4 若者組
夏が近いといっても、朝の日差しはまだ弱かった。
羊たちは柔らかい草を求めて、丘を登っていったのだろう。
ティールは麻地の服に巻いた腰布をきつくしめ、強いて弾むような足取りで草原を登っていった。考えごとに悩まされそうな時は、身体の動きに心を合わせるのに限る。
いくつかの人影が見えた。もちろん誰かは知っている。彼と同じ羊飼いたちだ。
王の城のある島に住んでいるとはいえ、人の出入りの少ない牧人の生活。日々、出会う人々の顔ぶれは限られていた。
「ヤーフー」
甲高い声が聞こえた。
ミーチが羊たちに声をかけながら近づいてくる。
・・よりによってこんな日に、最初にミーチと顔を合わすなんて・・
ティールは舌打ちした。
「ヨーホー、静かな人、元気かい」
ずんぐりとした若者が後ろから声をかけた。
「昨日の夜空は、さぞ、きれいだっただろう」
もったいぶった声があとを追ってくる。
「静かな人、俺の貸してやった手鏡は役に立ったかい」
忘れかけていた手の傷がひりひりと痛みだした。
「ティール、止まれよ。若者組の頭の命令だ」
ティールは足を止めた。
若者組、それは結婚の適齢期を迎えた若者たちの集まりだった。
年に数回、王の城に隣接する集会場に、国じゅうから若い男女が集まり、酒を飲んでは親交を深めている。いわば連れ添いの相手を見つける会だった。その会の頭を勤めているのがミーチだった。
頭の権力は組のなかにおいて絶大だった。
城に出向いて、王家の人と直接に話をすることも許されていたのだ。
頭は代々、王の住む島で一番多く羊を飼う家の息子がすることになっていた。それだけの理由でミーチは頭を勤めていた。
ティールは、がやがやと人の集まる場所は嫌いだった。会合の時は、いつも一人外れて時間をもてあましていた。
女たちはことあるごとに、長身で神秘的な雰囲気を持つ彼に熱い視線を送っていたが、ティールは視線を返すことはなかった。
物心ついた時から、彼の心は何かを探していたのだ。それが何かはわからない。ただ、気をひこうと躍起になっている彼女たちの中にないことははっきりしていた。
一方、女たちは、ミーチにはまったく関心を示さなかった。彼はティールに注がれる熱い視線を見るたびに、強い嫉妬を覚えていた。
「静かな人」は自分を慰めるために、あざけりを含めてティールにつけたあだ名だった。
✳ ✳ ✳
十日あまり前の会合の時、この小太りの若者はティールをおとしめる策略をした。
この日はたまたま、マロリー国王の息子の一人であるサマロ王子も、若い民衆の有り様を知るために参加していた。
夜も更け、酒もだいぶまわりはじめたころ、ミーチは広間、中央の壇上に突然あがった。
「友人たちよ、聞け」
彼は声を張り上げた。
若者たちは、ややうんざりしながらも、頭の声に顔を向けた。
「勇気とは、自分の知らない世界に、自らの力を信じて足を踏み入れることだと俺は思う。そして、ここに参加したる男たちは、誰もが勇気を持っている。そうだろう」
くだらない男の発言とはいえ、勇気という言葉をふりかけられて、賛同の声をあげない男はいない。男たちは拳を振り上げて演説者の言葉に応じた。
ミーチは一同に静まるように手をあげた。そして片手に抱えていたものの包みをほどき、高く掲げた。美しい金の縁取りのある手鏡だった。
ミーチは一同をぐるりと見回し、幾分、芝居がかった低い声で言った。
「これは、我が家の女たちに、代々引き継がれてきた鏡。我が先祖が王家より頂いたものだ。やがては俺の妻となる女のものだが・・」
女たちはあざけりの顔を浮かべ、ひそひそと話をした。男たちは高らかに笑った。
「今宵の特別な要件のために、母上からお借りしてきた」
特別な要件とは・・若者たちから声が響いた。
ミーチはもったいぶった様子で話した。
「今宵、この鏡には特別な役目を負ってもらう。つまり、我ら男が持つ勇気を試す代表者を、この鏡に選んでもらうのだ」
男たちも女たちも喝采した。
部屋の隅の台座の椅子に座っている王子は、ことの成り行きを冷静に見つめていた。若者組の会合に、王族の若者が出ることがあるが、あくまで会合は民衆の自治的な行事であり、口を挟むことはあってはならないこととされていた。若者たちは王子の存在を知りながらも会合を楽しんでいた。
喝采のなか、数人の男たち、ミーチの取り巻き連中が、小さな回転テーブルを運んできた。テーブルの中央には、ゆらゆらと揺れる穴の空いた筒が取り付けられている。中には太いロウソクが立ててあった。
ミーチはおもむろに筒の中に鏡をはめ込み、ロウソクに火をつけた。
「さあ友人たちよ、余計な炎を消したまえ」
広がる暗闇の中で、鏡に反射された炎の光が演説者の顔を照らした。
「さて、身近にあって、我らの誰も知らない世界、それは何だろう」
「メージュの夜の世界だ」
一人の男が大声で言った。これもミーチの取り巻きの一人だった。
若者たちのはしゃぎ声が消え、あたりは静まり返った。いったい、ミーチは何をしようとしているのか・・
