【清掃日誌11】 大礼服
俺とドナルド・キーンは一睡もしていない。
互いに「『仮眠だけはしっかり取っておこう!』」と呼び掛けあっているが、休憩のタイミングが掴めないのだ。
ここは総合債券市場のVIPフロア。
俺は柄にもなく国事に奔走している。
…仕方ないだろう?
人手が足りないんだから。
政治局も産業局も治安局も外交局も…
帝国も首長国も連邦も…
財界も軍部も教団も、皆が徹夜で黙々と暗闘を繰り広げている。
確かに大変だが。
前線で命の遣り取りを強いられている兵士達の苦労を思えば、文句を言う筋合いもない。
先程、我が国が派遣中の平和維持軍から第一号の殉職者が出た、と小耳に挟んだ。
これはエゴであると重々承知だが…
どうか知己ではありませんように。
俺だけじゃないさ。
誰もが祈りながら、淡々と己の戦争を遂行しているのだ。
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どうやら、今回の経済戦争には勝者が居ないらしい。
皆が顔面蒼白で必死で密談を行っている。
現場に来るまでは『どうせ財界人が戦争に乗じて金儲けをしているのだろう』と邪推していたが…
どうやら今回は違うようだ。
日頃、利権誘導を批判されている財界人達だが、今回に限っては保険を掛け捨てる為に参集したような気配がある。
唯一、笑顔を浮かべているのが政治とは何の関係も無いノンポリの連中である。
金持ちのボンボンや、後ろ暗い商売で這いあがった成金や、一発当てた冒険者や、そして何より莫大な国費を盗んで逃げて来た亡命者達だ。
そう。
我らがドナルド・キーン君が世話をしてやっている連中なのだ。
まっとうな国民は意外に総合債券市場に近づかない。
気軽に足を踏み入れるにしては悪い噂が多すぎる。
《ハニートラップを用いて内外の要人を監視・誘導にする目的で運営されている施設》
これが俺達一般人の偽らざる印象である。
そして残念ながら、噂が事実である事がウェイトレスの化粧の引き方でハッキリ理解出来てしまった。
同行者であるボヤルスキー子爵も馬鹿ではないらしく、女の配置を見て「ああ。」と納得したような顔をした。
「ああ、そういうことね。
ワシも10年若ければ、堪能出来たのになぁ。
皇帝陛下。
もしかして、お忍びで来てるんじゃない?
キミ、何かそういう噂、聞いてない?」
『さあ、どうでしょうか?』
「いや、来てる筈なんだよ。
最近、妙に債券市場を話題に挙げておられたからね。」
なるほど。
アレクセイ陛下は好色かつオープンな性格、と。
「へえ。
自由都市さんもご立派な事を言ってる割に
結構酷い手口使うじゃないか。」
子爵氏が顎で指した方向を見ると、ウェイトレス達が遊び慣れて無さそうな若旦那を囲んで密着攻撃を仕掛けている。
…ちょっと露骨すぎるな。
淫売共め、国家の恥を晒しやがって。
前はここまで酷くなかったぞ?
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気分が悪くなった俺はウェイトレスの手を振り払って、VIPカフェコーナーに退避する。
ここには敢えて女を配置していないらしく、辟易したVIP達が疲労感のある表情で白湯を啜っている。
見渡すと、ご婦人の比率が多く、その全員がうんざりした表情をしていた。
確かにそうだろうな。
俺が女でも同じ感想を抱く。
思い出すとまた腹が立ってきたので鼻で溜息を吐くと、真正面の青年と行動がシンクロする。
目が合ってからしばし2人で笑い合った。
青年は眼鏡を直しながら、ゆっくりと俺に話し掛ける。
「食前酒はお口に合いませんでしたか?」
声を聞いて驚いた。
凛々しい顔つきに加えてジャケット姿なので漠然と男だと思っていたが、女性か。
『如何なる美酒であっても、無理やり流し込まれるのはゴメンです。』
眼鏡の貴婦人は声を立てずに身体を揺らして笑った。
「貴方、この国の方?」
『ええ。
生まれも育ちもソドムタウンです。』
「私、子供の頃はよく来させて貰ってたのよ。
もうすぐ留学期間が終わるから、最後に見ておきたかったのだけど。
色々な側面のある街だけに、毎回新鮮な発見をさせて貰ってるわ。」
直訳すれば、《あの娼婦共を何とかしろ》という意味である。
確かにそうだな。
男性来賓に対してもそうだが、女性来賓に対しては無礼以外の何物でもない。
後でドナルドに提言しておこう。
最初は逆光でよく分からなかったが、髪が燃える様に赤い。
という事は首長国王族。
注意深く見ると、背後には精悍な顔つきの美丈夫が控えており、資料を読むフリをしながらそれとなく周囲を警戒している。
それこそ正真正銘のVIPじゃないか。
VIPフロアでVIPを怒らせてどうする。
『次は、落ち着いた景色でも披露させて下さい。』
俺がそう言うと眼鏡の貴婦人は一瞬目を丸くしてから、第一印象とは真逆の無邪気な笑顔を見せた。
その後は特に会話も無かったが、去り際に「楽しみにしているわ。」と声を掛けられた。
美丈夫にも軽く手を振っている。
「ちょっとお姉様ぁ!
