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通路まで溢れ出してとめられている自転車の隙間を通り、教室に近い裏の入り口から校舎に入ると、各教室からざわつく生徒たちの声が漏れだしていた。
突き当たりの階段を上り、一番奥の自分の教室へ向かうと、女子たちの甲高い声が聞こえてくる。
それにまじって聞こえる、双子の妹の声に、今日はもう来ているのか、とそんなことを考えた。
お気に入りの腕時計を見ると、もう1時間目の始まっている時間で、自分が遅刻したのか、なんて冴えない頭の片隅で思った。
白が基調のこのオシャレなブランド物の腕時計は、先月の誕生日、クラスメイトの椎木光から譲り受けた。
そんな彼自身は、ワイシャツの内側に、イギリス貴族の顔がデザインされた金の開閉式の懐中時計金を首からさげていた。なんでも、イギリス人である祖母の形見だという。
そんなことを頭にぐるぐるさせながら、教室のドアどガラリと引いた。
「怜が遅刻なんて珍しいな。いつもはゆずるが遅刻なのになー。席つけ」
黒板にやたらと長い公式を書き連ねていた数学教師が、茶化すように俺とゆずるの顔を見て笑った。
俺は小さく頭を下げて、一番後ろの席についた。
教室の真ん中の席にいる妹のゆずるが、とてつもなく凶悪な顔をして睨みつけてきたので、少しばつの悪そうな顔をしたのを隣の席の光に見られて苦笑いひとつ。
「She is so cute ha?」(ゆずるちょーかわいいじゃん?)
「Are you kidding me?」(からかってんの?)
小さい声でそういう光に心底嫌そうな顔を向けると彼は嬉しそうにニヒっと歯を見せた。
俺たちのやりとりをよそに、ゆずるはもうすでにいつものゆるい顔に戻っていて、くりくりと大きな目を輝かせて女友達とこっそりお喋りに励んでいる。
彼女の切り替えの早さは尊敬に値する、かもしれない。
俺はそんな妹の隣の席でまっすぐ黒板に視線を向けている一人の女性との姿をちらちらうかがいながら、ノートの隅にリリックを書き綴った。
昨日シュウ君が持ってきた新曲に似合うような言葉を紡ぎ合わし、右足が自然に揺れるのを感じていた。
「怜、そういえば担任の田中ちんが後で職員室来いって言ってたよ、俺たち2人」
授業終了のチャイムが鳴る5分前、光がシャーペンをくるくる回しながらそう言った。
真っ白のままのノートに俺が少し驚いた表情を見せると、その視線の先であるページに「OK?」とのびのびとした字でそう書いたので、俺は自分のノートに「OK」と大きく書いて見せた。
「でもなんで?」
チャイムが鳴り、教室に椅子を引きずる音が響く中、俺は光に問いかけた。
光は「んー?さあ、知んね」と言って左耳のピアスを外した。
職員室に入る際に、光のように目立つ生徒はせめて身につけているアクセサリーの類を外している。
時折、生徒指導係の教師が、それを没収してしまうためだ。
俺は光の体から外されていく多数のそれらを目で追いながら、最後に光が手に取った懐中時計を凝視した。
いつかどこかで見たことのあるような気になるそれを、光はそっと額の前に掲げ、祈るように目を閉じた。
俺はそんな光を見て見ないふりをして職員室のドアを滑らせた。
「田中ちん来たよ」
担任教師の田中に向かって光が歩き出すと、先生もやっと来たかと椅子ごとこちらを向いた。
「怜、寝坊したのか、ネクタイ歪んでるし」
田中ちんはまだまだ子供のような顔をして俺のネクタイをぐいっとひっぱった。
新任教師で、他の先生からこき使われながらも、田中ちんはいつでも笑顔で子供っぽい。
光や俺でさえも田中ちんにはなついていた。
実はこっそりと最愛の彼女の写真をいつも眺めている田中ちんを可愛いという女子生徒も多い。
「それで田中ちんなんで俺たち呼んだの」
光がそういうと、田中ちんはそうそう、と分厚い資料のようなものを俺たちに一部づつ差し出した。
長期短期留学派遣制度と書かれたきらびやかなパンフレット。
青空の写真に、金髪でブルーの目の若者が笑っている、そんな表紙。
「What is this?」(なんだよこれ)
「...Im not sure. 留学?」(さぁ。留学?)
俺と光は目を合わせて首をかしげた。
「What the hell. Does he want us to study abroad?」(んだよ、田中ちん俺らを留学させる気?)
「I think...But I've already...」(たぶん、でも、俺はもう、)
こそこそと話す光と俺の前で、田中ちんがパチンと手をあわせた。
「そう。特待生として、この高校から留学に行く制度、聞いたことなくもないだろ?その数枠の中のうち、学校側としては語学に長けている2人に行ってほしいわけだ。」
田中ちんは資料をぱらぱらとめくった。
俺たちは頭上に疑問符を浮かべながら田中ちんの隣に椅子を移動させて勝手に腰かけた。
光はくるくると回る椅子で遊びながら鼻歌を歌って、田中ちんの言葉を聞こうとしない。
帰国子女の自分には留学なんて必要ないとでもいうような態度だ。
こういう無邪気さの裏で英語を忘れないようにといつも洋楽を口づさんでるのを知っていた。
「椎木聞いてくれよ」と情けない声を出す田中ちんを俺はまだ眠気の覚めない目で眺めていた。
こういうやる気のなさが、田中ちんをさらに傷つけたようで、彼は泣く泣く「資料だけはもらってください」と小さくつぶやいた。
光はピアスを左耳に戻しながらまた鼻歌を歌っていた。
廊下ですれ違う女子たちが、光の淡麗な容姿を見ている視線が少しうっとおしかった。
光と歩いていると、いつも誰かに見られている気分で、気味が悪い。
光は自分の人気を知ってか知らずか「ばいばい」と、女子たちに可愛く手を振っていた。