マリ=ディアナの婚約
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「マリ=ディアナ、お前しかいないのだ」
父と伯父がディアナの前でうなだれている。ふたりともこの降って湧いた縁談をどう取り扱ったら良いか、戸惑っているようだった。
バックフォード伯爵家は広く豊かな領地を持ち、湖畔や川を使った隣国との貿易も盛んなこの国の交通の要である。
当主である伯父が伯爵として地を治め、当主の弟である父が交易の補佐についている。貴族にしては珍しく、兄弟親族間で諍いもなく皆で事業を分担し、平和に暮らしているのだ。
「中立派で伯爵位以上、年頃の娘のいる適当な家が少ないのだろうか……」
王家からの突然の縁談はバックフォード伯爵家宛に来たものだ。だが伯爵家唯一の娘であるアイリーンには長年の婚約者がいる。
伯父が突然の王都からの使者にそのことを告げると「こちらにはまだ他に、御令嬢がいらっしゃるとか」と匂わせ以上の発言があった。伯爵家の血筋は男子が多く、家系の中に年頃の未婚の娘はアイリーンを含め、たったふたりしかいない。
次代の王妃を家系から輩出する誉れは理解しているが、だからと言って多くの魔物同然の貴族が巣食う宮廷という名の魔窟に可愛い娘や姪を差し出す意義が見出せない。
考えあぐねていると返事を持ち帰るから何日でも待つと言われ、城門前にキャンプまで張られたため、慌てて当主の弟の娘であるディアナが呼ばれたというわけだ。
「第一王子殿下と直接の御面識は?」
一昨年カルヴィーノ子爵となったアイリーンの兄トラヴィスが口を挟んできた。子爵として伯爵家を支える経験を詰んだのち、伯爵を継ぐことが決定している。
「そんな……まったく覚えが」
伯爵家の一員とはいえ、次男で爵位はない父の娘だ。パーティーだって数えるほどしか行かないし、行ったとしてもパートナーは大抵トラヴィスか父だ。ディアナが会ったことがあるのならば、彼らのほうが覚えているはずだ。
「殿下に望まれるのであれば、誉れや我が家門の利益が感じられなくとも、ディアナを差し出さないわけにはいかないのではないでしょうか」
トラヴィスが平然と正論を述べる。
ディアナが戸惑っているうちに、父と伯父がトラヴィスの意見に後押しされて冷静さを取り戻し、あっという間にディアナを養子縁組して伯爵家の娘とし、嫁に出す算段を始めた。
交易などで隣国へと行く機会の多い両親のため、もともとディアナはバックフォード本家に預けられ、育ってきた。誰も彼もディアナの養子縁組について抵抗が少ないのだろうがあまりにも早すぎる話だ。いくら伯爵家の一員として育ってきたとはいえ、ディアナの気持ちがついていかない。
「わたし、まだ受けるとは……」
「第一王子の申し出を断れると?」
トラヴィスが動揺のない声でディアナを諭し始めた。まるでこういう事態が起こることを予期していたかのように冷静だ。
「そんなことしたら伯爵家ごと、路頭に迷うことになるな」
ディアナだってそのくらいわかっている。ただ多くの若い娘が願うように、思い合って愛されて結婚したいと思うくらいは許してほしい。
そう思っている間にも容赦なく、話が進む。いつのまにか使者も同席し、他の伯爵家の男たち……トラヴィスを筆頭に、ニコラス、ノーマン、ハーヴィーが集ってきていた。すべてアイリーンの兄たちであるが、同時にディアナにとっても『兄たち』だ。
「おてんばディアナが王子妃?」
「ディアナくらい腹が据わってるほうがいいだろう」
「だが宮廷になんて……」
「「「「……心配だ……」」」」
四兄弟たちがディアナを見ながら、ニヤリと頷き合う。
親しい仲の従兄弟たちであっても失礼な発言だと思い反論しようとした矢先、さすがに伯父が伯爵の威厳を見せるように、ひとつ咳払いをした。部屋がシン……と静まり返る。
「ディアナは明日からみっちりと礼儀作法、基礎学習のやり直しだ」
張り切った伯父の言葉に、王都から来た使者は恭しく言葉を紡ぐ。
「年明けのクロティルドの夜会で殿下とお会いいただき、そのまま王子妃教育に入り、翌年婚約発表、良き日に結婚式となる予定でございます。出来るだけ、今のうちに御家族とゆっくりお過ごしになることをお勧め致したいと存じ上げます……」
つまりはここを出立したら、そうそう帰って来れないということだ。ディアナの耳を、使者の言葉が右から左へと通過していく。
ーーどうしてこうなったの?
ディアナは磨き上げられた客間の窓をじっと見つめることしかできなかった。窓の外には短い秋の始まりを感じさせる、心なしか高くなった空が広がっていた。
*
秋の中頃には伯爵家を中継し、続いて王家からの打診で後見人となった同じく中立派の侯爵家へと籍を移すことが決まった。お目通りに問題がなければ伯爵令嬢、そして侯爵令嬢となる。
最大の都市エン・モークは人で溢れかえっていた。これから三日三晩続く冬の女神クロティルドを讃える祭り……通称ココは国民たちの憧れであり、このために一年間節約に励むとさえ言われている。
ただのマリ=ディアナとして庶民に混じり楽しむのはこれが最初で最後だろう。
「ディアナっ! ダメよ、ひとりで」
三つ年上の従姉アイリーン・バックフォードがディアナの腕をつかんだ。
「あなたは……なぜ、ここに来させてもらったのか、忘れたの?」
忘れてない。忘れられるわけがない。アイリーンからは見えないように、頬の内側をきゅっと噛み締めた。
「覚えていますけど……だからこそお祭りなんて、今しか楽しめないもの……!」
ディアナは第一王子とのお見合いのために遥々エン・モークまで来たのだ。
あれからふた月、婚礼の準備の最中のアイリーンはお目付け役としてディアナに付き添い、エン・モークまでやってきた。
お目付け役として、アイリーンの婚約者カーデューも一緒だ。彼はこの国随一の裕福な商人の息子で、数年前に男爵を叙爵した家の嫡子だ。
貴族子息たちと同じエン・モークにある高等学院に通っていたから、土地勘あるこの地の案内を買って出てくれたのだ。
穏やかな気質の、まるで雪解けの頃の春の日のような青年。成り上がり者で爵位は低いが、品位も知性も他の貴族たちに引けを取らない。
アイリーンとの出会いのきっかけは政略結婚ではあるものの、ふたりとも愛し愛され、とても幸せそうでディアナの憧れのカップルだ。
「いいじゃないか、王子から贈られた守護を持っているのだし、ディアナだって……息が詰まるだろう?」
「でもだからって……」
「アイリーン、君の良いところだね。マジメでしっかりしている。そう、確かにディアナひとりじゃ危ないよね」
ディアナは仮にも王子妃候補だ。大きな問題さえなければ来年のこの祭りの夜会でお披露目となる身だ。
カーデューの優しい包み込むような声はアイリーンとディアナ、どちらの味方なのか判断がつかない。だけど通常ではない状況の今、高ぶっていたふたりの神経をゆっくりとおさめていく効果は抜群だった。
「……わたしが悪かったわ、アイリーン」
ディアナが瞳を伏せながら言うと、アイリーンは幼い頃からつなぎ合ってきた手を重ねた。
「いいえ、わたしも……あなたを閉じ込めようとしたわ。守りたかったのだけど……息苦しいわね、確かに」
カーデューはにっこり笑って手をひとつ、ぽんっと叩いた。
「さぁさぁ、ふたりとも! 僕の学院時代の友人と合流して、エン・モークの地を案内してもらおうじゃないか。祭りを、この夜を楽しもう」
入場用のウェルカムゲート……数十メートル続く長い氷のトンネルと砦のように作られた氷の門を潜り参加費を払うと、目元を隠す小さなマスクが手渡される。今日の祭りを老若男女、身分差も気にせず楽しもうという趣向なのだ。
三人は意気揚々とゲートに向かった。
しばらくするとゲートから少し離れたところにディアナが見上げるくらいの背の高さの、細身で人目を引く男が立っていた。
色白のハッキリとした顔立ち、夏の太陽に煌めく海辺の砂色の髪と切れ長の瞳にディアナは既視感を覚えた。
どこかで会ったことがあるのかしら……?
