23話
弓道の試合は、射場と呼ばれる弓を射る場所から的場という的までの距離が二十八メートル。その脇に観覧席が設けられている。
観覧席に使われるガラスは安全確保のため、強化ガラスが使われているとのこと。
運よく一番前の席が三つ空いていて、私たちは最前列で見ることができた。
弓道場に入ってからも私の震えは止まらず、しばらく桃華さんが背中をさすってくれていて、ようやく落ち着くことができた。
我ながら情けない……。
「翠葉ちゃん、司が射場に入ったよ」
秋斗さんの声に顔を上げる。
射場を見ると、準備をしている藤宮先輩が目に入った。
「弓道はね、射の基本動作を八つの節に分ける射法八節というものがあるんだ」
藤宮先輩が射場に立つと、秋斗さんはその動作のひとつひとつを教えてくれる。
「足踏み、的に向かって両足を踏み開く動作。胴造り、足踏みを基礎として両脚の上に状態を安静にかまえる。弓構え、矢を番えて弓を引く前の動作。打起こし、弓矢を持った両拳を上に持ち上げる動作。引分け、打起こした位置から弓を押し、弦を弾いて両拳を左右に開きながら弾き下ろす動作」
一連の動作がとてもきれいだった。
「会、弓を引ききった状態で的を狙う」
弓をかまえ、その先の的を見据える様が、少しだけ短距離走と似ている。ただひたすら、遠くのものを見つめる様が……。
「離れ、で矢を放ち――最後が残心」
「……余韻」
ふとそんな言葉が口をついた。
「そうだね。残心の状態は余韻とも取れるね。矢を放って終わりじゃない。放った状態でしばらくは緊張を維持する。残心のあとも弓倒し、物見返し、で最後に足を閉じて終わる」
「すごいっ! 的に当たっちゃいましたよっ!?」
はしゃぐ私に、
「あと三射残ってる。四射中三中以上が決勝に進める。まぁ、きっと外さないんだろうけどね」
秋斗さんがクスクスと笑いながら話す傍ら、桃華さんが「ムカつくくらいきれいよね」と零した。
でも、その気持ちはわかる気がする。
動作のひとつひとつがとてもきれいで、神聖なものを見た気がした。
藤宮先輩の試合が終わっても、私は射場から目が離せなかった。
「翠葉ちゃーん、戻っておいでー」
秋斗さんの声にはっとする。
「翠葉、見入ってたわね」
桃華さんに言われ、
「うん……だって、すごくきれいだったから……。弓道がこんなにきれいなものだとは思わなかったの」
「弓道を見るのは初めて?」
秋斗さんに訊かれ、
「はい、スポーツ観戦自体ほとんどしたことがなくて……。蒼兄の試合を何度か見に行ったことがあるくらいです」
まだ頭の中には弓を引く藤宮先輩の残像が残っていて、ぼーっとしたまま答えた。
全試合が終わり、藤宮先輩のインターハイ行きが決まった。
「司も着替えたら合流するって言ってたから少し待ってよう。その間に飲み物買ってくるよ」
秋斗さんが席を立つと、
「私もお手洗いに行ってくるわ」
と、桃華さんも席を立つ。
数歩歩いた桃華さんが振り返り、
「変な輩に声かけられたら携帯にワンコールしなさいよ?」
「うん、ありがとう」
見送ってから、また射場に目をやる。
強化ガラスの向こう側には矢を回収している人がいたり、射場の拭き掃除をする人がいた。
それらを見ながら思い出す。藤宮先輩が弓をかまえる姿を。
まるで作法か何かみたいにきれいな所作だった。
やっぱり袴姿の先輩は格好いいな。加えて弓道なんてやらせたらピカ一だ。
学校で人気があるのも頷ける。でも、先輩は女の子に冷たい。
少しは海斗くんみたいに愛想良くすればいいのに……。
女の子が苦手なのかな?
