1、偽りの抱擁と騎士の苦悩
帝国と大公国の国境全域に、奇妙な静寂が訪れていた。
帝国の誇る騎士たちは、初期の大公国侵攻作戦で、極寒と敵のゲリラ戦術により、想像を絶する損害を被った。帝国の首脳部は失敗を認め、将軍コイヌール公爵の指揮の下、来るべき大攻勢に備え、大規模な部隊の再編成と、物資の輸送を命じた。
この再編を現地で指揮するため、プラティコドン騎士団長アレッサンドロは、この前線に派遣された。そして、彼と共に極秘任務で同行したのは、美貌の密偵、ヴィオレッタだった。
皇帝ジュゼッペはコイヌール公爵の忠誠を疑っていた。アレッサンドロの極秘任務とは皇帝の勅命で、公爵の動向を探ることだった。公爵の警戒を解くため、妻を同伴し前線に赴いたのだった。
「これで、私たちは夫婦ですね、アレッサンドロ様?」
彼女はアレッサンドロにあてがわれた館の、質素な執務室に入ると、そうアレッサンドロに語り掛けた。二人の結婚は偽装だった。すべてはコイヌール公爵の警戒を解くためだった。
「ヴィオレッタ、職務以外で私をその名で呼ぶなと言ったはずだ」
アレッサンドロは眉間に皺を寄せた。彼は実直な軍人で、この偽装に強い嫌悪感を抱いている。しかし、ヴィオレッタは肩をすくめた。
「職務ですよ、閣下。コイヌール公爵とその幕僚たちの注意を引かないためにも、親密な会話は極めて重要な職務です」
そう言って、ヴィオレッタはアレッサンドロの机に腰掛け、極めて親密な距離をとった。彼女はどこから手に入れたのだろうか、公爵が計画する、リソスフェア地峡での軍の配置図をひろげた。