お姉様ばっかり男の人と遊んでズルぅーい!
折角の旅行なんだから私も!
って、ぐえ!」
「馬鹿な事を言ってないで行くわよ、カロ。」
「お姉様! さっきの人!
ああいう人がタイプなの!?
《男なんか興味ない》
っていつも言ってる癖に!」
「そうよ。」
「え! うっそー!!!??
マジ!? 名前は!?」
「さあ。」
「もーー! 何やってんのよー!
相手の身元が分からなきゃ
ロマンスが生まれないでしょ!」
「ふふっ、私は十分満足したけど。」
「変なお姉様!
本ばっかり読んでるからそうなるのよ!
まるでクリスみたい!」
俺が濃厚なコーヒーを飲んでいると、VIPカフェコーナーに10名前後の婦人グループが流れ込んで来る。
旦那や息子に公然と色目を使ってきたウェイトレスへの怒りをぶつけ合っている。
一気にフロアが賑やかになった。
たったの3人でも姦しいのに、あれだけ集まれば、そりゃあね。
騒がしさが耐えられないレベルに達したので、美丈夫と黙礼を交わしてからウェイターにチップを払ってテーブルに戻った。
ドナルドにも休憩を取らせなくてはならないからな。
『ルームキーを受け取って来た。
アンタは少し仮眠を取れ。』
「オマエも寝て無いだろう。」
『俺には日頃の貯金があるのさ。』
2人で笑い合う。
「わかった。
1時間だけ席を外す。
万が一戻って来なければコールを頼む。」
『了解。』
注意深く見れば、ドナルド・キーンの足取りはやや重い。
さしもの完璧超人にも疲労の概念はあったらしい。
「おお、ポールソン君じゃないか!
キーン社長は?
御挨拶に伺ったのだけど?」
『これはこれはリンデンベルガー会長。
御無沙汰しております。
申し訳ありませんが、キーンは就寝しております。』
「ああ、そう。
ウェイトレス?」
『いえ、振り払うのに疲れたらしいです。』
「はははは!!!
彼は昔からモテるからね!!
フラれ疲れた私とはまるで逆だ!」
磊落に笑うリンデンベルガー氏だって、その武勇伝が夜間描写も分厚いことで有名だ。
そんな百戦錬磨の男が、少年の様に興奮しながら俺に伝えて来る。
「ポールソン君。
一般フロアの話聞いた!?」
『何か問題でもありましたか?』
「新作のスイーツが配られてたんだよ!」
『か、菓子ですか。』
「それも首長国の姫君が直々に配っておられた!
この話をキーン社長に報告したくてね、飛んで来たよ。」
『お気遣い感謝します。
それにしても首長国がそこまでするとは…
もっと保守的なイメージがありましたが…』
「そう!
それも姫君が直々に作られたらしい!」
『まさか…』
「私も驚いたよ!
駆け付けた時には一般フロアは大熱狂だった!
親首長国ムード一色だったよ。」
『…そ、それは凄いですね。
一目見てみたかったです。』
「遠目に拝見しただけなのだけどね。
まあまあの美人だった!
しかも若い!
まだ10代!
