2.メージュの夜 1
カーン カーン カーン カーン ・・ ・・ ・・
丘の上の監視塔の鐘が、鋭く鳴り響いた。
・・メージュの夜だ・・
ティールは目を覚ました。
開け放たれた窓から、月の光が射し込んでいた。
ベッドの他に何も置かれていない屋根裏の部屋が、光と影のコントラストの中で静かに息づいていた。毛布は柔らかく波立ち、縁は切り立った崖のように暗闇へと変わっている。
ティールは、ベッドの下に隠しておいた手鏡を取り出した。
部屋の暗闇に鏡を突き出し、鏡面は外に向けた。屈折した光が、彫りの深い顔を浮かび上がらせた。
「さあ、鏡よ、何事でも見せるがよい」
ティールは、少し挑戦的な口調でつぶやいた。
霧の山の麓から産出する深紅の水晶、メージュ。その輝きにちなんだメージュの夜・・
その訪れは、丘の上の監視人の叩く警告の鐘によって知らされる。監視人は、夜空の一角に、深紅の光が走るのをみとめたのだ。
その夜は「瞳を空に向けてはいけない」と古くから言われている。得体の知れないものが空を駆け抜け、それを見た者の魂を奪ってしまうという。
実際、この言い伝えを無視したものは、必ず自らの意思を失い、生ける屍のようになっていた。
細い月を横切って、青黒い雲のかたまりがゆったりと流れていた。外海の深海を群をなして悠然と進むという巨大魚、ボワールを想像させた。
・・雲の流れる暗闇の広さは計り知れない。でも、その暗闇のどこかに何かがある。人の魂を奪う何かが・・
ティールはいつしか、手鏡の中の幻想的な光景に見入っていた。
「サマロ王子、あなたも見ておられるのか」
つぶやきながら鏡の向きを変え、濃紺の闇に白くかすむ城を見た。ラウンディ国、マロリー王の城。これもまた美しい。
「鏡よ、お前の持ち主が誰であろうと感謝する」
ティールは軽く微笑むと、口を結び、金色の取っ手を持ちかえた。
「ん!」
手に力が入った。
鏡の中に、白く輝くものが映っていた。
波打つように夜空を駆けている。地上に降りては、また高く空に舞い上がり、また地上に降り・・城の辺りにもそれは降りていった。
・・何かを探している・・
大地と空を往復しながら、それはどんどん近づいてきた。かなり大きい。彼の家の間近まで来たそれは、空に駆け登り、そして止まっていた。
月とその周りの光のにじみは、黒い影でおおいつくされている。監視塔よりも巨大なものが空に浮かんでいた。
・・鏡を持つ手を離してはいけない・・
ティールは黒い影を見続けた。
と、影の中の二つの赤い点がこちらを見た。次の瞬間、影は一直線に降りてきた。重い地響きが窓の外に響いたかと思うと、それはそこにいた。
・・竜だ・・
ティールは悟った。
もちろん、本物の竜など見たこともない。しかし、ちらりと見えたその輪郭は、伝説に語られるように、あまりにも巨大なトカゲのような姿をしていた。さらにその全身は、淡い月影の下で、美しく純白の鱗をきらめかせていた。
それは鼻面を、窓枠いっぱいに押しつけて、こちらをのぞきこんだ。大きく切れ込んだ口には鋭い牙が並び、のどの奥には炎がちらちらと燃えている。
鏡の中で、ティールの茶褐色の瞳と、拳ほどもある深い赤色の瞳が見つめ合った。ティールは不動のまま、まばたきもしなかった。
目の奥に薄皮をはがされるような鈍い痛みが走った。
「アウロ メダ グレイ」
竜の喉から音が響いた。
かずらのように硬くしなやかな髭が、ティールの肩の上で揺れている。きめの粗い赤黒い舌が、恐ろしい口の中からのび、鏡の表面を探り、やがて元に戻った。
部屋の中を熱風が駆けぬけた。竜がため息をついたのだ。
「フー、アウロ メダ グレイ・・ホール ジン モート」
再び竜がうなった。胸の奥に深く刻み込まれるような声だった。
何か話しているようだ。が、全く理解できなかった。
竜はしばらく動かなかった。やがて顔を引っ込めると、きらめきを残して空に舞い上がっていった。
ティールは大きく息を吐いた。
体が硬くこわばっていてなかなか動けない。ふと気づくと、手のあたりが生温かかった。鏡を握っていた指から血が流れている。ヤスリのような竜の舌がわずかに触れたのだ。
ようやく動き始めた身体でシーツの端を破り、出血している手に巻きつけた。それだけで精一杯だった。張り詰めていた神経が一気にゆるんだのだ。
ティールはベッドに倒れ込んだ。