【清掃日誌09】 祭囃子
この歳だから理解出来る事だが、祭りと言うのは所詮下卑たものである。
故に、当時身分上昇に血道を上げていた父が嫡男の俺に対して、祭りへの参加を固く禁止したのは妥当な措置であろう。
幼少の俺は泣き喚き、乳母のマーサに祭りに連れて行く事をせがんだ。
今、思えば。
両親は俺とマーサが部屋を抜け出している事を知っていたのだろう。
そこで譴責出来ない甘さ弱さこそが父の本来の気質であり、数々の政争に巻き込まれずに済んだのもその心根が幸いしての事に違いない。
『マーサ。
今日は休日だろう。
ゆっくりしていればいいんだよ。』
「いいえ、こうやって坊ちゃんの御召し物を用意するのがマーサの仕事で御座います。
商業区のお祭りに向かわれるのでしょう?
どなたか良い方を誘われたのですか?
いつまでも独り身ですと、旦那様と奥様が心配されます。」
『いや。
特に誰も誘ってないよ。
…マーサ。
行こう。』
誘ってない、というのは嘘じゃない。
光栄な事に幾人かの女性が声を掛けてくれたが、《先約がある》と言って断った。
それも嘘じゃない。
俺にとっては大切な約束なんだ。
「坊ちゃん。
以前も申し上げましたが、私の様な婢が馬車に乗る訳には行きません。
坊ちゃんの名誉が傷付いてしまいます。」
『そうかい?
俺は誇らしいけどね。』
そう言ってマーサを引っ張り上げる。
思いのほかの軽さに俺は秘かに傷付く。
「…奥様に申し訳が立ちません。」
『何も言わないという事は、母さんも本心から反対している訳じゃないのさ。』
マーサ・ニューマンは首長国人である。
圧政と重税に耐えかねた農奴の両親と共に、自由都市に不法移民として流入して来たのはローティーンの頃である。
領主の無法によって望まぬ妊娠を強いられていた彼女は、自由都市領内で死産。
生死の境を彷徨っている際に、ポールソン夫妻に拾われた。
俺の母親が母乳の出ない体質であった為、乳母… それも安く使える乳母を探していたからだ。
一命は取り留めたものの、彼女は一生子供を産めない身体になった。
マーサは幾許かの給金を得られるようになったが、それだけで一家が食える訳もなく、彼女の両親は惨めに窮死した。
俺の両親がもう少し気配りが出来る人間であれば、もっと優しい未来があったのかも知れない。
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俺は祭りが好きだった。
何かを許されたような気分になる。
俺は祭りが好きだった。
その日ばかりは皆が笑顔を許される。
俺は祭りが好きだった。
マーサが買ってくれるリンゴ飴が楽しみで、毎年大はしゃぎしていた。
そう、俺は祭りが好きだった。
でも、かなりの年数が経つまで気付かなかったのだ。
この憐れな女は生まれてこの方、甘味などとは何の縁もなく飴の破片すら口にした事が無かった事に。
その事実を知った時、俺はどういう反応をしたのだったか。
いや思い返す必要はない。
どうせいつもの様にワンワン泣いたのだろう。
泣けば誰かが何とかしてくれるという、甘やかされたガキの見下げ果てたリアクションだ。
そうに決まっている。
「坊ちゃん。
やはり私の様な老婆と手を繋いで歩くのは…
皆が笑っております。」
『俺がそうしたいんだ。
いや、子供の頃から…
この瞬間が一番好きでね。』
「…たしもです。」
『ん?』
「…。」
確かに、若者の多いこの祭りでは老いたマーサはやや場違いに見える。
子供の頃は知らなかったが、商業区の祭りはカップルがデートをしたり、学生がナンパに興じたり、そういう場所だからだ。
事実、幾つかの少女グループが俺達を指さして意地悪そうに笑っている。
祭りに来るような少女は、みな小奇麗でそれなりに豊かである。
そんな女にとって、一目で家僕と解るマーサは目障りなのだろう。
そこそこ身なりの良い俺にエスコートされているのも気に喰わないのかも知れない。
もう、うんざりだよ。
元嫁はあまり感情を表に出せないタイプの女だったが、マーサに対してだけはヒステリックな感情を剥き出しにして隠さなかった。
全ては俺の不徳である。
「ポール。」
真横から聞き慣れた声に呼び止められる。
…そうか、アンタは貴賓席で足を組んで座るような身分になっているんだったな。
隣に座っているのは、確か区長だ。
「やあ、マーサさんもご一緒ですか。
どうか楽しんで行って下さい。」
つくづく癪な男だ。
かつて、マーサが飴を食べた経験が無い事を一目で見抜いた。
この男の如才の無い表情を見る度に己の不明を思い出し、あの日の俺を殺したくなる。
「これはこれはキーン社長。
私の様な婢に過分なお声掛けで御座います。」
マーサを見て眉を顰めた区長は人間として信用出来る。
それが正常な反応だからである。
俺が黙礼をすると、区長は一瞬だけ戸惑ってから慌てて答礼をした。
「ポール。
櫓の上の特別席にはウッドフォード元帥やハインツ理事長が来席されておられる。
オマエも来い。
是非、推挙したい。
安心しろ。
ここだけの話だが、彼らには貸しを作ってある。
私の頼みは断れん状況だ。」
《先約がある》と言って断った。
俺にとっては大切な約束なんだ。
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『マーサ。
リンゴ飴を食べよう。』
俺は屋台の店主からリンゴ飴を飴を一つだけ買う。
昔は怖いオジサンの巣窟だった屋台店主達も、ただの若者にしか見えなくなっている。
彼らが渋い表情をしているのは気性が荒いからではなく、親方であるヤクザや冒険者から苛酷なノルマを課されているから、という内部事情さえ見えてしまう。
そう、俺は老いたのだ。
俺は祠の縁に座って飴を半分に分けた。
「勿体のう御座います。」
『1人で食べても味がしないんだ。』
「…。」
『一緒に来てくれてありがとう。』
きっと誰かが花火でも上げているのだろう。
俺達の目に映る影は轟音に合わせて伸びたり縮んだりした。
これまで何度もしてくれたように、マーサが俺の口に飴を運んでくれる。
少し考えてから、俺もマーサの口に飴を運んだ。
彼女は驚いた表情で拒んでいたが、2度頼むと見開いた目を閉じ口を開いてくれた。
お互い一口ずつ食べてから、もう何も喉に通らなくなった。
きっと駄菓子を貪る歳でも無いのだろう。
マーサは気丈に背筋を伸ばし、ずっと真正面を見つめていたが、不意に俯き激しく身を震わせた。
気の利かない俺だが、こういう時どう振舞えば良いのかだけは知っている。
彼女がずっとしてくれたのと同じ振舞をするだけだ。
俺は祭りが好きだった。
俺はリンゴ飴が好きだった。
俺は子供の頃から泣き虫だから、誰かが涙を流している時くらいは涙を堪える事が出来る。
すぐに帰るつもりだったのだが、祭囃子は消えていた。