忍び寄るシリアスの影
「神聖アランディウム帝国の民よ、我は今お前達に誓おう!災厄をもたらす魔王に死の鉄槌を下すことを!」
疲弊しきった民。腐れきった教会。
それらを是正し民により良い生活をさせるため、法王オスカー・アランディウムは高らかにそう言い放った。たとえそれが他の人々を傷付けることになろうとも、自国民を守る為ならば、と。
ロイの預かり知らぬところで、魔王達のほのぼのとした日々に影がさしはじめていた。
遡ること二時間前。
オスカーが執務室で演説の内容を推敲していると、彼の妻であるナタリアがハーブティーを手に入ってきた。
妻と聞いて首を傾げる者もいるかもしれないが、この国では法王の結婚は特に禁止されておらず、妻が法王の部屋に立ち入ることも許されている。そのため、空気を察し、護衛はすすすと静かに退室した。彼等とて空気をぶち壊して彼女に恨まれるようなことなどしたくはないのだ。
何せ正当な理由であろうが理不尽な理由であろうがナタリアには関係ない。以前教会の裏ボスが話をするという建前で脅しに来たときも、「すみませんが予定がありまして」から「邪魔すっか?あ?」と見事な変化を遂げて退散させていた。捻り潰すぞ、と真顔で言って裏ボスに歯軋りをさせたのだ。
大蛇のいる藪をわざわざつつき回るような愚かな真似は、いくら調子に乗っている裏ボスでも流石にしない。
彼女はこれまでに様々な功績を立てており、この国で最も国民から愛されている存在である。実力もあり人望も厚く、下手したら教会の腐敗を単騎で片付けられるナナリア。
政治に詳しくない自分がでしゃばるところではないだろうと考えて動かなかっただけで、実際に動けば腐敗だけならどうにかなるだろう超ハイスペック人間。
法王は護衛すべきだけど、今は奥さんがいるから安心だね!と言いながら退室している護衛達は、そんな彼女の邪魔をするのが怖かった。
「あなた、ハーブティーでもどうぞ」
そうとは知らず、ナタリアはほわほわした表情のままティーカップを机に置いた。心理的に余裕ができるため世界各地でよく口にされる飲み物であるらしい。そう聞いて取り寄せたものだ。
礼をこめた笑みと共にそれを口に運ぶオスカー。ナタリアは返し笑いをしようとして、パッと目に入った文の内容に顔を強張らせた。
「魔王に宣戦布告をなさるの?嘘でしょう、一体どうやって闘うつもり?目をつけられるだけで死にかねないわ」
「方針はこれから決める。とにかく、一刻も早く宣戦布告をしなければならないんだ。でないと帝国は崩壊する。何もせずそのままでいると国民は餓死するしかないが、私はそれを容認出来ない」
それは彼の本心だった。
魔王が現れてからというもの、聖職者や信徒によって成り立っていた神聖アランディウム帝国は内部から瓦解しかけていた。神の言葉を聞くことが少なくなり、彼等が崇める神の存在証明が出来なくなったのだ。
神の声が聞こえないため、どこに救国の乙女が現れるだとか、いつ天変地異が起こるだとか、それらを事前に知るという『奇跡』を民衆に示せなくなるわけで。それによって信仰心を失ってしまう者が続出したのだ。
アランディウム帝国は周辺諸国と異なり、神を絶対善であるとして崇めている。そうなると勿論文化も風習もそれ相応のものになるわけで、それを他国は疎み、物資があまり流れてこない。
挙げ句の果てに、そのような生きていくのも辛い状況で、教会に「信仰心に基づいて、さっさと神への捧げ物を教会に渡せ」と言われてはどうしようもなかった。
そう説明されたが、ナタリアは腑に落ちないことがあった。
穏便に対応することを好む夫がこのような強硬政策をするなど、まるで神の思し召しとしか…あ。
「御告げがあったのね?」
オスカーは気まずそうな顔で頷いた。
神から声をかけられる存在はそう多くないが、いないわけではない。彼はその一人だった。
「ああ。イーラ様は諸悪の根元は魔王だと言ったのだ。久方ぶりに神が自ら現れた以上、事実がどうであれ私は動かねばならない。
神が降りてまで話したという奇跡を、神を崇める国である以上は疑えないだろう?」
「それはそうだけど…魔王が鎮められて疫病や集団奇行みたいな目に見えた災厄がないのに、今更動いたら他国から反感を買うんじゃなくて?」
「鎮められたとは言え、生きている以上世界に何らかの影響を及ぼしているだろう。それを知りたい者は山ほどいる。だから誰も妨害しないさ」
もしこの場に英雄会の誰かがいたのなら、イーラの存在にいち早く気が付いて動きを妨害していただろう。彼女が英雄殺戮と魔王討伐の両方を目的としているということを理解するが故に。
闘いの火蓋は、静かに切られていた。