少し首を傾げると、顔を覗き込まれた。
「わっ……」
「そこまで驚くことはしてない」
「そんなことないですっ。目の前に急に人が現れたらびっくりしますっ」
誰かのことを考えていて、その本人に急に顔を覗き込まれたら、誰でも驚くと思う。
「首を傾げていた理由は?」
「あ、先輩は女の子が苦手なのかな、と思って」
「は……?」
先輩は意味わからないって顔で私をまじまじと見た。
「……一度でいいから翠の頭の中を見てみたいんだけど……」
「どうしてですか?」
「何をどうしたらそういう考えに至るのかが知りたい」
「……思考回路?」
「そんなようなもの」
「……先輩が格好いいなぁと思って、女の子に人気あるのもわかるなぁと思って、でも、先輩は女の子になんとなく冷たい気がしたから……?」
「なんだ、そんなこと……」
とてもつまらなそうに先輩はそっぽを向いた。
そこへ飲み物を抱えた秋斗さんが戻ってきた。
藤宮先輩にスポーツドリンクを渡し、私や桃華さんにも飲み物を買ってきてくれていた。
「司はさ、女の子に騒がれるのが面倒なんだよ」
そんなふうに教えてくれる。
「騒がれるの、ですか?」
訊くと、藤宮先輩が口を開いた。
「騒がれるのは迷惑だし、よく知りもしない人間に好きだって言われるのも迷惑」
前者後者共に藤宮先輩に好意を持ってる人がいる、ということだと思うけど、それすらもダメなの……?
なんだかとても容赦のない人だ。
「あ、桃華さんは?」
「簾条? なんでそこに簾条が出てくるわけ?」
「……共通の知り合いで藤宮先輩に話しかけるのって桃華さんくらいしかいないな、と思って……」
「……簾条と俺のやりとりが会話に聞こえるなら、その耳一度オーバーホールしたほうがいいと思うけど?」
「そうよ、翠葉。私とこの男が普通に会話するわけがないじゃない。皮肉の応酬がせいぜいよ」
いつの間にか戻ってきた桃華さんが会話に加わった。
むすっとしたふたりを目の前にたじろぐと、
「これは同族嫌悪に近いものがあるから放っておいて大丈夫」
秋斗さんの助言になるほど、と納得したのは私ひとり。
桃華さんと藤宮先輩は、「いい迷惑」と声を揃えた。
直後、秋斗さんがおかしそうにくつくつと笑いだしたのは言うまでもない。
機嫌が悪そうなふたりを前に、私も思わずクスリと笑ってしまう。すると、
「翠まで笑うな」
「翠葉まで笑わないっ」
またしてもふたりの言葉が重なり、どうしても笑いを堪えることはできなかった。
少し前まで震えていたのが嘘みたいだった。
弓道場から出ると、「さて、どうしようか?」という話になる。
「あの、桃華さんはこれからうちに来ることになっているんですけど、もし良かったら秋斗さんと藤宮先輩もいらっしゃいませんか? 夕方には蒼兄も帰ってくるって言ってましたし……」
提案すると、
「じゃぁ、お邪魔させてもらおうかな?」
秋斗さんはすぐに応じてくれた。
「これ、場所取るけど……」
藤宮先輩は弓の置き場を気にしているよう。
「大丈夫です。うち、玄関だけは無駄に広いので」
そのまま自宅に向かって運動公園を歩いていると、またもや声をかけられた。今度はフルネームで……。
「御園生翠葉?」
今度は誰……?
声の主に視線をやると、ユニフォームを着た女の子たちが立っていた。
中学三年のとき、同じクラスだった女の子たちだった。
すごく苦手な人たち、という記憶しかない。
「こんなところで奇遇ね?」
相変わらず意地悪そうな笑みを浮かべる。
でも、私と一緒にいる人たちが目に入った途端、態度がコロっと変った。
「元気だったー? 高校、一度も出てこないで辞めちゃったから心配だったんだ。で、後ろの人たちは?」
藤宮先輩と秋斗さんを見ながら訊かれる。
「学校の先輩と、その従兄さん……」
端的に答える。
ものすごく不思議なのは、麗しい桃華さんが全く目に入っていないところ。
今日の桃華さんは濃紺のサンドレスに白いカーディガンを羽織っている。誰が見ても清楚なお嬢さんだ。
目に入らないはずはないんだけど……。
私の前をずい、と横切り、
「私、御園生さんと同じ中学で高校も一緒だった綾瀬美香子っていいます!」
極上の笑顔を作り、私を呼んだときよりも高めの声でそう言った。
綾瀬さんは少しギャルっぽい感じの人で、髪の毛は茶色く、クルクルと縦巻きのパーマがかかっている。目が大きくて、ちょっとつりあがって見えるのはメイクのせいだろうか。
綾瀬さんを皮切りに、一緒にいた女の子たちが次々と自己紹介を始めた。私はというと、綾瀬さん以外の人はかろうじて顔を覚えている程度。