カーデューが彼に手を振ると、彼は胸元まで手を上げ、なぜかディアナと視線を合わせた。
彼がカーデューの言っていた学院時代の友人なのだろうが、不躾過ぎるほどまっすぐにディアナを見つめた。自然と頬が熱くなり、胸がばくんと大きく跳ねた。
ーーなんて失礼なひとなのかしら、女性をこんなにジロジロ見つめるなんて!
そう思いながらディアナも彼から目を逸らすことができなかった。
「バードだ」
嬉しそうに彼と手を合わせたカーデューの隣で、アイリーンが珍しく声を失っていた。
ーー困ったわ、カーデューが隣にいるのに、彼に見惚れてしまったのかしら?
いくらカーデューが温厚だからと言って、婚約者が他の男から目を逸らすことが出来ない状態なんて気分が悪いに違いない。ディアナはハラハラしてしまった。
「会ったことがあるよね? 僕の親しい友人だ」
カーデューはアイリーンにそう言うと、なだめるように手の甲を親しげに撫ぜた。アイリーンは魔法が解けたかのようにハッと顔を赤らめ、浅く膝を折った。
「お久しゅうございます、この度は……」
「待って待って、バックフォード嬢。今日はココだ。堅苦しいのも何もかも、全てなしだよ」
ーーはて。彼は高位貴族なのだろうか。
カーデューの高等学院の友人というからには、その可能性は多分にある。アイリーンの反応からするに十中八九、伯爵家以上だろう。
それにしては親しみやすい笑顔で接してくれるし、カーデューの態度も気安い。ディアナの警戒心も徐々に薄れていった。
アイリーンの反応が落ち着いたころ、バートは4つのマスクを取り出し、各自に手渡した。
「ココは老若男女皆が女神の御許で冬に感謝し楽しむ祭りだよ」
ニコッと笑う姿はまるで王子様だ。アイリーンだけでなく、ディアナもハッと息をのんだ。
「バード? バート?」
ディアナは訊ねた。
「アルバート、ギルバート、ハーバート……」
「ディアナ!」
未婚の、まだ出会ったばかりの男女がファーストネームを尋ねるべきではないと言いたいのだろう。
アイリーンの叱責に肩をすくめると、彼は笑い出した。
「ただのバードだよ、ディアナ嬢」
切れ長の、アーモンド型の瞳を細め、そのキラキラとした容姿の半分を仮面で覆った。彼に倣ってディアナも仮面をつけ、ゲートを潜り抜けた。
氷の城には来城者を向かい入れるかのように立ちはだかるタワーのオブジェがあった。
王城の象徴のように高くそびえ立つタワーは繊細な細工が施され、魔力で輝くランタンの光を受けて煌めいている。
「なんて美しいの……!」
タワーを中心にかなりの高さがある氷の壁がぐるりと取り囲み、春の花、夏の草、秋の魚が氷に閉じ込められ、絵画のようだ。
「氷の壁は十メートル、魔術師たちがもっと高くしようとするのを止めたらしい」
「なぜ止めたんですか?」
「圧迫感が強過ぎる。これは祭りであって氷の要塞を作るわけではないからね」
氷の壁に沿って進むと、洞窟へと入った。
大小さまざまな氷のオブジェがごつごつとした岩を模し、氷の床の下を通る水が勢いを増し、出口では滝のように下っていった。
続いて奥には湖、堀を持つ城が臨めた。湖面に沈む夕日も美しい。
「ディアナ嬢、手を」
「え?」
「ほら、早く。人がたくさんいるんだからはぐれちゃうよ」
ディアナは躊躇した。
「でも……」
「手を繋ぐことが気になるなら、袖をつかんだら?」
確かにこの人混みでははぐれてしまいそうだ。現に先程まですぐ後ろにいたアイリーンたちの姿が見えない。
「アイリーンが……!」
「大丈夫、君の義姉上にはカーデューがついてるよ」
急に心細くなって、バードの上着の袖をちょんっとつまんだ。そのことに気がついたバードが頬を染めた。
「迷子にはさせないよ、ディアナ嬢。私にココのエスコートをさせてくださいますか?」
人混みの中で跪かれたかと思った。そのくらい丁寧な、赦しを乞う言葉が耳をくすぐった。
目はまっすぐディアナを見つめている。
つま先からぞくっとするような甘いしびれが駆けあがり、頭の芯をぎゅうっと絞るようにディアナは感じた。
ーー切れ長の瞳はグリーンなのだわ。
射抜かれるような視線に、めまいを覚えた。
「喜んで」
震える声でそう言い、子どものようにつまんでいた袖口から手を離し、彼の腕にそっと手を添えて半歩後ろについた。バードが微かに唇の端を持ち上げて笑んだのに、ディアナは記憶の端っこがチリチリと音を立てるように反応するのを感じた。
思い出せそうなのに、思い出せない。
城を囲むように、堀沿いに魔法氷で造られたアイスドームが立ち並んでいた。すべてが氷でできていて、とても幻想的だ。各ドームの店頭には香ばしい香りの肉やシーフード、焦げたチーズのパイなどいろいろと美味しそうなものが並び、祭りに来た仮面の参加者たちを惑わせ、財布の紐を緩めてさせていた。
「お行儀は悪いけど食べ歩きはどうでしょう、御令嬢?」
「わたしは交易を生業にする父と商人たちを見て育ったわ……食べ歩きは初めてではないのよ」
ちょっと世慣れているように澄まして言ってみたが、バードの方が一枚上手だった。
「そうか、残念。君の初めての相手ではなくて」
バードが揶揄うように言った言葉に仰け反った。とても高位貴族には思えない下品な当て擦りを含んだ物言いだ。ディアナは熱くなる頬を抑え、呆気に取られてぽかんと開け放ちそうになっていた口をぱちんと閉じた。
「バードさま、わたしは伯爵家の末端のひとりだけれど、婚約を申し込んでくださってるとても良い紳士さまがいらっしゃるわ。誤解を招くような……」
できるだけ気高く、ツンと気取って撥ね付けようととしたのだが、バードは宥めるような優しい声で話しかけてきた。
「とても良い紳士さま、か。君は彼といて、幸せなのかな」
「わからない……なにもわからないですけれど、幸せになる努力は精いっぱいしようと思っています」
「それは、君の幸せのために?」
わたしの?
