3 メージュの夜 2
キッ キキッ ・・
壁がきしんでいた。木造の小さな家に朝の光が当たっていた。
ティールは目覚めた。
手に巻きつけた布が乾いてごわつき、内側の皮膚と擦れあった。鋭い痛みが、昨夜の出来事を思い出させた。
・・竜・・あれは現実だったのか・・
ベッドから跳ね起きたティールの目に、床に転がった手鏡が映った。荒い舌で撫でられた金の縁取りはねじれて歪み、粗い傷が無数についていた。
・・なるほど、お前は大いなる役目を果たしてくれたってわけだ・・
ティールは鏡をそっとベッドに置き、屋根裏の部屋の窓にかかる梯子に足をかけた。
いつも通りの朝だった。二十頭ばかりの羊が狭い柵の中でひしめき合い、早く自由にしてくれと訴えている。ティールは柵戸を開けた。
「ヤーホー」
長く伸びる声で羊たちに朝の挨拶を告げ、朝露に輝く牧草地に散らばっていく彼らを見送った。
チーン チチーン
食卓の鈴の音がした。朝食ができた合図だ。
ティールは屋根裏の部屋の窓、その下の地面に目をやった。梯子の下から戸口に渡してある敷板の一部に、重いもので打たれたように亀裂が入っていた、地面にはいくつかの鋭い爪跡が残っていた。
静かに敷板を渡り、鈍い音を立てて戸口を開いた。
「羊たちに変わったことはなかったかい。夕べ、地鳴りがしたようだけど」
母がミルク鍋を運びながら聞いた。
「別に何もないさ」
普段通りにティールは答え、テーブルについた。
昨夜の体験は、メージュの夜を見てはならないという禁則を破ってのこと・・どのような内容であっても、口にはできなかった。
「あらっ」
母が立ち止まった。その視線は、息子の手に巻いてあるシーツの切れ端に注がれている。
「おまえ、怪我をしているんじゃ・・」
心配げに顔をのぞき込んだ母の瞳が見開いた。唇がわずかに震えている。
「おまえ、見たのかい。白い竜を」
苦しげに母は聞いた。
ギュール(小麦粉にシナモンのような香料を入れて焼いたパン状のもの)を噛みしめるティールの顔がこわばった。
「なぜ、そのことを知っている、母さん」
母はテーブルを挟んで座った。いつもの前掛けをはたく動作はなかった。
「一緒だからだよ。今のおまえの瞳と、あの人のあの時の瞳の色が」
「瞳の色?」
母の言葉に、ティールは目の前のミルク鍋の取っ手に目をやった。鏡面のように磨かれた銀色の取っ手の中に、紫色の光が混じっていた。
彼の瞳は、父や母と同じ茶褐色のはずだった。
母が小さく言った。
「おまえの父さんも、あの朝起きたら、紫色の瞳になっていた。そして家から出て行ってしまった。どうしても、その晩に見た竜に会いたいと言って。竜だよ、ティール・・。そんな途方もない話を信じられたと思うかい」
母はこめかみに手を当て、力なく視線を落とした。
・・父さんも竜を見て、瞳の色が変わったって・・
「父さんはメージュの夜を見て、魂を失って、どこかに行ってしまったのでは」
ティールは尋ねた。母からそう聞いていたのだ。
「そうさ。でも、魂をなくしたんじゃない。自分の意思で出て行ったんだ。どちらでも一緒さ。恐ろしく冷え込んだ冬の朝だったよ。雪が舞っていた」
テーブルの上に涙が数滴落ち、粗い木目の中に染み込んでいった。
「そうかい、あの人の言ったことは本当だったんだ。私はてっきり、どこかに好きな女でもできたんだと思っていた。まさか本当に竜を見たなんて」
母のつぶやきに、ティールは頷いた。
「確かに竜だったよ。月の光の下で白く輝いていた」
他に何を言ってよいのか思いつかなかった。あの恐ろしい竜の顔と、うっすらと覚えている髭面の父の顔が交互に頭に浮かんだ。
・・父さんも鏡を通して竜を見たのか。二人ともメージュの夜を見ても魂を失わなかった。けど、この瞳の色は一体何なんだ。それに竜に会いたいって・・父さん、どこに行ってしまったんだ・・
母はテーブルについたまま、両手で顔をおおっていた。再び愛する者から別れを告げられたかのように。
「羊を、見てくる」
ティールは浅くなりかけている呼吸でいつものように話し、うつむいたままの母を後に家を出た。