いやあ、カロリーヌ姫… 素敵だなぁ。
内心、首長国に対してはちょっとアレだったんだけど。
一気に印象が変わったよ!!」
…上手いな。
昔から外交上手な国だとは思っていたが。
この局面で大胆な奇手を打って来た。
しかも帝国の勧誘演説の直前にそれをやるかね…
こんなの、残りの投資資金は首長国に流れ込むこと必至だろう。
何が巧妙かと言えば、VIPフロアには顔も出さずに一般フロアを狙ったと言う点である。
我が国の封建アレルギーとコンプレックスを完全に把握している…
恐ろしい国だ。
俺はテラスから身を乗り出して一般フロアを覗き込んでみる。
…なるほど。
皆が興奮気味に盛り上がっているな。
姫君らしき人物は見当たらなかったが…
配ったのは先程の眼鏡の姫君であろうか?
いや、違うな。
あの方はパフォーマンスを強く嫌う性格に見えた。
「ポールソン君。
これは勝負ありだよ。
少なくとも一般フロアは首長国の勧誘演説を心待ちにしている。
…帝国の役人たちが真っ青になっていた。」
『やはり、帝国の国債は…』
「売れる訳がないよ。
だってただでさえ、首長国は友好国。
帝国は …なんだから。」
潜在敵国という言葉は誰も使わない。
いつだって戦争は言葉が生み出してしまうものだからね。
「実は私も、最終日は帝国債と首長国債を半々ずつ購入する予定だったのだけど。
…やっぱり人間って感情の生き物だよねえ。」
『やはり比率を変えますか?』
「役者が違うよ。
戦局がどう転んでも残るのは首長国。
先程の姫君の立ち回りを見て改めて確信した。
だってそうだろう?
帝国は皇帝が死ねば戦力大削減だが…
首長国は人材の層が厚すぎる。
それだけじゃない。
帝国は代替わりの度に継承戦争が起こるが…
首長国に関してそんな話は聞いた事がない。」
だろうな。
皆がわかっていた事だが、菓子一つでそれを可視化してしまったのは見事。
…だが、首長国に資金が集中し過ぎるのも好ましくないんだよな。
《帝国への資金流入を阻止しろ。
但し、こちらへの敵意を持たれない程度には債券を売らせろ。》
と言う滅茶苦茶な指令をドナルドは受けている。
首長国債が完売して、帝国債が売れ残るという事態は、長い目で見れば怖いな。
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起床したドナルドと共に、引率して来た賓客のチェックを行う。
大抵の者はウェイトレスと共にフロアを去った。
彼らは寝室で《丁寧に》銘柄の説明を受けるのだ。
「よし、全員寝かしつけたな。」
『アンタ、本当に仮眠を取ったのか!?
まだ一時間経ってないぞ?』
「おかげでな。
…ところでアレの姿が見えない。
オマエは見かけたか!?
大至急探させてくれ。
…ふう。
急ぎ情勢を整理したい。
少し騒がしいようだが。
私が不在の間に何かあったか?」
『わかった。
奥方の件は治安局に再度申し入れする。
それとフロアのこの騒ぎだが。
いや、アンタと入れ違いだったのだが。』
俺は菓子配付の件を報告する。
「首長国王室は1人1人が一芸に卓越しており、それを以て巧妙に人心を掌握している…
…知識では理解していたつもりだが、改めて見せつけられると恐ろしいな。
ソムリエやピアニストやオペラ歌手が居るんだ、パティシエが居ても不思議ではない。
恐ろしい国だよ。」
『俺も皆にその話を振ってみたが…
かなり心を動かされたようだった。
《残り予算を全額首長国に投資する》
と言っていた者も何人かいる。
もう帝国債の話なんて誰もしていない。』
「利回り云々の次元では無くなったな。
…さて、今度は帝国の面子を立てる工夫をしなくてはならない。
どうしようかな?」
『さっきまでとは真逆のムーブをするんだな?』
「そういうこと。
私のような無名兵士はただ戦局の変化に流されるだけさ。」
どの口で言うか。
戦局は兎も角、この大局を作っているのはアンタだろうが。
俺とドナルドは2人で一般フロアに降りて情報収集。
と言っても、姫君の話題で持ちきりである。
特にドアボーイやウェイターと言った立場の弱い者たちが涙を浮かべて姫君の温情を讃えている。
「この仕事に就いて5年になりますが
あんなお気遣いある言葉を掛けられるとは思いもよりませんでした。
初めて人間として扱われました!