「君はとても気分が落ち込んでいるような目をしている。君が幸せになれないのなら、彼との話は断るべきだ……彼も君のことを大切に思うなら、考え直してくれると思うよ」
バードの目は熱くてとても真剣で、人ごみの中で掴んだ腕が温かく感じて心が落ち着き、身体中に安心が広がった。
「彼もあなたのような考えだと嬉しいわ。そういう方なら、きっと……愛おしく思うことができると思うから」
この胸の高鳴りは気のせい。
バードの存在は、噂に聞くマリッジブルーで出来た胸の隙間にするりと入り込んで来た野良猫みたいなものだ。
それに、彼は……
「あなた、バードね」
彼は急に目を輝かせた。
「羽ばたく鳥のように自由、君がそう名付けてくれた」
「全然わからなかったわ、あなた……とても変わったから」
日が落ち、ランタンの光が氷のオブジェに反射してキラキラと輝き始めた。人混みの中、あたりの喧騒が一瞬で遠のいて、ディアナの瞳にはバードだけがくっきりと浮かび上がるかのように見えていた。
*
あの夏の日、たった一度会っただけの少年の面影はあるといえばあるが、ないに等しい。彼はあまりにもたくましい大人になってしまっていた。
アイリーンが伯爵家の東屋でカーデューと定例のお茶会をしていた夏の日の午後、カーデューはなぜかひとりの不恰好な同級生を連れてきていた。彼は所在なげに湖畔のほとりに腰掛け、ぼんやりとしていた。
夏休みをカーデューとともに過ごしているのだろう、彼の佇まいは友達に着いてきたというより、ついでのように伯爵家に連れてこられた。そんな感じだった。
あの時、十六歳になったばかりのアイリーンの三つ下のディアナはまだ十三歳。背が低く、まるまるとした色白の彼は育ちが良さそうで無害に見えて、ごく普通に話しかけてしまった。
「何を見てるの?」
ディアナが話しかけると、彼はびっくりしたように目をまんまるにして答えた。
「……鳥、を」
黒地に縁だけ赤い羽を持つ、濁声の渡り鳥だ。
「カルヴィ湾は渡り鳥たちの憩いの場なの。何十万羽もの鳥がこの湾をめがけてやってくるのですって!」
交易の拠点であるカルヴィ湾はバックフォード伯爵、いずれカルヴィーノ子爵となる伯爵家嫡男が治ることになる。経験の少ない甥を支え、導いていくことが父の仕事の中心だった。
カルヴィ湾は交易の拠点であるだけでなく自然も豊富で、双方を両立するために学者を呼んで調査と自然保護を行っている。営利だけを目的としない方針を守っている伯父、父をはじめとした一族はディアナの誇りだった。
「僕も……渡り鳥みたいに、飛んで行きたい」
白くまんまるな顔、ふっくらとした指で太陽を掴もうとするように空を仰ぐ彼はとても息苦しく、辛そうに見えた。
ディアナは励まそうとしたのだが、出てきた言葉は優しいものではなかった。
「渡り鳥は……キツくないかしら? 7日くらい飲まず食わずで寝ずに飛び続けるって学者さまに聞いたわ。それに毎年必ず2回も挑戦しないといけないのよ? そんなの……わたしはゴメンだわ」
どうして可愛くない言い方をしてしまったんだろう?
伯爵家の血を引くとはいえ、爵位を持たない次男一家だし、もともと気の利くことなど上手く言える性格ではない。取り柄といえば、素直なところくらいだ。
だけれど、この率直さはいけないことだったとディアナにもわかった。焦って、なんとか誤魔化そうとディアナは隠していたアイリーンの茶会用に焼かれたバターたっぷりの風味豊かなビスケットを取り出した。茶会に出されたものと少し違うのは、別に作られていたキャラメルを重ね合わせてサンドしてもらったところだ。
「食べる? 美味しいわよ」
「そんなお菓子……見たことない」
「わたしも! さっき料理長にねだって、間に挟んでもらったの。絶対にビスケットとキャラメルが合わさって、濃厚な味わいで美味しいと思うの!」
大きなビスケットサンドを半分に割り、彼に差し出した。
「渡り鳥になるのは諦めなさいな。七日くらい飲まず食わずで寝ずに飛び続けるくらい頑張れば、あなたの抱えてる悩みの半分くらいは消えるはずよ」
「半分?」
彼は呆気に取られた顔をしながらビスケットを受け取る。
「そうよ、半分。悩みが全部消えてなくなったら、人生の張り合いがなくなるんですって……ふふ、お父さまの受け売りよ」
さっきよりちょっとは良いことが言えた。
誇らしげにディアナがビスケットサンドを頬張る。あまりにも令嬢らしくない、極めて子どもっぽい態度だったから、彼は緊張せずにまっすぐディアナを見つめることができた。
「……半分、か」
彼も同じようにビスケットを頬張った。ひとくち齧って、彼は声を上げた。
「美味しい」
「ね!? ワガママもおてんばも、そう悪いことじゃないわね……わたしはどうやってもアイリーンお姉さまのようなレディにはなれそうもないの」
「それが君の悩み?」
「いいえ。だってこれがわたしだもの。わたしにできることを全力で頑張って、バックフォード伯の役に立つようにするの! だからバード、あなたも頑張るのよ」
「……バード?」
彼が聞き返したその時、ディアナはアイリーンと一緒にいたはずのカーデューがこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。
「あなた名乗らないから。未婚の、まだ出会ったばかりの男女がファーストネームを尋ねるべきではないのですって」
アイリーンの受け売りだが、淑女の嗜みなど学ぶ気のないディアナは首をすくめ、目玉をぐるりと回してみせた。
その態度がよろしくないと知っているディアナはカーデューに怒られる前に逃げることにした。
「羽ばたく鳥のような自由を望むあなたにはぴったりよ、バード……あぁカーデューって怒ると怖いのよ。とても静かに、淡々とお説教が始まるの」
「僕も怒られたことがあるよ」
「まぁ! あなたも? わたし、怒られる前に逃げなくちゃ」
ワンピースの裾を翻しながら気まぐれな仕草で立ち去った。
「またねー!」
「あ、ちょっと君っ! 待っ……」
声をかけたのが遅かったわけではない。ディアナが人の話を聞かず飛び出して行っただけだ。
人にそんな態度を取られたことのない彼が食べかけのビスケット片手にそこに立ちすくみ、ディアナの後ろ姿をいつまでも見送っていたのを知っているのは、彼を探しにやってきたカーデューだけだった。
*
「もう、五年近く前になるかな」
ディアナは十三歳から十八歳になった。以前より落ち着き、それなりの縁談の話が来る年になった。
「あの夏のあと、急に背が伸びたんだ。皆に驚かれたよ」
思い出してみれば、髪にも目にも面影はあるものの、全く違う人だと言われても信じただろう。
「縁談……乗り気ではないのかい?」
香ばしい香りの串に刺した肉の塊を買うためにふたりで列に並んだ。
肉と一緒に、ココをイメージした様々な⻘色がグラデーションを織りなす特徴的なカクテルを片手に楽しむ大人たちも多い。魔法氷でつくられたカクテルグラスに入った液体が濃い青色から光る白色にと、どんどん色を変えるのが目にも楽しい。
