第二章4
薄暗い地下室に一人の少女の悲鳴が響き渡っている。
それは単なる痛みに苦しむ悲鳴ではなく、不条理に怒り狂う怒号のようにも聞こえた。
一ヶ月、オズキに従うままにあらゆる行為を彼女に対して行ってきた。
錆びたナイフで肉を抉る。鈍器で死なない程度に殴る。窒息させる。熱湯をかける。毒を盛る。爪を剥がす。いわゆる拷問行為を行ってきた。
それでもオズキは躾だと僕に教える。
だから僕もそう、思い込むことにした。
目の前の少女は人ではない。彼女はモノだ。こいつはただの動く肉塊だ。これは――
「あぁああ!! いたっ……っあぁあ!! ああああああああああああ!! ああ……」
けれど、いくら思い込もうとしても、目の前の肉塊の悲鳴が、これの殺意のこもった双眸が、僕に彼女が人であることを再認識させ、その度に僕は胃酸をぶちまけることになる。
それでも何度も何度も何度もオズキがモノだと教える。
けれど何度も何度も何度も彼女が人だと教える。
だから僕はなるべく自我を消すことに努めた。
今考えてみれば、ここで全て間違ったのかもしれない。
血で滑りやすくなったナイフを持ち替え、拘束されたモノの腕に突き刺さんと振り上げる。
そこでモノ――彼女と目が合う。
僕はその瞬間せり上がる衝動に耐えられず、こみ上げてきたものを吐き散らす。
「うーん。アステル様。ここ最近、特にそういったことが多いのでは? …………慣れていただかないと。」
壁に手をつき、嘔吐感を必死にこらえる僕の肩に彼の手が置かれる。
そして僕を優しく振り向かせた。
「でないと……ですよ?」
爪を剥がす拷問器具を弄びながら彼は言い放つ。
嘔吐感が消え失せた。
震える手で落としたナイフに手を伸ばす。しかし血で滑りやすくなっているためか、僕の手が極度に震えているためか、再度握ることはできなかった。
「仕方がないですね。何か……」
と、オズキと彼女の視線が交わる。
それに彼は怒りをあらわにした。
「見てんじゃねぇよ!!」
するとオズキは彼女の顔面を思いきり踏みつけた。両手両足が拘束されている状態のため、彼女はそれをそのまま受け止める。
そして彼がゆっくりと足を上げると、未だ睨み続ける真紅の双眸があった。
「あー。あー! くそ、腹立つ腹立つ腹立つ!」
彼の怒りが収まるまで、何度も足が振り下ろされる。しかしそれでも彼女の目は憤怒に揺らいでいた。
「……そうか、そうですか。その目が邪魔なのですか。アステル様。」
ふとオズキが冷静さを取り戻す。彼女と視線があっただけで怒りをあらわにした彼が今度は彼女の目を興味深そうに見つめた。
「アステル様、こちらをお持ちください。」
そう言って彼が差し出してきたのはどこにでもあるナイフとフォークだった。
今までのものとは異なり、あまり残虐性を感じないものを渡され戸惑ってしまう。
それは拷問を受ける側の彼女も同様だった。
「突然ですがアステル様、人間が他の動物と大きく異なる点は何か、分かりますか?」
「……技術を持つこと。」
「うーん、五十点です。答えは文化を持っているということ。例えるならば人間はナイフとフォークを使って食事を行いますよね? 一方で動物は手、あるいは落ちているものをそのまま口で食べます。」
さらに話が変わりますが、と彼は続ける。
「こういった日常にありふれた道具も容易く凶器に変わり、大きなトラウマを植え付けることができるものなのです。……このように!」
フォークが生肉を穿つ、鈍い音が耳に入ってくる。
オズキの振り下ろしたフォークは彼女の腕に深々と突き刺さっていた。
「っ! ぁああああっ!!」
彼女が今日何度目か分からない悲鳴を上げる。既に声は枯れ果てていた。
「さて、アステル様。この二つを使用して、これの片目をくりぬいてあげましょう。」
オズキは僕に指示を出すと、拘束器具を使って彼女の左目をこじ開け、固定した。
「いっ、嫌! やめろ! 放せ! 放せぇ!!」
彼女が拘束を外そうと暴れまわる。それに対しオズキは特に怒る様子もなく、上機嫌に笑いながら拘束を強めていく。
紅い眼球がギョロリとこちらを睨む。
けれどその視線は多分の強がりと少しばかりの恐怖でできていた。
彼女がここまで明確な恐怖を見せたのは初めてだった。
そのことが、オズキが上機嫌な理由だったのだろう。