「その通り。月が満ちる頃に多くやってくるメージュの夜。身近にありながら、我々は誰一人として、その夜に起こっていることを知らない。
夜空を見てはいけない。それが決まりだ。決まりを破ったものは魂を失う。しかし、ただ一つ試してみる価値のあることがある」
ミーチはテーブルをぐるりと回した。
「つまり、メージュの夜の世界を鏡で見るという方法だ。直接に目で見なければ大丈夫という可能性があるのだ」
男たちは、部屋を走る炎の光を避けるように首を曲げ、押し黙った。
「ここで、俺たち男がもつ勇気に話を戻そう。
この鏡で、一人の男を代表に選ぼう。そしてその男に、未知の世界であるメージュの夜を見てもらおうではないか。その行為は、我らの勇気そのものを表すのだ」
二、三人の男が腕を突き出して、よしやろうと怒鳴った。
他の男たちは、賛成もしなかったが反対もしなかった。誇りというものが邪魔をしたのだ。
「それではいくぞ。鏡よ、我々の勇気の証を担う者を選びたまえ」
皮膚のたるんだ顔が、暗がりの中でニヤリと歪み、テーブルを強く回転させた。
ほの暗い光が、なめるように男たちの顔を照らしていく。照らし出された顔は、ほとんどがひきつっている。
女たちは興奮気味に目を見開いて、光の矛先を見つめている。
やがて鈍い音と共にテーブルは止まった。
光は部屋の端の一点をぼうっと射していた。
暗闇の中、ティールのうつむいた顔が浮かび上がっていた。
男たちの中で歓声が起こった。自分が当たらなかった安堵の歓声だ。テーブルの横には、胡散臭いミーチの取り巻きが立っていて、回転の速度を調整していたように見えた。が、あえて異議を唱える必要はなかった。
女たちも熱狂した。心配ではあるが、憧れのティールに当然のごとくスポットライトが当たったのだ。
「静かな人、ティール。おめでとう。我ら男の勇気の証となってくれたまえ。そして次の会合の時に、この壇上で、メージュの夜の世界を皆に語ってくれたまえ」
ミーチの言葉に大歓声がわき起こった。
皆の視線がティールに焼き付いている。
・・勇気の証だって。違う。子供だましの生贄選びだ・・
ティールはこの場を立ち去ろうとした。
「待ちたまえ」
甲高い声が後ろに響いた。
「勇気の証の同伴者を忘れては困る。キミの家には鏡がないだろう。特別な計らいだ。貸してあげよう」
ブヨブヨした手が、冷たく光る大柄な手鏡を握らせた。
ティールは返事もせずに鏡を持つと会場を後にした。
素足に感じる土のざらつきが心地よかった。
月明かりが優しく家路へと導いてくれる。
「お前に罪はないさ」
ティールは手に握った鏡を見返すまでもなく、静かにつぶやいた。
不意に軽やかな馬の蹄の音が聞こえてきた。彼に近づいている。王家の者、あるいは城の兵士か・・
ティールは大地にひざまずいた。
「確か、ティールと申したな。遠慮するな、顔をあげよ」
落ち着いた低い声が響いた。
ティールはおそるおそる顔をあげた。
集会場で光に照らされた彼を、一人冷静な顔をして見守っていたサマロ王子だった。がっしりとした身体に長いローブを羽織っている。
暗がりの中でも高貴さが伝わった。これまで話などしたこともない。城の周りをさっそうと馬に乗って走る姿を丘の上から見かけているだけだ。
ティールは再びかしずいた。
「勇気ある行為か、くだらない子供の遊びか、私には分からん。
しかし、何事も自らが選んだものとしてすることだ。されば、結果は自分のものとなる。私は運命というものは、こういうことから開けるものと思う。
瞳を向けることを禁じられた夜を鏡で見る。面白いではないか。うまくいけば、謎めくメージュの夜への盲目的な怖れから、人々を開放する事にもなる。
ティール、私もやるぞ。城での退屈な日々に、光がさしたような気がする。 無論、父上と母上には内緒だが・・互いの運命をメージュの夜にかけてみようではないか」
快活な、そして思いやりのある王子の声だった。
「では、また会おう」
顔を上げた時には、すでに王子は走り去り、蹄の音だけが夜空に響いていた。
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「こちらを見ろ、静かな人」
ミーチの太った喉元から出された声には、怒りが含まれていた。
「まずいぞ、反抗的な態度は」
ティールは目を伏せ、向き直った。
「さあ、昨日の晩のことを話せ。本当にメージュの夜を見たのならな」
ミーチは額にしわを寄せ、頭一つ分背の高いティールの顔を見上げた。
ティールは瞳を上げた。
誇勢を張るように下唇を突き出し、目を見開いている顔が間近に見える。小さな目が探るように彼の瞳を見つめた。
その唇がこわばり、徐々に開いていった。
「ミーチ、借りた鏡は役に立った。いつでも取りに来い。今度は自分で見るがいい」
朝の光を受けたティールの瞳は、紫色に美しく輝いていた。
「呪いだ。メージュの夜の呪いがとりついたんだ」
枯れた声を発した若者組の頭は、逃げるように丘を駆け降りていった。
すぐに噂は広まるだろう。話に尾ひれをつけ、ミーチは皆に吹聴するに違いない。
「それがどうしたことか」
ティールは先へ進んだ。