残念ながらディアナはアルコールに弱く、温めてアルコールを飛ばした伝統的なホットワインで温まるくらいしかできなさそうだ。
「乗り気じゃない……というか、実感が湧かないだけなの」
結婚するとしてもカーデューと同じような商人か、もしくは伯爵以下の家だと信じて疑わなかった。
鮭の串焼きが目に止まった。スパイスの効いた甘辛いタレに漬け込んだひと口サイズにカットした鮭の串焼きはなんとも食欲をそそる香ばしい香りだ。
「美味しそうだ。あのパイはなんだろう? とてもいい焼き色だと思わない?」
「あれはチーズのパイだと思うわ。チーズとベーコンと……見て! あんなにこんがりとしてる」
はしゃぎだしたディアナに串焼きと小さなパイを数種買い、あちらこちらに設置してある立ったまま食べることのできるテーブルに移動した。
貴族らしい食卓では冷えた食事も多く、目の前で作り立ての熱々というのはもの珍しくて、何よりのご馳走に見えてしまう。
さらにふたりともホットワインを持って……バードもカクテルではなくホットワインを選んだ……気持ちもほっこりと温かい。
「寒いね」
「あったかいよ」
ふたりで視線を合わせると、まるであの夏の日に戻ったような気がして胸が高鳴り、口元が緩んだ。
しかし明後日にはディアナは第一王子と顔合わせし、大きな粗相さえなければ……王子妃となるのだ。地位と引き換えにこういった自由はもう二度となくなるのだ。
緩やかに笑みを描こうとしていた口元がいつの間にかへの字に曲がり、眉が寄った。
「やっぱりディアナ嬢、顔が暗いね」
バードはなぜか、切なそうな笑顔を見せた。
「気が、重くて」
言い訳をするように言った。
この二ヶ月は典雅なカーテシー、優雅なダンス、嫋やかな言葉遣いなどの淑女のルールをみっちりと復習させられた。じっとしていることが苦手なディアナにしてはよく耐え、勉強したと思う。
「そうかしら」
「悩みが全部消えてなくなったら、人生の張り合いがなくなるそうだよ。これは可愛らしい令嬢の受け売りなんだけどね」
バードは胸を張った。厚手のコートは地味だが上質だということに今さら気が付いた。
「その可愛らしかった令嬢の悩みは、どうにも高貴なレディにはなれそうもないってことなのよ」
バードは笑って少し首を傾げ、ディアナを覗き見た。
かつて白くてまんまるだった顔は輪郭がしっかりとし男らしく、ふっくらとした指は関節が目立つ大きな手に変わった。
息苦しく、辛そうに見えた彼は今は自信に満ち溢れ、自由を手に入れたかのように見える。
「レディらしくない? それが君だろう」
言葉を失ったディアナの目の前に、バードは肉の塊を差し出すと、彼女は反射的にぱくりと噛みついた。バードは明るく笑った。
「君にできることを全力で頑張って、バックフォード伯の役に立つようにするのが夢だっただろう?」
たった一度、短時間の間の出会いだったのに、バードがディアナの言った言葉を覚えていたことに驚きが隠せなかった。そしてそんなことを言ったことを自分もしっかりと覚えていたことにも……誰もが軽視しがちな小さなことを覚えていてくれ、しっかり目を見て言ってくれたことにディアナは胸の中が熱くなった。
ちらり、とバードの横顔を見る。今のバックフォード伯の役に立つことは……彼と歩むことはできないということと同義だ。
「えぇ……そう、そうね」
ほのかな恋心に気がついた途端に失恋とはココの神様…… 女神クロティルドも罪な出会いをさせたものだ。
香り豊かな甘いホットワイン、サクサクしたパイも、スパイシーな肉も魚もすべてふたりのおなかの中におさまった。
歩き出すとランタンの光で輝く魔法氷の商店がふたりを楽しませた。ちょっとした景品をもらえる子ども騙しのゲームの出店や、各地方から揃えられた小物、宝石店のショーケースに並ぶジュエリーは雪や氷の結晶のモチーフのものばかりで、予算に合わせて安価なものからお忍びの貴族向けと思われるそれなりのものまであった。
「キレイね……」
ウィンドウショッピングをする人々に紛れ、ディアナはアクセサリーを覗き込んでいた。彼女を眩しそうに見つめるバードを一瞬目を丸くして見た宝石店の店主は、静かにセールストークを始めた。
「もしよろしければ、御希望の品をココの最終日までにお届けすることも出来ますよ」
言外に匂わしたのはケースに並ぶものより高価な、オーダーの品を届けるということだ。バードの懐具合は知らないが、かなり豊かそうだ。
「このデザインはあなたが?」
バードが訊ねると、店主は嬉しそうに首を振った。
「ココのジュエリーは孫がデザインをしております」
「まぁ」
ディアナが驚きに声を上げると、店主は誇らしげに笑みを見せた。
「自慢の孫娘なのです」
「他のお店のものも素敵なのだけれど、こちらのジュエリーはより一層エレガントだわ」
古典的な柄を重ねたデザインを彫り込んだバングルに、チャームがつけられるようになった鎖が重ね付けされている。
「ウチは届け物をしてもらう時の敷居が高くてね……安易にお願い出来ないんだ。今年はこちらのブレスレットをいただくことにするよ」
ディアナが見ていたバングルを指したバードに、店主は柔らかい笑みを浮かべた。
「今つけて行かれますか?」
バードは店主からディアナに視線をうつし、笑んだ。
「今日の思い出に」
バードが金色のバングルを手に取ってディアナに手を出すよう、促した。
「えぇ!? でも……」
嬉しいが、いくら祭りで売っているアクセサリーとはいえ、正式な名乗りもされていない男性からのプレゼントなどホイホイともらうものではない。躊躇して手首を自然と抑える仕草をするとバードが片目をぱちんと閉じてウィンクしながら言った。
「ココのモチーフのついたアクセサリーは『恋愛成就』の御守りなんだよ」
言葉に詰まったディアナ、彼女をまっすぐに見つめるバードの間にすっと入るかのように店主は口を挟んできた。
「おふたりで御守りに願いを込めて、大事に持っているほうがなお、よろしいかと思いますよ」
いそいそと女性向けのものと対になるブレスレットを並べる店主に、バードはため息をついて眉を持ち上げた。
「なんて悪い店なんだ……両方もらおう」
「ありがたき幸せ。ちなみに来年以降はチャームをひとつずつ足すことが出来るようになっております」
「覚えておこう」
バードの言葉に、商魂逞しい店主は恭しく頭を下げた。
バングル自体はゴールドの地金に氷の結晶を彫り込んであり、他の宝石は入っていないシンプルなものだ。小柄で華奢な、透き通るような白い肌と煌めく蜂蜜色の髪のディアナによく似合う。
髪、肌、瞳など同じ色彩を持つ従姉アイリーンであれば細い鎖が似合うだろうが、ディアナには存在感のある彫り込みのある地金が似合う。琥珀の瞳を思わせるチャームを足せばまた格別だろう。
「来年はエメラルドのチャームを作っておきましょう」
