう藁の上に薄布を敷いた場所に鎮座していた。

「人間の女、歳は十四です。傷は背中に大きな切り傷が一つのみ。これは調教時につけたものらしいです。」

 男は簡単な説明をすると檻の中の少女に指示を出す。

 すると彼女は近くまでやってくる。そして服をたくし上げて背中を見せた。

 確かに大きな、恐らく武器の類で切られたであろう痛々しい傷が刻まれていた。

「傷は確認した。戻ってもらって構わない。」

 指示を出すと彼女はそれに従い、服をもとに戻すとその場に正座する。

 琥珀色の眼が軽蔑の意をはらんで僕を睨みつけていた。

「分かった。買おう。」

「お買い上げ、ありがとうございます。」

 その場で男はぺこりとお辞儀をする。

「ではお支払いの方へ。商品はいかがなさいましょう?」

「そのまま連れて帰るからこっちに持ってこさせてくれ。」

「かしこまりました。」

 では、と男の案内に従いその場を離れる。

 それまでの間、彼女の視線は常に自分をとらえ続けていた。

「いやはや、気に入ってもらえて安心しました。」

 前を歩く男は口を開く。しかしその声音に安堵の様子は含まれていなかった。特に心配もしていなかったのだろう。

「嘘つけよ。」

「いえいえ。嘘などは決して。」

 入り口付近まで戻ってくると、その真横にある木製の扉へと入っていく。

 中は先ほどまでの暗くジメジメした場所とは異なり、重厚なローテーブルに二組のソファー、いくつかの調度品が置かれていた。

「お座りください。」

 ゆっくりとソファーに腰を下ろす。シバの部屋のものよりも劣るが、それでも高級品であることが理解できた。

「こちらと、こちらにサインを。」

 なれた手つきで書類を仕上げていく。それもそのはず、ここでこの書類を書き上げるのは今回で三回目だからだ。

 書類を差し出すと男はそれを手に取り確認する。そして確認を終えると折りたたんで封筒に入れ、懐にしまった。

「手続きは完了です。それで――」

 彼の言葉を遮ったのは、扉をノックする音だった。

「……少々、お待ちを。」

 彼は立ち上がると扉を開く。そこには恐らくこの市場の従業員であろう人物が立っていた。

「なんですか。」

 不機嫌さをにじませながら男は口を開く。

「廃棄はこいつだけで?」

 従業員は僅かに申し訳なさそうな顔をしながらも話を続ける。提示しているのは恐らく、廃棄となる予定の人間の詳細だろう。言葉尻から察するに今回は一人だけのようだった。

「なんの話ですか?」

 従業員の視線をとらえ、僕は問いかける。

 その問いに答えたのは支配人だった。

「今月の廃棄物です。ご覧になります?」

 彼の目が僅かに細くなる。恐らく廃棄となる予定の人間を売りさばける最後のチャンスだと思ったのだろう。

「見せてくれます?」

 そう言って従業員からその資料を受け取る。

 それを見た瞬間に廃棄の理由を察した。

「……空欄多くないか?」

 通常、売られる人間の詳細には人種、性別、年齢、持病、顔写真、全身写真、新品か中古か、そしてある程度の値段までが記されている。

 しかし手元の資料には人間、女、十五、無、値段までしか記載されていなかった。

 そしてその値段に関しても大きな疑問が湧き上がる。

 単純に安いのだ。それこそ利益度外視の世話代をとり返すくらいの値段なのだ。

 比べるならば、栗色の髪の少女の二十分の一以下の値だった。

 そしてこのような資料をそのままにしている場合、初めて奴隷を購入する人間に対して奴隷の詳細を開示せず、安価に飛びついたところをだます、という意図がある。

 つまり彼女は、これだけの安価で購入しても奴隷として大きな不満が残るほどに悲惨だということだ。

「今なら、そこから半分値下げしますよ?」

「……とりあえず、見せろ。」

「かしこまりました。ではもう一度、参りましょうか。」

「いや、もうそこまで連れてきてます。このあとすぐに廃棄屋に渡す予定だったんで。」

 ならば話が早いと、従業員に連れてきてもらう。

 数秒後、扉が開き一人の少女が従業員に鎖を牽かれ部屋に入ってきた。

 彼女は真っ白な髪を地面に引きずりながら、ふらふらと歩いている。

 表情も髪で隠されていたため伺うことはできないが、包帯が垣間見えることから怪我をしていることは伺えた。

 背丈が相当小さいのか、与えられた服はぶかぶかで右肩はずり落ちていた。

 そしてそこから見える肌を見て僅かに目を見開いてしまう。

 肩から脇に達するギリギリまでに裂創が見て取れた。

 と、僕の僅かに驚く様子に気が付いたのか支配人はため息交じりに口を開く。

「……お気づきのようですが、全身見ます?」

 僕はただ頷くだけで答える。

 彼はその返答に僅かに嫌悪感をにじませるがすぐに表情をもとに戻し、指示を出した。

「…………服を。」

 切創、裂創、割創、擦過創、挫滅創、挫創、挫傷、銃創、爆傷、刺創、咬創、火傷。

 傷痕の数こそシロエと変わらないが、その種類は明らかにシロエの数を凌駕していた。

「顔は、どうなっているんだ?」

 僕が問いかけると、彼女は頭に巻いている包帯を解き、そして長い髪をかき上げた。

 真っ暗な空洞が二つ、じっとこちらを見つめていた。

 その視線に僕は言葉を失ってしまう。

 それに気づいたのか支配人は、ばつが悪そうな顔をして口を開いた。

「……体はご覧の通りのため、そういった欲を満たすことには使えません。それに仕事を行わせようにも両目を失っているのでそういった用途でも使えません。本当に、新品中古以前の問題ですよ。」