「どうしました? アステル様。今回に限って私が見本を見せないのは、これの眼球が二つに限られているからです。私といたしましては両目共に抉ることもやぶさかではありませんが――」
「分かったよ。…………やるよ。」
既に手の震えは止まっていた。それは彼女の視線に恐怖が滲んだことで、自分が絶対に覆らないほど圧倒的優位に立っていると初めて実感したからかもしれない。
「そうですか。まあアステル様の奴隷なわけですから、しっかりと私が教えたことを実践していただければ何も言うことはありません。」
そしてオズキは後ろに下がる。
そして僕は彼女の目の前に立った。
彼女と目があう。
先ほどと同じだけの殺意を向けられるが、治癒不可な損失を伴う躾に対し恐怖が滲んでいるため、嘔吐感に苛まれることはなかった。
あとは教わった通りに、そして自我を捨ててしまえば簡単だった。
重要なことはただ一つ、深く大きく、いつまでも残る『傷』をつくること。
「や……やめろ!! 来るな!! 来るなぁあ!!」
拘束が強いため、彼女は僅かに体を震わせることしかできていない。
しかし自身の力を一挙に受ける彼女の手首と足首からは、血が滲みだしていた。
彼女は相変わらず騒ぎ続ける。だから僕は聴覚を意図的に途切れさせることにした。
ゆっくりと、見開かれた彼女の左目にフォークを近づけていく。
彼女は未だ騒ぎ、そして抵抗を試みる。しかしそれを拘束具が許さない。
「アステル様、彼女の態度にはやはり我慢なりません。両目とも抉りましょう。」
黙っていたオズキが口を開いた。
その言葉にびくりと、彼女の肩が震える。双眸にはより深い恐怖と戸惑いが滲みだしていた。
オズキは僕の返事を待たずに右目をこじ開けようと器具を手にする。
彼女は既に抵抗をやめていた。
「オズキさん、父上からは貴重な魔法使いだから手駒にしろと言われています。両目ともないと戦うことができません。」
「…………なるほど。そのようなことを陛下と話されていたのですね。承知しました。」
そして彼は一連の行動をやめ、再度後ろへと下がる。
それを確認し、僕は彼女と再度目をあわせた。
今の彼女の目には恐怖とともに安堵と感謝の感情が入り混じっている。
つまり彼女は片目を失うことを受け入れたのだ。
そして自身の片目を奪わんとする人間にあろうことか感謝の念を抱いてしまっている。
あっけないと、達観するしかなかった。
これが彼女の人生の終わりなのだと悟った。
くだらないと、諦観するしかなかった。
これが僕の人生の始まりなのだと絶望した。
その時までの自分の表情は覚えていない。
けれど彼女の眼球を奪う瞬間の、自分の表情だけは覚えている。
僕はゆっくりとした動作でフォークを眼球に突き立てた。
悲鳴が遠くで鳴り響いている。
近くで笑い声が聞こえる。
その笑い声は、自分自身のものだった。
◇ ◇ ◇
目をゆっくりと開くと、自分の部屋の天井が視界いっぱいに広がる。
部屋がすでに明るいことから、すでに朝を迎えていることを知る。
重たい体を引きずりながら部屋を出ると、廊下に立っているホワイトがいた。
ドアを開く音でこちらに気づいた彼女は振り向き、口を開く。
「リリー……じゃない。アステル、こんにちは。」
「こんにちは……って今何時だ?」
「さっき昼を食べた。」
「正午過ぎか……」
やってしまったとその場で頭を抱える。
昨晩躍起になってしまい薬を飲みすぎたことによる弊害だろう。いくら効きにくいとはいえ、一瓶分を飲めば流石に効果はある。疲れが取れずに体が重いのもそのためだろう。
「で、そこでお前は何してるんだ?」
「シロエが話あるから自分の部屋にと言われた。でも足の踏み場なかったから整理したいから少し待てと指示されてここにいる。」
その言葉に僕は僅かに驚きを隠せない。シロエの部屋に入ったことは一度もないのだが、普段の彼女が行う家事の様子から整理整頓されているものと思っていたからだ。
「お待たせしました。ホワ――」
目の前の扉――シロエの部屋の扉が開かれ、彼女が姿を現す。そして僕を視界にとらえると一瞬だけ硬直する。しかしすぐに持ち直すと、
「ホワイト、部屋のなかに。アステル様は身だしなみを整え、昼食をお召し上がりになってはいかがでしょうか。では失礼します。」
彼女はホワイトを連れ、そそくさと部屋に入っていく。
その瞳は僅かに恐怖の感情を帯びていた。
深くため息をつき、下に降りると顔を洗いダイニングへと向かう。