店主はズバリと言った。緑はバードの瞳の色だ。エメラルドのチャームなどとはまるで恋人同士かのようだ。
「強欲は罪だぞ」
「滅相もございません、お客様の喜びに通じ、お役に立つことを使命にしております」
物は言いよう、ディアナはテンポ良いやり取りをするバードと店主を眺めていた。
かつて渡り鳥になりたいと呟いていた少年の面影はどこにもない。すでにひとりの、しっかりとした大人の男性になっている姿がそこにあった。
「……あなたが笑顔で、よかった」
ぽつりと呟くと、バードと店主がふたり揃ってハッとしたようにディアナをみた。
「詳しいことは存じませんが、年寄りの戯言と思って聞き流してはなりませんよ……あなたの幸せを願う女性の手を離してはいけない」
店主が小声でささやいた。バードの耳にしか届かなかっただろう声に、迷わずディアナの手首を取り、するりとブレスレットを着けた。
「ディアナの幸せを、願わせて欲しい」
柔らかそうな曲線を描く頬が薔薇色に染まり、長いまつげの影が伸びていた。
「……バード……」
会場全ての明かりが消えた。満月の白い輝きの中で、何百もの暖かい色に輝くランタンが空に浮かび上がりはじめた。その景色は幻想的で、まるで永遠とも思えた。
ーー永遠にこの時が続けばいいのに。
ディアナが胸の奥底をとくんと揺らし、熱い涙が込み上げてきた瞬間。
暗がりの中、浮かび上がったランタンの光に照らし出されたバードの周囲を、複数名の影がサッと囲んだ。
ディアナは驚き過ぎて声もあげられなかった。しかしバードは隣で落ち着き払って、手を上げた。その左手首にはお揃いのバングルがきらりと光ってみえた。
「勝手に出歩かれては困ります……気軽なお身体ではないのです。私たちがどれだけお探ししていたか、お分かりですか?」
はぁ、とため息混じりに柔らかな声で叱責が繰り出された。白皙の美貌の貴公子を筆頭に騎士たち数名、さらにその後ろに今にも泣きそうなアイリーンとカーデューの姿もある。
「だいたいカーデュー。ふたりのお目付け役の君が付いていながら、なぜこんなバカなことを」
お目付け役? ふたり、というのがアイリーンとディアナでないことが明白な言い方だった。
目の前の貴公子はカーデューを自分の手の内の者として扱っている。
ディアナは驚きを隠せず、もう何年も慣れ親しんだカーデューを見た。ディアナのよく知る、春の日のような穏やかな笑顔を浮かべたカーデューは首をすくめ、貴公子たちにウィンクして見せた。
「偉大なる魔術師様の加護を身に纏うふたりが危険な目に合うなんて、考えもしませんでしたから」
白皙の美貌にイラっとした色がよぎった。思ったよりカーデューは豪胆な性格で、彼らのような上位貴族たちとも交流があるらしい。かなり対等な物言いにヒヤヒヤする。
その刹那、あの夏の日のバードとの出会いのこと、今日の日のことが渦巻く記憶の光の中で、めくるめくように思い返されていく。
あれ? と思いながら、流してしまった少しずつの疑問が形になっていく。
『君の義姉上にはカーデューがついてるよ』
なんとなく引っかかっていた言葉がパズルのピースがはまって行くように、正しい場所に固定されていく。
ディアナが伯爵家を仲介して転籍することを知っているのは今回の婚約騒動に関わる一部の者だけだ。まだ一般に公表されていない。
それにトラヴィスを筆頭にしたアイリーンの四人の兄たちの反応も……思えば思わせぶりだった。
「あなた……もしかして」
ディアナは無意識に一歩、下がった。アイリーンがディアナの肩をそっと抱いた。その細い指先の感触に、なぜかアイリーンはこのことを知っていたのだとわかった。
バードは困ったように微笑み、俯く。
「見つかってしまった……ごめんね、ディアナ嬢」
俯いた顔を上げ、ディアナを真っ直ぐに見つめた。
第一王子バートランド。
どうして失念していたのか。新興貴族のカーデューに伯爵家のアイリーンの降嫁が決まったのは、彼がバートランド王子の学友として親しく付き合っていたからだと聞いたことがある。
成り上がりとはいえ、豊かな財産とあちこちに繋がりを持つ顔の広い男爵家の嫡男が後ろ盾の弱い第一王子の支えのひとつになることに中立派は賛成の向きが強く、同じく中立派のバックフォード家に男爵家の後押しとして、降嫁の打診が来たのだ。
「どうしてこんなことを」
アイリーンのかすれた声は魔術師たちが上げ始めた花火の音にかき消された。一瞬の閃光と周囲の喧騒に紛れ、バードと彼を囲んでいた男たちはいつの間にか消えた。まるで……魔法のようだ。
「さすが見事な認識阻害と瞬間移動だ」
カーデューが魔術師を褒め讃えるようにそう言うと、珍しくアイリーンが婚約者をキッと睨んだ。軽く両手を上げ、へらっと笑うと言い訳を始めた。
「ディアナ嬢、騙すようなことをして申し訳なかったですが、バードとの普通のデートを楽しんで欲しかったのです」
ロマンティックなことに弱いアイリーンの表情がほろりとほぐれる。そんなに簡単に絆されてはいけないとディアナがアイリーンに抗議をしようと口を開きかけた時、カーデューは真面目な顔をした。
「あの夏の日、彼はあなたに恋をしたのです。彼はずっとその気持ちを守るためにたくさんの努力をし、今の地位を守り抜いてきた。正当な手段であなたを手に入れ、胸を張って良き日を迎えるために」
ディアナは口の端をきゅっと結んだ。
胸を張って、良き日……涙が溢れそうになった。なぜか、胸がいっぱいになっていく。
「わたしは……胸を張れないわ……」
この気持ちが、この場にいないひとに乱された結果だということは確かなことだった。
「まだ時間はあります。覚悟の問題です」
カーデューの言葉遣いがいつもと違う。いつもは妹に接するようだったのに、今は……これは気のせいじゃない。
「マリ=ディアナ」
アイリーンがそっと、ディアナの手を取った。手首に収まっている金色のバングルにアイリーンは目を溜めた。
「あなたを手放さない」
「……え?」
「そういう意味のあるものを贈られたのですよ」
優しいその声は、どこか少しよそよそしさを孕んでいて、ディアナはこれから進む道に突き飛ばされたように感じた。
「あなたの気持ちはもう決まっているのでしょう?」
そう、決まっている。
ただうだうだと言ってみたかっただけだ。ディアナは夜空に舞う花火を見つめ、散っていく火花とともにそっと目を閉じた。
*
静かに怒り狂う白皙の美貌を持つ魔術師の背後で、近衛騎士ファビアーノ・アヴァティはため息をついた。
「こうなることはわかっていたでしょうに……彼女に誠実を通すなら、父親たちに先に話を通すなんていう貴族らしいことをしなければよかったのに」
「……第一王子に親を固められたら、令嬢は受けるしかない。だろう?」
卑怯だし、性格が歪んでいるが、欲しいものを手に入れようとするその姿勢は嫌いじゃない。ファビアーノは第一王子を静かに眺めた。
「本気ってことですね」
王座を?
それともディアナを?