私は共和主義者ですが、それでもカロリーヌ姫こそ至尊の方だと考えます!」
どうやら姫君は従業員用に菓子を用意しており、個別に親し気に話しかけて全員に渡し切ったらしい。
一個の才覚が、戦場を支配し得るという好例である。
あまりにフロアの皆の表情が晴れやかなので、帝国人を見つけるのは簡単だった。
絶望的な表情で頭を抱えている一団。
俺達同様に一般フロアの様子を見に来た帝国の下級官僚達だろう。
口を半開きにして硬直している者すら居た。
『彼ら死にそうな顔をしているな。』
「処刑されてもおかしくない状況だからな。
帝国だろ?
少なくとも何らかの処罰は下されるよ。」
『恨みの矛先は自由都市にも向かうかな?』
「かもな。
悪感情は沸くだろう。
さて、と。
どうやって切っ先を鈍らせるかね。
見ようによっては恩を着せるチャンス、か。」
『2000億ウェンの募集でまだ500も行ってないんだぞ?
どうするんだ?』
「どうやらエヴァーソン会長の派閥が最終日に200億ウェン分を緊急購入する事を決めたらしい。
これ以上帝国を刺激するのは危険と判断したのだろう。
逆に言えば財界のトップ連中が、それ以上出さないと決めたということだ。
このままじゃ1000億にすら届かない。
帝国の面子丸つぶれだな。」
『随分楽しそうだな。』
「個人的にはね?
だが、過分な役職を頂いてるからには相応の働きもしなければならない。
よし、私はフロアに残っている社長仲間に話を付けて来る。」
『俺は何をすればいい?』
「決まってるだろう?
私が国内を纏めるから、オマエは異邦人達の様子を見て来るのさ。」
『異物は異物同士、ね。』
「私がそれ程オマエを評価しているという事だ。」
『物は言いようだね。』
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要は俺に期待されている役目は遊撃だ。
良い意味での偶発性を発揮する事を望まれている。
…正気の沙汰ではないな。
異邦人か。
どこに居る?
いや、俺なんかが会ってどうするんだよ。
居場所のない人間の居場所。
…考えるまでもない。
今の俺が行きたい場所に行けばいいだけだ。
展望テラス。
風が冷たく雨が危惧されている今夜なら…
さぞかし居心地は良いだろう。
ドアボーイは「もうすぐ雨が降ると思われます。」と断ってから展望テラスへの扉を開ける。
ああ、確かに肌寒いな。
案の定、先客が居た。
「あら、御縁がありましたのね。」
『残念ですが、ここに来れば貴女にお目に掛かれる予感がありました。』
彼女は…
外していた眼鏡を掛け直すと俺に向かい合う。
敢えて勝気に見えすぎるように強めに施された化粧、短い髪を整髪料か何かでオールバックに纏めている。
先程とは異なり纏っているのは首長国王族だけに許された純白の大礼服。
肩口から大きく広がった赤い染みさえなければ、もっと安心して見惚れる事が出来ただろう。
「ふふふ。
噂通り率直な方ですのね。
ポールソン先輩は。」
『!?』
「私も経済学部なんです。
しかもブリンガーゼミ。
去年までは兄も在籍しておりましたのよ。」
『いや、まさかここでブリンガー教授の名前が出てくるとは…
思いもよらず。』
…この短時間でどうやって俺の身元を調べた?
いや疑問に思う方がおかしいだろう。
この総合債券市場には文字通り全世界のカネと情報が集まっている。
ましてや一国の姫君であれば、選りすぐりの諜報員を従えている筈だ。
「ふふふ、探った訳ではありませんよ。
他の方が姓を教えて下さったので…
それですぐわかってしまったのです。
偶然話した殿方が憧れのポールソン先輩だったなんて。
少し感激しておりました。」
『憧れ、ですか?』
「その分だと御存知ないようですね?
先輩の論文、経済学の世界では今かなり注目されてるんですよ。
今年に入ってから引用数が激増しています。
国際資本が世界にもたらす変化と弊害を正確に予測していた、と。」
『買い被りです。』
「ふふっ。
さっき私の後ろに居た子を覚えてますか?
無駄に背の高い。
彼、なんと連邦人なんですよ?」
あの美丈夫は連邦人だったのか!?