するとそこではリリーが紙に何かを記入していた。
「……あ、おはようございます。」
彼女は手を止めその場で挨拶をする。
「おはよう。何してるんだ?」
「シロエさんに字を書け、と言われたので書いているんです。私は書けると言ったんですけど……」
少し不満げにリリーは話す。
確かに字を書くことができる人間にとって、ただ文字を書き連ねることは苦行だろう。
「ちょっと見せて――」
字の書かれた紙を確認しようと手を伸ばす。しかしその瞬間彼女が肩を震わせたため、伸ばしかけた手を引っ込めた。
「……よかったら、紙を見せてくれないか?」
「……ど、どうぞ。」
リリーから紙を渡され、それに目を通していく。やはり読み書きに関しては問題ないようだった。
彼女が十四歳で新品の奴隷として売られていたことから、奴隷になってまだ数ヶ月であり、まだ市民の一人だったときに読み書きを習っていることはある程度想像できる。
そのためリリーに関しては読み書きの心配をしていなかった。
「やっぱり書けてるな。」
なら話が早い、と紙をリリーに返し僕は続ける。
「就きたい職は見つかったか?」
「そんなの、決まってるわけないじゃないですか。」
僅かに憤慨した様子で彼女は答えた。
「そもそも……そもそも、あなたの狙いはなんなんですか? 私やホワイトみたいな若い女性の奴隷を買ったのなら用途は一つしかないじゃないですか。」
手元の紙を握りつぶしながら彼女は震えた声で続ける。
「やるなら一思いにお願いします。これじゃ殺され続けてるようなものなんです。生体実験に使うのなら今すぐにでも使ってください。今の私の健康状態で無理ならば宣告だけでもしてください。これじゃ――」
彼女の握り固められた拳がテーブルを殴る。
「これじゃあいつ私は私を殺せばいいんですか?!」
恐らくこの言葉は不条理に対する彼女の怒りなのだろう。そして自分の人生を諦めきれない自分への叱責なのだろう。
ふと我に返ったリリーは自分の吐いてしまった暴言に気づき、急いで椅子から降りると床に頭をつける。
この行為一つをとっても、未だ自我を確立している彼女には恐ろしい苦痛なのだろう。
そしてその行為を強制させる自分の恐怖心が最も大きな苦痛なのだろう。
だから無くならない苦痛を感じないために、神経を――自我を捨てたいと願っているのだろう。
受け入れて、堕ちて、楽になってしまいたいと願っているのだろう。
しかし未だ希望を捨てきれない自我が己を捨てることを許さないのであろう。
『私』を捨てれば一生奴隷のままだと本能が訴えるから。
しかしそれら全ては僕自身の推察でしかない。僕はどこまで行っても奴隷を傷つける側の人間だ。故に彼らの本心など到底わかるはずもなく、『だろう』に甘えて考えを巡らせることしかできなかった。
「……とりあえず、一旦椅子に座ったらどうだ。」
彼女はそれに大人しく従い、椅子に座る。肩には力が入っており、目に浮かぶ涙からも恐怖に怯えている様子が伺えた。
僕は彼女と距離をとるためテーブルの反対側、それも対面ではない位置に座る。
「さて、今までの質問に答えてやる。」
リリーは肩をびくりと震わせる。僕はそれに構わずに話を続けた。
「お前を買った理由、それは一つしかない。金を稼ぎたいんだよ。」
彼女はその言葉を聞くと困惑したように首をかしげる。
「稼ぐ……? どうやってですか?」
「僕は君の購入金額の倍を払えと言ったよね。ここまで言ってもわからない?」
僅かな思考の後、彼女はゆっくりと頷く。
しかしその表情は訝しげなものだった。
「でも、それなら永遠に働かせて金を得ればいいじゃないですか。」
「人が報酬もなしに精力的に働くのなら、そうしてるよ。」
「じゃあどうして男ではないんですか? その方が金の返ってくる可能性が高いんじゃないですか?」
その問いに対し僕は首を横に振る。
「それは間違いだ。第一に女性の、とりわけ若く美しい人間は価値が魔法使いの次に下がりにくい。そして理由はもう一つある。失敗したら、本来の目的で使いつぶせばいい。そのあとは体を売らせれば十分対価は返ってくる。」
そうなりたいか? とリリーに視線で脅す。
すると彼女は首を大きく横に振った。
「なら励め。それと、いつ死ねばいいかだったな。」
リリーの琥珀色の瞳を覗き込む。そして決して目をそらさせないように、釘付けにするように睨みつけた。