含みを持たせて投げかけられた言葉にバードは目を細め、返事をせずに静かに城下を眺めた。
かつて位の低い令嬢を愛した父王は彼女を守ることが出来なかった。
周囲の圧に負け、第二夫人として迎えた高位貴族の令嬢の威勢にまごついているうちに第二王子が生まれ、気がつけば愛した令嬢は病に伏していた。
愛した女性が亡くなることも防げず、第一王子が虐げられ、鬱々と過ごすことにも気が付かず、今も過去の愛の記憶に埋もれ、酒を煽る日々だ。
第一王子バートランドはあの夏の日、湖畔で出会った少女によって、覚醒した。欲しいものを手に入れるために立ち上がった強欲で我儘になった少年の面差しを、ファビアーノは今でも覚えている。
名ばかりの身分しかないオドオドとみっともない子豚が、長期休暇明けに突然狼となって戻ってきたのだ。成長期も重なり、意識が変化したせいでぐんぐんと伸びるその為政者としての貪欲さに魅せられたのはファビアーノだけではない。
バードはまっすぐに愛を貫くために考えなしだった父王の轍は踏まなかった。協力してくれそうな公侯爵当主たちと親交を深め、この日のために準備をしたのだ。
「せめて顔合わせの茶会ではロマンティックに口説いてくださいよ」
「さすがファビアーノ、世慣れているな。吟遊詩人が近衛の色男は女に乗っていたせいで馬に乗り損ね、馬上試合に出損ねたと歌っていたぞ」
馬上試合はココの祭りのイベントのひとつで、試合を制するのは騎士の誉れとなる。
吟遊詩人に歌われるのも噂されるのにも慣れっこのファビアーノは軽く眉を顰めただけで、顔色ひとつ変えなかった。
「それは光栄ですね。近衛騎士の中で色男と言えばファビアーノ、と思われているということでしょう?」
「その図太さを学びたいな。何年かかっても、なかなか難しい」
「試合に出損ねたのは殿下がディアナ嬢と密会するために城を抜け出したせいでしょうが!」
きぃっと牙を剥くが、「日頃の行いが悪いせいだよ」としれっとバードは言った。難しいと言いながら、しっかりとファビアーノの図太さを学んでいるようだ。
空に舞う花火をディアナも見ているだろうか。
バードは彼女しかいないという気持ちに確信を持った。崇拝したくなるような気持ちとともに激しい情熱と欲求、生々しいほどの肉欲が合わさり立ち上っている。
何に対しても気持ちを抑えるよう育てられたバードはその衝動に蓋をした。
ただ、本当の自分が持つ激情をディアナだけは両手を広げて受け止めてくれるはずだ。そう強く予感していた。
*
本来ならばクロティルドの夜会で殿下と面通し、という予定だったのだが、翌日には顔合わせの茶会に呼ばれた。
三日三晩続く祭りに沸き立つ城下の喧騒とは程遠い静かな宮廷内を侍女と近衛騎士に案内され、第一王子の書斎に通された。
光が差し込んで明るく、落ち着いた調度品に囲まれている空間の一角、クッションつきのベンチは居心地が良さそうだと思った。
少しの時間を置いて、バードがやってきた。昨日とは打って変わって、明らかに最高級仕立ての丈の長い濃いワインレッドの上着は立襟になっており、前身頃には同系の糸で刺繍が施されていた。第一王子のカラーだと聞いていたが、バードによく似合っていた。高貴な色は長身でしなやか、はっきりとした美しい顔立ちと相まって、堂々とした物腰を優雅に見せていた。
うっかり見惚れていたディアナは完璧に訓練されたカーテシーを披露するのを忘れるところだった。
「王子殿下」
型通りの挨拶をすると、バードは早々に人払いをした。未婚の男女がいる部屋らしく、形式的に扉は開け放たれていたが、事実上ふたりきりになった。
「ディアナ嬢、先日の非礼はお詫びする。だが、私はアルバート、ギルバート、ハーバートでもない。君の前では、私はただの『バード』だ」
「殿下、ですが……」
「君が愛しい。おかしいと思うが、あの夏の日、君と出会ったあの湖畔からずっと抜け出せない」
ディアナは開いた扉をちらりと見た。人の姿は見えないが、近衛騎士たちの影が伸びているのが見えている。
聞こえてしまうわ……!
恥ずかしさに目を伏せると、バードはディアナの手首に触れた。バングルをそっとさする指先に、ディアナはアイリーンが教えてくれた、アクセサリーの意味を思い返していた。
「『あなたを手放さない』と、このアクセサリーにはそういう意味があると従姉に教えられました」
小声で言うと、バードは微笑んだ。
「そうらしいな。私は御父上だけでなくバックフォード伯にも揺さぶりをかけて君を手に入れた。ロマンティックに口説けば良かったと世慣れた近衛騎士に説教されたが、たとえ君が他の男に心を奪われていたとしても手に入れたかった……貴族らしい卑怯さだな」
バードの指先がいつの間にか、金属の縁を伝い、手首をとらえていた。
「殿下?」
「許せ。どうしても手放せない」
手首をぐっと引き寄せられ、もう片方の手が顔に触れた。滑るように手は顎を支え、上を向かせた。
身の危険を感じていたけれど、動くことができない。捕食される前の小動物の感覚だろうか、ディアナはバードのエメラルドの瞳が苦悩と欲望に翳っているのを美しいと感じていた。
食べられてしまいたい……
そんなおかしな後ろ暗い欲求に息がつまり、心臓がばくんと大きく音を立てた。
「大丈夫、誰も見ていない」
唇がそっと、重ねられた。
かすめるように重ねられた唇、ディアナは大きく目を見開いた。バードの美しい瞳と目が合う。
「……ディアナ、淑女はキスする時目を閉じる」
「今までの、御経験?」
バードは目を見開き、真っ赤になった。
「残念ですわ……殿下の初めての相手ではなくて」
「根に持ってるのか?」
バードに揶揄われた時の言葉を当て擦った物言いをしたディアナはツンっと顔を背けようとしたが、バードの手に両側からはさまれ、元に戻された。
「あまり生意気なことばかり言うと、制裁のようにこの場で手篭めにされてもおかしくないんだぞ」
「殿下のお手つきになったからと言って、正妃になるとは限りませんでしょう? 遅かれ早かれ、わたしよりももっと、妃に相応しッ……や、ぁっ!?」
しっかりと腰を抱き寄せられ、バランスを崩した。いまやバードに抱えられ、塞がれた唇から流れ込む興奮に身体が貫かれているようだった。
「身体に火がつきそうだ」
バードが濡れた唇を離した。
さすがにこんなことをしたら衣擦れの音や話し声に驚き、近衛騎士や侍女が部屋を覗きかねない。
「やっ……離しッ……」
「他の妃は、迎えぬ。生涯通じてディアナ、君だけにする」
繰り返されるキスに、次第に分別が遠のいていく。疼く熱に、ディアナは苦しくなって喘ぎながら反論した。
「そんなわけにいかないでしょう? たくさんの……世継ぎが必要ですし」
「必要なら優秀な人材を迎え、配置すればいい」
君が生めばいい、そんなありきたりな言葉が返ってきたら、わたしは畜産動物みたいだと皮肉を言うつもりだったディアナは言葉に詰まった。
「君のことは手放さない。私の唯一の妃にする。だから出来れば王子妃教育を滞りなく修め、隣に並び立って欲しい」
「嫌だと言ったら?」
「閉じ込めて鎖に繋いででも、手放さない」
「わたしを大切に思うなら、考え直してくれるはずだって言ったわ!」
つい声を荒げたディアナの口を塞ぐように、また唇が重なった。今度はねっとりと、ゆっくり重なり、舌でなぞられる。
「んっ……あ、」
「あぁ、考え直した。キスだけでも、抱きしめただけでも、もう私は君を知ってしまった……君の心を正当に得られないのなら、君の分別と慎み深さを圧倒するほど壊すだけだ」
「野蛮だわ」
吐き捨てるようにディアナは言ったが、会話をする合間合間に吸われた唇がもたらす快楽に、頭も身体もぐちゃぐちゃに乱されていた。
「私もまさか、自分がこんなに恋に狂うとは思わなかった」
色っぽく、息を漏らすバードから目が逸らせない。クラクラとめまいがするほどで、はっと息を飲み込んだ。
「マリ=ディアナ、愛している。人並み以上の苦労はかけるが、一生君だけを敬い、愛し続けることを誓う……私に君に愛を捧げる権利を与えてはくれないだろうか」
権利?
