深夜0時の県道はきっと地獄へ通じている
急逝した父から小さな鉄工所を引き継いで3年。
仕事狂いだった父の手腕のみで成り立っていた会社は、彼の不在で大きく傾きはしたものの、母や妻の協力甲斐もあってなんとか持ち直し、今に至る。
決して楽観視はできない状況だが、仕事の合間にコーヒーを一杯飲む程度の余裕は生まれた。
再び前進を始めたこの会社を、そして俺を信じて働いてくれている妻や母、仲間達を、俺は守り続けなければならない。
俺だけは、気を抜くわけにはいかないのだ。
それは、遠方の取引先に製品を納品し、新たな仕事を受注した帰路だった。
高速料金を節約するため、可能な限り下道での移動を心掛けている。そのため隣県の取引先に納品を済ませ、自分の住む県まで辿り着いた頃には、時刻は深夜0時を回りつつあった。
少しだけ開けた窓からは、夏の夜の湿っぽい空気が流れ込む。青々と茂った雑草を湯掻いたような、青臭い蒸気を含んだ風が、俺の汗で湿った前髪を撫でた。
疲労が全身を包み込んでいる。
アクセルを踏む右足の感覚が曖昧で、自分が走っているのか止まっているのか、それすらもわからなくなってくる。
後頭部を打ち鳴らすように、暴力的な眠気が断続的に俺の意識を襲う。
明日の仕事のためにも早く家に帰りたかったが、もはや限界だった。
県道沿いのコンビニに車を停めると、背もたれを倒して少しだけ目を瞑る。5分ほど睡眠をとれば、なんとかこの眠気を飼い慣らす事ができるだろう。
憎たらしいアラームの音で再び目を開けると、コンビニでトイレを済ませ、アイスコーヒーとエナジードリンクを購入する。そしてコンビニ横の灰皿でタバコを一本吸った。
家まではあと30分ほどの距離だ。
深夜0時の駐車場には誰もいない。
音は、遠くから高速道路を走るトラックの音と、コンビニの窓ガラスにぶつかるバカな蝉の悲鳴くらいしか聞こえない。
県道沿いのコンビニの駐車場は無駄に広くて暗く、宇宙飛行士のような孤独を感じた。
自社の社名が入ったシルバーのプロボックスが、さしづめ俺のスペースシャトルといったところだろうか。
そこでふと、駐車場の隅の暗がりに1台のセダンが停まっていることに気付いた。いつからそこに停まっていたのかはわからない。その黒は、完全に深夜0時の宵闇と同化していた。
俺はその車をどこかで見た事がある気がした。
名前もよくわからない車だから、マイナーなメーカーの外車なのかもしれない。しかしその形状にはどこか見覚えがある。
俺は最近読んだ雑誌の1ページにでも載っていたのだろうと、その既視感についての追求を止め、車に乗り込んだ。
とにかく今大事なのは、早く家に着いて、この汗だくの身体を洗い流し、ひんやりとした薄手のタオルケットに包まる事だった。
缶コーヒーを一口飲むと、俺はアクセルを踏んだ。
父の事を思い出す。
父はいつも疲れていた。子供の頃、自分が布団に入る頃にフラフラと帰ってきて、雑にシャワーを浴びると、薄暗いダイニングで30分だけ酒を飲む。そんな生活を死ぬ直前まで続けていたのなら、あんな事故を起こすのは自明の理だったのかもしれない。
あの頃の父に、自分はどれだけ近づけたのだろうか。
駐車場から県道に出たところで、ルームミラーにヘッドライトの輝きが映り込む。コンビニの駐車場に停まっていた黒いセダンが、俺の後に続いて県道に出るところだった。
俺はさして気に留めず、車通りのない県道を走り出す。
住宅街を抜けると、両脇に田園が広がった。昼間に見れば青々とした葉に埋め尽くされた爽やかな光景なのだろうが、今は黒い針が縦横無尽に突き出た、地獄の針山のように映る。
父も散々通ったであろう、この真夜中の田舎道。父にもこの道が、地獄の景色に見えていたのだろうか。
10分ほど車を走らせたところで、俺は異様な状況に気がついた。
あれから何度か路地を曲がり、信号を通過してきたはずなのだが、先ほどコンビニで後ろについたあのヘッドライトが、今だに俺の後ろで輝いているのだ。
別段おかしな事ではないのかもしれない。偶然方向が同じだったため、必然的に前の車の後をつける事になるのは、さして珍しい事ではない。後続車の照度の低いハロゲンライトが、不気味な目で俺を睨みつけているような気がするのは、きっと溜まりに溜まった疲れのせいに違いない。
俺は後続車に先頭を譲るため、ハザードランプをつけて路肩に停車する。
後続車が俺を追い抜いてくれれば、再び気怠い帰路を辿るだけだ。
俺はルームミラーで後続車の動向を確認する。
後続車は徐行し、車のすぐ後ろに停車した。