「……自分を殺すなら、市場の獄中で殺せばよかったな。奴隷の扱いなんてどんなに良かろうとたかが知れてる。そのときに殺せないんじゃ、もう自分は二度と殺せないと思った方がいい。」
その言葉を聞いた直後の彼女は絶望に染まり切った顔をする。それでいて自分の人生に希望を持っているのだから彼女はおめでたい人間だった。
「じゃ、朝食準備するから。」
そう言い残して僕はキッチンへと足を向けた。
料理を持ってダイニングへと戻ると、既にリリーの姿は無くなっていた。
テーブルに着き、無言で今日一回目の食事を平らげていく。静かな部屋にはトーストしたパンの音さえ響いていた。
と、階段をゆっくりと降りる音が聞こえてくる。一人分のその足音はとても小さいもので恐る恐る一歩を踏み出しているように感じた。
食べ進める手を止め階段の方へ向かうと、階段を降り終えたホワイトが壁伝いに廊下を歩いている姿を捉えた。
「おーい、ホワイト。どこに行くんだ?」
そう問いかけた理由は、彼女がこちらとは真逆の玄関へ向かっていたからだ。
「リビング。」
端的に彼女は答える。
「そっちは玄関だ。それとお前に話があるから、ダイニングに向かうぞ。」
壁についている手とは逆の手をとりホワイトをダイニングまで案内する。そして自分の席の体面に座らせた。
「もしかして、食事中?」
ホワイトは鼻を鳴らしながら問いかける。
「そうだ。食事しながらで悪いが話に付き合ってくれ。」
「私たちに気遣いは――――いや、何でもない。話をして。」
途中でステラの言葉がよぎったのだろう。それは良いことではあるのだが、何事も行き過ぎると悪い方向へと向かってしまう。特に人間関係を知らない彼女には顕著な問題だった。
「気遣いは大抵の場合は必要だ。それでも親密な仲にあるもの同士はお互いに気遣いは不要だ、という考えもある。覚えておくといい。」
「……? 分かった。」
「じゃあ本題に入るぞ。」
コーヒーを一口飲み、僕は口を開いた。
「ホワイト、お前の人権だが条件によっては返してやる。再登録の際の後見人にももちろんなってやる。」
するとホワイトの眉がピクリと動いた。
「そのことなら昨日の夜、リリーから聞いた。自分の購入金額の倍をアステルに渡すことを条件に人権を得られるって。半信半疑だったけど。」
「それなら話ははや――」
「嘘。」
僕の言葉を遮り、ホワイトは言い放つ。
「アステルは購入金額の倍のお金を得て金儲けをするとリリーに言ったみたいだけどそれは嘘。」
手に持っていた箸をゆっくりとおろす。そしてコーヒーに再度口をつけた。
「何を根拠に?」
「私は今の奴隷の価格を知っている。」
やはりか、と心の中で愚痴をこぼす。
そもそも新品、あるいは若者を筆頭にした人権を売って日の浅い人間を買っているにはいくつかの理由があった。
一つ目はまだ精神的に壊れていない可能性が高く、更生するまでに長い時間を要さないだろうということ。
二つ目に自分の価格がいくらかを知らないということ。
人権を売り、奴隷に身を落としたものは最終的に利益を信じる傾向にある。なぜなら利益というものはいつだって優先され、信じても裏切られることのないものだからだ。
そしてなにより、利益は奴隷にとって自分自身の唯一の存在意義となる。
自分が主人にとって利益を生み出す存在である限り、大金を払って買った自分を殺すことはないだろうと、ひと時の安堵を得ようとするのだ。当然、死ぬことよりもつらいことが往々にして待ち受けているのだが。
話を戻すと、利益というのは奴隷の心の均衡を保つために必要なものなのである。
だが僕の思っている利益は決して他人に理解できるものではない。故に別の明確な利益を提示する必要があった。
ただし奴隷を手放す不利益に勝る利益は殆どなかった。そのため購入金額より多く金を稼がせるという手段に行き着いた。しかしそこで大きな問題が一つあったのだ。
「彼女――リリーの購入金額は五百万ではない。聞いたところ彼女は処女で傷は背中に刃物による大きな傷跡があるのみ。背中の傷は正面に比べ価値が下がりにくい。そして――これも聞いたところによるけど、彼女は美人。だから一億はくだらない。」
つまり通常の値段では、その倍の値段を払うことは不可能だということだ。
それ故に値段を偽るため、価格を知らない新品で若い奴隷を買ってきたのだ。