ディアナはぼんやりする頭を軽く振った。
「権利もなにも……」
「私を好きになれそうか、愛してくれるか訊ねている」
また、唇を塞がれた。身体の芯に熱い疼きを感じている。これだけキスをして、ディアナがとろけているのを目にしておきながら、いまさら好きになれそうかと聞くのもおかしいだろう。抵抗しているのは、ただのディアナの意地だけだとふたりともわかっている。
「あぁ、もう……お化粧が、口紅が落ちてしまって……」
「ドレスが乱れるより、いいだろう? 皆、聞き耳を立てている……どんな顔合わせがあったか、今日の午後には宮廷内の噂になる」
耳元で囁かれてカァっと熱が頬から首筋に、伝う。逆に身体の芯の熱もざわりと駆け上がって、身体中の感覚を鋭敏にした。
「殿下!」
「君を見ていると、揶揄って弄んでしまいたくなる」
ちゅ……とまた唇が奪われ、息も絶え絶えになっていると、さすがにコンコンと扉がノックされた。
うるさいとバードは呟きふりかえり、ため息をついた。再びコンコンコン、と強めのノック音が聞こえた。
どうやら世慣れた近衛騎士か侍女が行き過ぎのないように止めてくれるらしい。恥ずかしさのあまり、ディアナは消えてなくなりたくなった。
「……時間だそうだ、ディアナ嬢」
ふたりきりのお茶会はこの後も定期的に続くことになるが、その度にバードの唇がディアナと同じ色の口紅に染まってそれを隠す様子も見せないため、化粧担当の侍女は諦め、次第に目立ちにくい薄い色の口紅をディアナにつけるようになる。
その色の口紅が第一王子妃の定番カラーとなり、来季の流行色となることをまだ誰も知らない。
*
年明けのクロティルドの夜会。
かなりの出席者が詰めかけているのは、第一王子の婚約者が決まると噂されているからだ。舞踏会としては成功といっていいだろう。外の寒さとは違い、数多くのシャンデリアから降り注ぐ光、豪華な衣装に身を包んだ貴族たちが溢れ、舞踏場は暑苦しく、喧騒に満ちていた。
目をキラキラさせた若い淑女たちがココの仮面をつけて流行りのドレスに身を包み、扇をあおいでいる。
ワインレッドの上着、黒の縁取り、金色の綾織のベスト、純白のクラヴァットにサテンのズボンのバードは一際目を引いた。
その姿を見るだけで、胸に愛おしさと嬉しさがこみあげ、ディアナはぽぅっと頬を染めた。
「顔が緩んでいてよ」
後方からアイリーンに注意され、ディアナはなぜわかったのかしらと不思議に思いながらこほんと咳払いして扇で顔を仰いだ。
カーデューは一連の流れをアイリーンの隣で見ており、ため息を殺した。
ほっそりと上品な身体の線、仮面をつけていてもわかる繊細な目鼻立ちは際立って美しい。特に同じ配色と背格好のアイリーンと並んでいるといたずらな妖精たちが集っているようで、好色な男性陣からの視線を欲しいままにしているのだが、本人たちは目立っていることなど、何も気がついていない。
手のかかるお嬢さんたちだ。もっと手のかかるバードはディアナの後見人となった侯爵夫妻を急かすようにチラチラと視線を送ってきている。
「……あなた」
侯爵夫人が呆れたようにくつくつと笑う。
「若い狼が待ちきれずに飛び出してくる前に、御挨拶に伺った方が良さそうですわよ」
「……うむ……」
ソワソワしてしまっているのはディアナも同じだ。養女に迎えたことを含め、挨拶のために列に並んだ。
昨日、面識のなかった侯爵になぜ養女に迎えてくれたのかと訊ねた。
中立派だったバードの母の実家と繋がりがあった縁、そして勢力が弱いながらも懸命に自分の力で協力者を増やしていこうとするバードにこの国の未来を見たからだと教えられた。
侯爵の目を通して語られるバードの姿をディアナは誇りに思い、はち切れんばかりの想いを胸にこの舞踏会に参加したのだった。
順番を迎えると、着飾ったディアナの姿に喜色を隠せなかったバードと、そのことに驚きを隠せなかった王、不機嫌になった第二王妃と無関心な第二王子を前にすることになった。
ちょうど時計塔の鐘が鳴り、深夜零時になった。先ほどまでカードゲームやドリンクを楽しんでいた人々が舞踏会のメインホールに続々と集まってきていた。
「侯爵家が迎えられた美しい御令嬢をダンスにお誘いしても? 今後の我が王家との良き関係を願って」
「我が娘に、なんとありがたき幸せ」
型通りの挨拶で侯爵の手からバードへと渡されたディアナの手に、舞踏場がざわりと揺れ、オープニングセレモニーであるカドリールが始まった。
カドリールの音楽が始まり、バードと手を取り合ったディアナが一歩を踏み出しながら呟いた。踊り方の指示出しをするコールがかかる大勢で踊る楽しいダンスだが、王子が手を取った相手ということでディアナへの注目が高い。
「きちんと踊れるか、心配だわ」
「カドリールだ、楽しめばいいのさ」
「でも」
バードがカドリールの指示とは逆方向に回った。観客たちがざわつく。そのざわめきの間、バードは一番近くにいた紳士を引き込んだ。
「殿下っ!」
白髪の紳士は抗議をしたが、彼をディアナの隣に、自分は正面にいたカップルの間に入り、引き込んだ紳士の連れていた妻を腕に抱いていた。
「私たちはもう……踊れないわ!」
「完璧でなくていいのです、楽しみましょう」
そう言って、どんどんとカドリールに踊る気のなかった、もしくは入れずに壁の花となっていた令嬢を、誘えずにまごついていた青年を入れていく。
いつの間にか舞踏場はいっぱいになり、仮面をつけた人々が向かい合って手を取っていた。コールに合わせてうまくくるりと回れた人も、不慣れで間違えた人も、この場で一番位の高いバードがあまり正確に踊らないことで気が楽になり、舞踏場は笑いの絶えない空間になっていた。
逆に、バードが引き込んだ紳士夫婦は途中から軽やかなステップを踏んでいた。
「明日は筋肉痛確定だな」
紳士がため息混じりに言うのを聞いて、彼の妻が朗らかに笑っていたのがディアナの印象に強く残った。
カドリールが終わり、ワルツが始まる。バードとディアナはそのまま舞踏場に残り、手をとって踊り始めた。緊張がほぐれたことでディアナはすっかりと楽しむ気持ちになっていた。
「なぜあの紳士様御夫婦はあんなに上手なのに、踊らなかったのでしょう」
「元公爵? 引退してからあまりこのような場には出られない方だからね」
元公爵?