どうりで立派な体格をしていると思った。
「彼は私の後輩なのですけれど。
ポールソン先輩の研究に感銘を受けたようで。
私以上に先輩の論文からかなり引用してます。
覚えておられますか?
領土を《国土》という新語に置き換えられたじゃないですか。
相当カルチャーショックだったようで。
そのまま卒論の表題にしてしまいました。」
『…。』
「土地は領主を僭称する者の私物ではない。
国家人民の共有財なのだ。」
姫君は試す様に俺の目を覗き込んで微笑んでいる。
赤い髪、赤い瞳、そして純白の大礼服に広がっている赤い染み。
『述べた事実を一々覚えている者はおりません。』
「…ふふふ。」
姫君は穏やかな笑顔で天を仰ぐ。
こうして改めて見ると、年齢相応の少女だ。
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雨の気配。
霧雨の匂いがした。
ドアボーイが恭しく扉を開いて、入り口に傘を設置する。
俺達は無言で見つめ合っていたが
「衣装のこと、尋ねては下さりませんのね。」
と姫君が呟く。
『残念ながら。
男は女に対して、助ける程度の事しか出来ませんので。』
「残念です。
女は殿方に対して、助けを求める程度の事も出来ませんので。」
随分因果な生き物同士だな。
どうりで悲劇が繰り返される訳だ。
「お父様の差し金なのです。」
『国王陛下… の事でありましょうか?』
「ええ、領主を僭称している者。」
『何かの誤解ではありませんか?
娘の晴れ舞台に水を差す父親など…』
「いつもの事なんです。
女がペラペラと演説なんかしたら嫁ぎ先が減ってしまうでしょう?
生意気にも国際経済が議題だなんて。
それが我慢出来ないのです。
あの人はそういう人。」
『…成程。』
「このワインの染みはあの人からの警告なんです。
やったのは随行して来たメイド達だけど。
問い質したのですけれど…
否定すらしてくれなかった。
女同士って嫌ですよね。
私、メイド達から嫌われてるんです。
…学者の真似事なんかして男に媚びてるって。
染みを見つけて驚いた私を見て。
あの子達、嬉しそうに笑ってたわ。
…さっきも帝国人のオバサンから嗤われてしまったわ。
凄く屈辱的な気分よ。
今時、髪を縦に巻いてる人に嗤われる謂れはないのだけれど。」
…後で厳しく叱責しておくよ。
ちなみに、あれは地毛だから。
「…女は結婚の道具。
王室に生まれれば政治の道具。
どうしてもそれが納得出来なくて…
こんな馬鹿な真似をしているんです。」
『ああ。』
「…私達姉妹は産みの母が帝国の血を引いているから…
子供の頃から帝国に嫁がされることが決まってて…
それが嫌だったから、帝国男性が嫌いそうな事ばかりしているの。
妹は賢いから城下町のケーキ屋で下働きをしている事を吹聴しているわ。
姉は愚かだから兵隊ごっこ。
一番愚かな私は如何にも殿方が嫌ってくれそうな小賢しい女になる事に決めたの。」
『…。』
「…喋り過ぎたわ。」
『たまには私的な話をするのもいいんじゃないか?』
「…もう行かなきゃ。」
『その格好でか?』
「雨が降れば…
色々洗い流してくれると思ったのだけど。
もう時間切れね。」
『…。』
雨は大抵流してくれる。
それこそ、女の涙とか。
ステイン以外の大抵は洗い流してくれる。
「…ワインを被ってから演説するわ。
私は絶対にあの人の思い通りなんかにならない。」
済まないな、後輩。
論文に書き忘れていたよ。
そんな格好いい女には嫁ぎ先が逆に増えてしまうってな。
『…セット。』
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「貴方、聞きましたか。
次は首長国の王女が演説するそうです。」
エルデフリダは満面の笑みでドナルドや俺に話し掛ける。
ちなみに、そのセッティングをしていたのがオマエの旦那な。
さっきまで首長国官僚と我が国の財界人の橋渡しをしていたんだぞ?
「ふふっ、首長国の王族でしたらぁ♪
さぞかし素敵なドレスをお召しになっているのでしょうねぇ♪」
オマエ、こういう時だけ精神が安定するよな。
「ねえ、貴方もそう思いますでしょう?