 まあ、と彼は続ける。

「そういった『癖』を持っていらっしゃる人が現れるのではと、希望的観測をしていたんですけど。現実は甘くないですね。」

 支配人が何やら話しかけてきているが、全く頭に入ってきていなかった。

 正面に立つ、奴隷の少女を見つめる。

 白い髪、整った顔、無数の傷、空洞の目、そのどれもがシロエにどことなく似ていた。

 そしてそれゆえに、彼女にシロエを重ねてしまったのだ。

 今のシロエではなく、革命が起こらなかった場合の、たどり着くことのなかった未来のシロエを。

「服と、それに包帯もつけて構わない。」

 ぴくりと、彼女の体が僕の声に反応する。すると今まであらぬ方向を向いていた顔が正面を向き、彼女の空洞と視線が重なった。

「……服はせめて着ないと、風邪ひくぞ。」

「…………分かった。」

 そこで初めて彼女が口を開く。その声はシロエの落ち着いた声とは異なり、外見相応の幼いものだった。

「それで、アステル様。ご購入なされますか? なんでしたら七割五分、値下げしますよ。」

 諦め半分な様子で支配人が問いかけてくる。もう半分は期待と不安が感じられた。

「分かった。買おう。」

 その瞬間、少女が唇を噛んだことを僕は見逃さなかった。

「そうですか! それはそれは。では早速書類の方をお持ちしますね。」

 彼は僕の返答に嬉々として答える。

「それと、先ほどの奴隷とこの奴隷、服はどうなされます?」

「一般市民が着てるような、普通のやつに――」

 と、目の前の少女の姿を見て言葉を切る。

 彼女の眼球の無い目は人前に積極的に晒すものではないだろう。なので包帯は巻いたままにしておこうかと思ったが、そのままだと変に目立つ可能性もある。

「加えて、つばの広い帽子、髪ゴムを一つずつ用意してくれ。」

「かしこまりました。すぐにその奴隷の書類と、先ほどの奴隷、二着の服をお持ちいたしますので、もう少々お待ちください。」

 では、と一礼すると支配人と従業員は出ていってしまう。部屋には僕と少女の二人だけが残された。

「お兄さん、名前は?」

 彼女が口を開く。目にはすでに包帯が巻かれており、空洞は完全に隠されていた。

「アステルだ。」

「苗字は?」

「生憎、国から頂いてないよ。」

 その言葉を聞くと、彼女は僅かに訝しげな表情をする。

「奴隷買うお金、よくあったね。」

「稼ぎはいいんだ。」

「そう……なんで私を買ったの?」

 僅かに声のトーンを落ちる。言外に買わないでと、訴えているようだった。

「私利私欲のために決まってる。」

「そ。」

 予想通りの返答だったのか、それとも奴隷としての扱いに慣れているのか、恐怖も不安も憎しみも怒りも感じることができなかった。

 そこには自分の人生を達観した姿があった。

「そのために二人も? って、私はその子のおまけか。」

「まあ、当初は一人の予定だったからな。君は――――そういえば君の名前は?」

 呼びかける際に彼女の名前を聞いていなかったことに気づく。

「私はたかだか一体の奴隷にすぎない。呼ばれるときは『お前』あるいは『おい』だった。」

「それだと困るだろ。」

「アステルはペンや本に名前を付けるの?」

 その返答に僕は言葉を詰まらせてしまう。

 この価値観の違いは彼女と僕、ひいては奴隷と主人の差なのかもしれない。

 あるいは一般的な主人と僕の価値観の違いかもしれないが。

「……犬や猫には名前を付けるだろ? そんな感覚だよ。」

「そう。まあ主人はアステルだし、好きにするといい。」

「で、名前は?」

「だから、ない。好きに決めてもらってかまわない。」

 そう言ったきり彼女は口を閉ざす。しかし唐突に決めろと言われても、よい名前は浮かんでこなかった。

 しばらく沈黙していると、少女は僕が悩んでいることを察したのか口を開く。

「別に使いつぶすまでの呼称なわけだし、適当でいい。」

「……じゃあ好きな色は?」

 過去、奴隷だった少女に問いかけたものと同じ質問をする。

「…………私、目見えないから色分からない。」

「生まれつき目見えないのか?」

「違う。両目を奪われるまでずっと暗い地下にいたから。」

「そうか。じゃあ――」

「ちょっと待って。」

 彼女が言葉を遮る。

「真っ暗な色って何色なの?」

「黒色だ。」

「その逆は?」

「白色。」

 その単語を聞くと、彼女は何か思い出したように声をあげる。

「白、聞いたことある。神聖、清潔、清純、無垢、こんな感じの印象を与える色だったはず。」

「確かに、そういう印象を受けるな。」

「じゃあ私は白色が好き。きっと白色が好き。」

 じゃあ――と命名しようとしたところで口を閉ざす。

 過去にも白色と答えられていたため、シロを名前に組み込むだけでは似通ってしまうことに気づいたからだ。

「そうだな……ホワイト、ヴァイス、ブラン、どれがいい?」

 白色の意味を持つ単語をいくつか列挙する。

「じゃあホワイト。そのままで、私の名前はホワイトでいい。」

 よろしく、と彼女はお辞儀をする。

「髪も白だし、お似合いな名前じゃないか? こちらこそよろしく。」

 彼女にはわからないだろうが、僕もその場でお辞儀をした。

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