彼女たちの自己紹介を観察していると、藤宮先輩が衝撃の一言を放った。
「自己紹介とか必要ないから」
言うと、彼女たちは顔を見合わせた。けれども何かの間違いとでも思ったのか、「お名前、なんて言うんですかぁ?」
と、猫なで声を発する。
それに対し、
「名乗る理由ないし……。何よりも、翠は君たちの高校じゃなくてうちの高校の生徒だから」
綾瀬さんは口もとを引きつらせながら私に視線を戻した。
私はその視線だけで威嚇されてしまう。すると、
「そうね、あなたたち光陵? 翠葉は藤宮の生徒よ」
存在を無視されていた桃華さんがここぞとばかりに主張する。
秋斗さんは、「あーぁ……」って感じの顔。
「御園生さん、あなたうちの学校辞めて藤宮に行ったの!? だって、あなた入院してたでしょっ!? ほぼ一年近く病院にいたって噂よ!? そのあなたがなんで今藤宮の生徒なのよっ」
綾瀬さんじゃないほかの子が口を開いた。
その顔は自己紹介をしていたときとは雲泥の差で、口調もきつくなっていた。
これ……説明しなくちゃいいけないのかな。説明する必要があるのかな……。
逡巡していると、
「あ、わかった。留年したんでしょ?」
ショートカットの子に嘲りの調子で尋ねられた。
別に留年したことはもうなんとも思っていないし、それを認めることもたやすいのだけれど……。
色々考えて、やっぱり留年して良かった、と思ってしまう。
私はきっと、光陵に行っても楽しい学校生活は送れなかっただろう。
今日、中学の同級生に会って痛感した。
「君らさ、心に悪魔か何か飼ってない?」
にこりと笑った秋斗さんが私の前に立つ。
彼女たちは、「え?」と急に作り笑いをし始めた。
「どんなに笑顔を作っても全くかわいく見えないんだよね。もう一度、自分の顔を鏡で見てから出直してきたほうがいいよ」
さらりと口にし、「さ、行こうか」と私の背を押して歩き始めた。
「あの……」
「ん? 翠葉ちゃん、何?」
「いえ……ありがとうございました」
「なんのことかな」
秋斗さんは何もなかったかのように笑ってくれる。
前を歩く藤宮先輩と、斜め前を歩く桃華さんは不快だという表情を隠しもしない。
美形に美人が怒ると想像を絶するほどに恐ろしい空気が漂う。
秋斗さんは公園敷地内を出るまで、私の背をかばうようにして歩いてくれた。
公園を出る直前に爆発したのは桃華さん。
「話には聞いていたけどっ、何よあれっ。世の中にあんな人間がいるだなんて信じられないっ」
頭に角でも生えてきそうな勢いだ。
「今朝の藤棚での男といい……。翠の中学にはまともな人間がひとりもいないのか」
藤宮先輩は声を荒げることはしないものの、ドスの効いた目つきに声音だ。
中学全体はよくわからない。でも、私が同じクラスになった人たちに、私が心を許せる人はひとりもいなかった。
さっきの人たちも同じクラスだったというだけで、友達というわけではない。
もっと言うなら、卒業してから一年以上も経っている今、まさか話しかけられるとは思ってもみなかったわけで……。
どうしよう……。
答えに困っていると、
「翠葉ちゃんが若干人間不信なのって、ああいうのの中にいたから?」
訊かれて、ぎゅ、と心臓が縮まった気がした。
人間不信――秋斗さんにはそう見えていたんだ……。
秋斗さんや桃華さんたちに気づかれないように、小さくため息をつく。
できれば会いたくない人たちに会ってしまうは、大好きな人たちに見られたくない自分を見られてしまうは……。
せっかく楽しみにしていた日なのに、半分くらいは踏んだり蹴ったりだ。
「前にも言ったけど、あんなのこっちから願い下げよっ」
桃華さんが足元にあった石ころを蹴飛ばした。
「それには同感。だいたいにして、翠葉ちゃんはかわいいけど、体なんて使う必要ないしね」
秋斗さんが大仰にため息をつく。と、
「秋兄、それ、なんの話?」
藤宮先輩の眉間にシワが寄る。
「藤棚で絡んできた最低男が吐いた言葉よ。『顔と体で男たぶらかすこと覚えたんじゃねーの? 今度俺ともお相手願いたい』って」
桃華さんがぶっきらぼうに答えると、
「低俗……」
一言でバッサリと切り捨てた。
「本当、低俗もいいところよっ。頭にきたから投げ飛ばしてきたわ」
「簾条、いい仕事したな」
「あんな男、翠葉に近寄らせてたまるものですかっ」
そこまで話すと、
「不快極まりなかったけど、司は決勝進出決まったし、これからは関わりのない人間だし、とりあえず、翠葉ちゃんちに案内してもらおう」
秋斗さんがその場を仕切りなおしてくれた。