大きくため息を一つつく。彼女を買ってしまった時点でこうなることは予測していたが、ここまで早い段階で指摘されるとは思っていなかった。
「……そうだな。細かいところは間違ってはいるが、おおよそ正解だ。」
「じゃあ、聞く。アステルは奴隷を買って、僅かな希望を見せて絶望に突き落とすことを楽しんでいるの?」
肯定も否定もできない、そんな一方的な言葉だった。
「答えて。」
「ああ、楽しんでるさ。」
「嘘。」
「嘘じゃない。」
「なら、ならなんでシロエに与えるはずだった義眼を私に与えるの?」
「それはホワイトに金を稼いでもらうため――」
「義眼の値段は知ってる。昨日ステラに散々言って聞かされた。義眼がどれだけ貴重か、見えることを諦めることがどれだけの決心なのか。……リリーと肩を並べるほどに高価のはず。」
彼女が言葉を紡ぐ様子は事実を淡々と確認するように憮然としていた。
「だから、分からない。」
そこで初めて、ホワイトは僅かに眉をひそめた。
「アステル、奴隷を買って何をしたいの。」
「それを知ってどうするんだ。」
「要らないなら早く殺して。」
ガタリと音を立て、ホワイトは立ち上がる。そしてテーブルを伝いながらゆっくりとこちらに歩いてきた。
「私の身体は傷だらけで慰み物にもならないことは知っている。身体能力皆無、目がない私は力仕事、家事、どんな仕事も全くこなすことができない。だから私は売れ残った。」
ホワイトが目の前までやってくる。包帯越しの彼女の空洞は相変わらず僕を睨みつけていた。
「どうして私に生き地獄をまだ味合わせるの。必要とされないことがどれだけの地獄か。要らないなら早く。早く殺して。もしくは死ねと、命令して。」
途中から彼女の言葉は嘆願に変貌していた。
ホワイトは既に奴隷の身分を受け入れていた。それからは傷つけられ、痛めつけられる人型の肉塊の立場を守ってきたのだろう。
その後、前の主人に手放された彼女は、自我を捨てて行き着いた先でさえも自分が既に利用価値皆無のゴミと知り、心の平穏を保つことに必死だったのだろう。
そして廃棄という死ぬ役割を負って生を全うできると安堵した直後、僕に買われたのだろう。
最初は自分に利用価値が未だ残されていると思ったに違いない。
しかし待っていたのは理解できない扱い、挙句には訳の分からない提案。
もう精神を保つことに疲れたのだろう。
「殺さないなら、痛めつけるといい。ストレスがたまったのなら私をそのはけ口にすればいい。私は抵抗もしない。無駄に悲鳴も上げない。痛がらない。だから私を使って。」
直後ホワイトはテーブルの上に手を伸ばし、食器類を倒しながらも何かを探す。
やがて箸を一本手に取ると、右手に握りしめた。
そして左腕をテーブルの上に固定し、右腕を振り下ろす。
箸が彼女の腕に突き刺さる。
「ほら、ほら、ほら! 私にとって痛みは苦痛ではないんです。私の存在意義そのものなんです。だから苦しくないんです。ほら、ほら、ほら!」
何度も、何度も何度も左腕に刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返す。
「もう、やめろ。」
振り上げられた彼女の右手を掴む。左腕には古い傷痕の上に新しい傷が無数にできていた。
それでもホワイトは苦悶の表情を見せず、むしろ安堵の笑みを浮かべるばかりだった。
「アステルが私に同情しているのなら、今すぐ殺して。私は自分の生きる道に満足してるの。存在意義に納得してるの。存在意義を、痛みを欲しているの。傷つけられる人型の生き物であることが私の生み出す利益だから。」
早く、早く! とホワイトは叫び、懇願する。
そのため背後から迫る足音に僕は気が付かなかった。
「アステル様。ここは私が。」
唐突に声をかけられ、僕は肩を大きく震わせてしまう。
振り向くと、シロエがそこには立っていた。
彼女はホワイトの傍に近づくと目元に手を当てる。すると荒い呼吸を繰り返していたホワイトが安らかな寝息をつき始めた。
直後に静寂が訪れる。心臓の鼓動がやけに騒がしく感じられた。
「……食器の片づけは後程私が。アステル様はホワイトの気持ちを、考えを、そして欲望を、しばらくお考えになってください。」
失礼します、とシロエは言い残し明らかに無理をしながらもホワイトを抱えその場を去る。
僕は血のこびりついた箸を眺めることしかできなかった。