ああ、早く王女様の演説を聞きたいわぁ~。
うふふふ♪」
俺とドナルドの間に勝手に座ったエルデフリダは、俺にワインを注がせる様子をウェイトレスに見せつけてご満悦である。
こういう施設に居るハニートラップ要員の多くは、生まれの貧しさから止む無くこの様な賤業に身をやつしているのだ。
断言するが、好きでこんな役目をしている女はいない。
それが分からずただ無邪気に憎める女は、きっと恵まれているのだろう。
エルデフリダは用も無いのにウェイトレスを呼びつける。
そして夫の肩に甘えてもたれ掛かる様子を見せつけるのだ。
ウェイトレス達は相当訓練されている筈だが、それでもエルデフリダの精神攻撃はかなり効いているらしく僅かに苦悶の表情を浮かべている。
「ねえ、ポールぅ。
ワタクシ、ピスタチオが食べたーい♪」
無言で殻を剥く俺を周囲に見せつけて幸福を誇示する。
「ワタクシ、1人じゃ食べられな~い♪
貴方ぁ、おねがぁい♪
あはっ♪
美味しいですぅ♪」
女は女への嫌がらせが得意だよな。
同性にしか分からない感情のツボがあるのだろう。
可哀想に、呼び付けられていたウェイトレスが俯いて逃げ出してしまった。
ちなみにオマエの旦那の信条は《抑強扶弱》な。
「~♪
ふふっ、そろそろ王女様の演説の時間ね。
ねえ、ポール知ってるぅ?
首長国の王族って公的な場では純白の正装以外は着用してはいけないらしいわよ。
大変だわ~。
汚れでもしてしまったらどうするのかしらぁ♪」
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後輩が登壇する。
颯爽とした足取り。
燃えるような赤髪、
そして、純白の大礼服。
その凛々しさに、思わず会場全体が感嘆の溜息を漏らした。
一方、何かを察したお隣さんは俺を激しく睨み付けている。
後輩は如才なく首長国債の解説を行った後。
「ここから先は私見ではありますが…」
と断った上で、両国を繋ぐ幹線道路の話題に触れた。
帝国と首長国が別々に着工している互いに向かう為の幹線道路。
(当然、これは軍用目的なのだが。)
時勢が許せば、両国で合弁会社を起ち上げて産業用道路を建造しても面白いかも知れない。
との趣旨である。
事前の打ち合わせになかったのだろう。
首長国側のスタッフが大慌てとなる。
打ち消そうにも、こんな珍論に対しての想定問答は作っていない筈だ。
そりゃあ、そうだろう。
昔、論文で書き切れなかった構想をさっき入れ知恵してやったんだからな。
国際的なインフラ事業は当事国同士の戦争を抑止する効果がある。
少なくともプロジェクト遂行の過程で、偶発戦闘へのストッパーが自然発生するのだ。
要人のオフレコ発言レベルでも、そういう話題が上れば世論は友好に傾くものだからな。
姫君は「そんな不安定なインフラ債が売れるのか?」と懐疑的であったが、まあどこかの物好きなカネ持ちに売りつければいいさ。
一方、帝国のスタッフたちが一筋の光明を見出したような表情で姫君の演説に聞き入っている。
話の展開次第では切腹は免除して貰えそうな流れである。
アイコンタクトでドナルド・キーンに確認を取る。
…ポジティブ。
だそうだ。
それにしても。
随分過剰なクリーニング代を受け取ってしまった。
流石は一国の姫君、気前がいいね。
最初、可愛気のない喋り方をする姫君への反応は良くなかったのだが
気が付けばオーギュスティーヌ王女礼賛のコールで大いに会場が湧いている。
一部のメイドやエルデフリダが般若の形相で壇上を凝視しているものの、沸き起こった拍手はいつまでも鳴りやまなかった。
役目を終えた俺が立ち去ろうとすると、袖口が乱暴に掴まれる。
顧みると、ドレスがびっしょりとワインに塗れたエルデフリダが居た。
「…ねえ、ドレスが汚れてしまったの。
ワタクシ、こんな恰好じゃどこにも行けないわ。
ポールもそう思うでしょ?」
その瞳は、咎めるようでもあり媚びるようでもあり縋るようにも見えた。
…馬鹿な女だ。