ディアナは驚きの悲鳴を堪えた。ステップが少々乱れ、足がもつれかけたところをバードがふわりと腰を持ち上げて誤魔化してくれる。
周囲から、うっとりとするようなため息が漏れた。
着地すると流れるようにステップを踏み、事なきを得た。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。みんなは仲睦まじいカップルだと思っただけだよ」
バードがぱちりとウインクした。
「元公爵様は明日は筋肉痛だと呟いておいででした」
「家督を譲られてから籠りがちになってらっしゃるのかな? たまにはいい運動になって良かったじゃないか」
くくくっと笑うように言うバードの口調から、元公爵と交流があることが察せられた。
ディアナは何も知らない。この上流階級の勢力図も付け焼き刃で、マナーもダンスも及第点といったところだ。これからもっと、しっかりとやらなければならないことがたくさんある。
「不安そうだね? キスしてほしい?」
「どうしてそうなるのですか」
「とても気持ち良さそうな、可愛い顔をしていたからね」
ディアナはキスのもたらす恍惚感を思い出し、思わずバードをとろりとした目で見上げた。
「こらこら……そんな誘うような目で見ちゃダメだ。淑女は仮面の男の誘惑を跳ね除けなければ」
跳ね除ける?
ディアナは微笑んだ。
「あなたが名乗る前から、誰かわかる前からあなたに惹かれていたのに?」
「あんな子豚みたいだったのに?」
「子豚って……なんて言い方なの。品が良くて、可愛らしかった。安心していい人だってわかったわ」
そろそろワルツが終わる。仮面舞踏会とはいえ、まだ婚約もしていないふたりはこの曲で手を離さなければならない。この手の温もりが、沿わせた身体の熱が名残惜しい。
「ディアナ、君のことが愛おしくてならない」
「期待に添えないかもしれないわ。あまり勉強が得意ではないの、ポーカーフェイスも苦手だし」
王子妃教育、社交など心配の種が山ほどある。
「だけどバード、わたしもあなたのことが愛おしい」
「!」
バードがディアナの告白に驚かされた瞬間、ワルツの音楽が終わり、あたりが拍手で包まれた。ディアナを侯爵夫妻の元へとエスコートしながら、バードはつぶやいた。
「今言う……? ここじゃあキスどころか、抱き寄せも出来ないじゃないか……」
あまりに情熱的な若者らしい切実な嘆きにディアナが頬を赤らめて俯かせてしまったため、バードはディアナを受け取った侯爵夫妻の咎めるような教育的指導の眼差しを一身に受け、冷や汗をかくことになったのだった。
*
ココ以降、王子妃教育が始動し、半年。季節がふたつほど、移り変わった。
あの仮面舞踏会でのダンスで、侯爵夫妻が養女として迎えた令嬢への注目が高まった。第一王子の溺愛が一気に社交界に広まったせいだ。
ディアナの元へ届く社交のお誘いの手紙は山となっていて、すべて侯爵夫人が選別してくれた。中には失墜を狙った良からぬものも混じっているらしい。
あまりの溺愛の様に、婚約の儀、結婚の儀が済むまでにディアナとのふしだらな噂が立っては困るからと侯爵夫妻の監視が厳しくなった。
だけれども、監視の目を潜り抜け、バードは会うたびにディアナの唇を掠め取っていく。王子妃教育が半分も進まぬうちに、ディアナは抱きしめられることも、キスにも慣れてしまっていた。慣れてきてももっと欲しくなるのが困るところだ。まるで噂に聞く依存症のようだ。
王子妃教育の終わりの週に一度の茶会の後、バードはディアナをそっと抱き寄せ、背中をゆっくりとさすった。激情ではなく、穏やかな喜びがディアナを包み込み、甘く胸がきゅんと音を立てた。
額にそっとキスを落とされると、ディアナは閉じていた目を開いた。バードがゆっくりと身をかがめているところで、まさに今、ディアナにキスをしようとしていた。
「ディアナ、何度も言うけど、淑女はキスの時目を閉じる」
「王子妃教育でそんなこと習っていないわ。クローネ先生に聞いてみましょう」
バードは目をぐるりと回した。
クローネ先生とは教育担当の淑女だ。中年というにはまだ早いが、早くに寡婦となった元伯爵夫人だ。
厳しいことに定評があり、ディアナも怒られっぱなしだと言うが、報告されている評価は悪くない。何よりもディアナが頑張っているのが自分の妃になるためだというのが、この上なく嬉しい。
「やめてくれ……茶会までなしになるぞ」
くすくすと愛らしいぽってりとした唇が笑みをたたえるのを見て、バードは堪らなくなって吸い付いた。
もう少し身体を寄せればディアナの胸の鼓動も身体の柔らかさも堪能出来るかもしれないが、そうするとバードには不都合があった……ディアナにバードの身体の一部の変化を擦り付けることになるからだ。
「まいったな……」
「また、口紅が落ちてしまった?」
濡れた唇に薔薇色の頬、ぼんやりとした瞳はバードを誘惑して止まない。
「そう、口紅を滲ませてしまった。また君の侍女に怒られてしまう」
欲望に我を忘れるなど、王太子になることを望む男のすることじゃない。
一時の強い欲求を抑えつけ、いつの日かディアナをベッドの上で抑えつけ、長い時間をかけて我を忘れるほど愛を交わす日のことを想像し……震えた。
「寒い? 今日はだいぶ暑くなってきたけれど……」
ディアナは何もわかっていない。キスやハグの先の愛の交わし方など、何も教えられていないに違いない。
「バード?」
ぼんやりとディアナの唇を貪り、口の中を探って奥深くまで舌を差し入れることを考えていた。ディアナは心配そうに小さな手をバードの腕に置いた。
その手は痛いところがないかを探すように、肩、首、頬に触れてくる。まるで母親が子にするような仕草はバードに恋人に触れられる喜びを溢れさせた。ディアナの手の柔らかな感触を堪能していると、心臓が壊れそうなくらいに早鐘をうち出す。
「バード? あなた大丈夫? とても熱いし、心臓が……」
「マリ=ディアナ、君のせいだ」
「えぇ? わたしのせい?」
心臓とともに激しく脈打つ欲望の塊を押し付ければわかるだろうか? 否、まだ早すぎる。
守りたいという穏やかな気持ちとともに沸き起こる彼女を独占し支配したいこの気持ちは、太古より使い古された言葉だけでは足らない気がする。
だけど、それ以外の言葉をバードは知らなかった。
青く澄み渡る空は絹のようにきらめいて、ふたりが出会ったあの夏の日を彷彿とさせた。
「カルヴィ湾に行きたいね……あの湖畔で食べたビスケットは最高だった」
あの甘い味わいと生意気で可愛らしい少女を懐かしく思い出しながら、ディアナを見つめる。少女は大人になってもあの時と変わらずバードを見つめ返した。少し違うのは、瞳に好奇心の代わりに愛が溢れていることくらいだ。
「愛している、マリ=ディアナ。早く君が私の唯一だと皆に知らしめたい」
そう囁くと、ディアナは心配に曇っていた表情を変え、声を上げて笑い出した。
明るい笑い声に仄暗い欲望がおさまり、気持ちが落ち着いてきた。また穏やかに流れ出した親愛の空間にバードは身を委ねた。
そう、このほうがずっといい。今はまだ……。
「たくさん愛すから、覚悟してね」
「どういうこと?」
きょとんと聞き返したディアナににこりと微笑んだ。
「そのうち、ちゃんと教えるよ」
どういうことになるのか『ちゃんと教え』られたディアナが連日寝込むことになるのは、まだまだ先のお話し。
「さぁ、馬車まで送るよ」
ディアナは慈愛に満ち溢れたバードの笑顔につられて微笑み返し、その手を取った。
お読みいただきありがとうございました。
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