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ダンダンとボールを打ちつけるリズムが一定に響き渡る体育館の裏。コンクリートの階段に足を延ばして座り込む。手にしているのは先ほど担任の田中から渡された留学制度の資料。
後ろの方のページにうちの高校の付属大学の留学制度の一覧が書きしるされていた。
田中の言いたいことは、こうだ。
「付属大学へ進学しろ」
1年の時、すでに語学留学を経験している俺に大学へ進学してもらい、その大学から正規留学をしてほしいといったところだろうか。田中はそんなことは考えていないだろう。学校側からの意思を伝える術になっただけだ。
同じようにエスカレーターで大学へ進学しろと暗に告げられた光は、教室に帰るなり資料をゴミ箱へと捨てていた。帰国子女のあいつにそんなものは必要ないのだろうか、とそんなことを考えていた。
きっといろんな将来が用意されているようにも思えた。
半分だけ開いた体育館のドアから先月別れたばかりの彼女の姿を捉えてため息が出た。先月別れた、とはいっても、もうすでに10か月間の絶縁状態が続いていた。
一生大事にできるような気持ちで付き合おうと自分から告げた、彼女、鈴原楓。
付き合ってほんの数カ月、大した出来事はない状態のまま、俺はアメリカへ語学留学のために日本を離れた。待っていてくれの一言も言えないまま離れた俺に、10カ月間一度も連絡をよこさなかった彼女に、俺たちは終わったんだと思った。
鈴原のことは誰にも話さなかった。彼女も友達にそれを告げている様子はなかった。俺なんかより男らしいような性格だったから、今では妹のゆずるの親友として俺の中で存在している。
「怜?なーにしてんの」
思いに耽っていた俺に声をかけたのはバスケ部の女。名前は忘れた。ゆずると、鈴原の属するバスケ部の女だったので覚えていた顔。
きっと一度、ゆずると俺の家へ来ていたことがあった子だった。
「いや、別に。なに?」
資料を丸めこんで立ち上がると、くりっとした子犬のような目でその子が俺を見つめた。
こういう媚びるような顔をする女が、次に発するセリフを俺は知っていた。
「ねえ、怜、ってさぁ」
そこまで聞いて俺は歩き出した。待って、というその子のかわいらしい声が聞こえて振り向くと「好きだよ怜」と、目に涙をためたその子がいた。
一生懸命しぼりだした言葉なのだろうか、それとも、演技のための涙なのだろうか。俺はため息が出そうになるのを抑えてほほ笑んだ。
これは精いっぱいの演技だった。そうして「ありがとう」と言うと気付く、妹の演技力のすごさ。
腹の中がぐるぐるとして、自分が嫌になる瞬間でもある、この演技の一瞬。
「彼女になれないの?」と聞いてくる女は今まで何人もいた。自惚れてなどいない。俺の彼女になりたがる女の目的が、光と近づくことだと、なんとなく感じていたからだ。
光の彼女になれないのなら、せめてその親友の彼女として扱われようと、そんな心が見えるようだった。
すべての女がそうじゃなかったとしても、俺はもう特別な人間など作ろうとも考えていなかった。
「今は英語を頑張りたいから」と付け加えると、うまい言い訳になることを知って俺はいつも最後にはこう言った。
英語なんてツールにすぎないのに、一生懸命になることが語学だと、女はなぜか俺を恨んだりしなかった。
名前も知らないその子が体育館に戻っていったあと、もう一度名前を呼ばれて振り向くと、ふにゃっとした笑顔の光がいた。
「あっれ。怜ぴょん。Are you peeping Yuzuru?」(ゆずるのぞいてんの?)
光はここあっちーね、と、汗で張り付く前髪をかきわけて、俺の隣に腰を下ろした。
「別にゆずるなんて見てない。嫌でも家で顔合わすんだからさ」
うんざりしてそう言うと、くつくつと光が笑った。口元に手を当てて「sorry」と言った。
「確かに。あいつ、性格わりーね」
「外ではいいんだけど」と、笑顔を振りまくゆずるを見て言うと、え?と、横から帰ってくる疑問符。
光はゆずるとじっと見据えている。
ボール蹴っちゃった、と、無邪気に笑っている彼女を睨みつけて、光は舌打ちをした。
「いや、俺はこういうゆずちんが、嫌いだ」
大きな目をこれでもかと細めて言う光の声は、低く、かすれていた。
「光?」振り向けば「何?」と満面の笑みの彼。少しほっとして前を向くと、さっきの女の子と目があった気がした。
その視線が光でなく、ずっと自分に向けられていることがむず痒かった。
「She is staring at you isn't she?」(あの子怜ぴょんのこと見てね?)
「I dont know...」(知らね)
頬杖をついている光の顔が、こちらに向けられていたが、気付かない振りをした。