「なんだ‥‥?」
俺は呟いた。
この車は俺の後をつけている。理由はわからないが、明確な意思を持って、俺の車の後ろに張り付いている。
覆面パトカー? 煽り運転? 自分の今までの行動と照らし合わせて現状を理解しようと試みるが、何一つ思い当たる節はない。
プロボックスのエンジン音が、静かな田んぼ道を無遠慮に賑わす。俺は開けていた窓を閉めて、ルームミラーで後続車を凝視した。
後続車のハロゲンヘッドライトと目が合う。
誰かが降りてくるものかと思っていたが、運転席のドアが開けられる様子は無い。獰猛な獣が獲物の背後から捕食のチャンスを窺うように、光る目が俺を見つめている。
手探りでドリンクホルダーのコーヒーを手繰り寄せる。蓋が固く閉まっていて、何度か手を滑らせながら蓋を開け、口腔を湿らす程度に口に含む。
地獄の釜の底を舐めているような、錆びた金属の味がした。
明らかに異様だ。
理不尽な世界が、俺の日常を侵食し始めている。
俺はアクセルを踏み込んだ。
プロボックスは唸り声を上げながら走り出した。
後続車もそれに続くように、加速する。
俺は父の事を思い出していた。
父は優秀な経営者だったが、決して正しい人間ではなかった。この会社を維持するため、他人を騙し利用する事もあったし、他人を貶め、多くの人間を不幸にしてきた。
父の跡を継ぐことになり、そんな父の行動を知る事になったが、それと同時に、そうまでしてこの会社を維持しようとした父の気持ちも、分かるようになった気がする。
この会社を守るため、父は罪を犯してきた。
父が死んだあの交通事故は、彼が犯してきた罪の精算として、天が彼に与えた裁きだったのかもしれない。
もしくは、誰かの恨みや呪いの感情が、父を死に追いやったのかもしれない。
あの頃の父に、自分はどれだけ近づいたのだろうか。
そんな自分に迫る地獄の使者のように、黒い怪物は執拗に俺を追い続ける。
付かず離れず、俺の一挙手一投足を見定め、監視し、最後の審判を下そうというのだろうか。
見るな。
こんな俺を、見ないでくれ。
俺はスピードを上げた。
信号をいくつも無視し、タイヤを軋ませながらカーブを抜けた。
ルームミラーには光る二つの目。
逃げられない。
逃げられない。
進行方向の先にある踏切が光り始める。遮断機がゆっくりと下り、俺の行先を閉ざす。
俺はアクセルを踏み込んだ。
近づくにつれ、二つの赤い光と、耳障りな警告音が大きくなる。
ルームミラーを見る。
数メートル後ろに二つの光る目。
遮断機を跳ね上げ、プロボックスが踏切を通過する。
その直後、貨物列車が線路を走り抜けていった。
◯
暫く走り続けたが、あの黒い車が俺の後ろに現れる事はなかった。俺は震える手で缶コーヒーをつかみ、喉に流し込んだ。それはまろやかで柔らかな味に変わっていた。
あの車が何だったのかを考える。
ぶつかるでも、煽るでもなく、ただ俺の事を観察するかのように執拗に追い続けたあの車。
あれはきっと、どこかの頭がおかしい異常者だったのだろう。あの異常者はまたどこかの誰かに同じように付き纏い、いずれは大問題になり、法の裁きを受けるに違いない。
いずれにせよ、俺にはもう関係の無い事。
早く忘れなければならない。
俺は今は早く家に帰って、ゆっくりと眠り、明日もまた仕事に精を出さなければならないのだ。
今日得てきた仕事も、おそらくどこかの誰かを不幸にし、時にどこかの誰かの命を奪うかもしれない。
荷台に乗った売れ残りの段ボール、そこに詰め込まれた黒い鉄の塊は、その重量以上に俺の心を沈み込ませる。
でも、こうしなければ、俺はこの会社を守れない。妻や、母や、仲間たちを守る事が出来ない。
信号が青に変わった。
あの角を曲がれば、長かった帰路が終わる。
ヘッドライトがアパートの駐車場を照らした。
そこにあの黒い車が停まっていた。
◯
俺は死んだ父の事故現場の写真を思い出していた。
そこには父の乗るプロボックスと同様に、横転するあの黒い車が写っている。
目の前のこの車は、父が衝突し殺してしまった、あの車なのだろうか。
事故を起こした父が罪に問われる事はなかった。仕入れ先の損失を恐れた取引先の圧力によって、父の犯した罪は法の下で透明にされ、消えた。しかし父の犯し続けてきた罪や、今俺が犯し続けている罪は、絶対に消える事はない。
俺は踵を返し、再び夜の町へと舞い戻るしかなかった。
犯した罪が、俺を捕らえ、殺すその日まで、きっと俺は逃げ続けなければならない。
プロボックスは速度を上げて、静かな夜の町を駆け抜けていく。
朝日はまだ昇らない。