第二話 牢獄の部屋
窓一つすら無い狭苦しい牢獄の様な部屋の中で一人、男は机に向かって座っていた。簡素な作りの机に何も書かれていないノートと無造作に投げ置かれた鉛筆だけが置いてある。
いや、特筆すべきはもう一つ。窓も戸も無い密室の部屋で男と机を囲む様に鉄格子が設けられていた、決して男が出られぬ様に……それが無くとも男が出ることなど叶わぬ事なのに。
男は周囲を見渡してみるが四方は全て何の変哲も無い壁で囲まれていて、結局どうすることも出来ずにまた机に向かう事になる。持ちたくもない鉛筆を持ち、何も書かれていないノートを眺めているだけ。それが男の世界の全てであった。
暫くすると、みしり、みしりと壁の外で何かが歩く音がする。みしり、みしり、みしり、みしり、みしり、みしりと壁の周りを延々と何者かが歩く音がするのだ。いや、この足音は母の物だ、母が部屋の周りを歩いているのだ。男の口から「あ、あぁぁ……っ」と嗚咽にも似た声が漏れ出る。壁からみしりと足音が鳴る度に男は自身の頭が締め付けられる様な苦痛を感じてしまうのだ。みしり、みしりと鳴る度にぎりぎりぎりぎりと足音が質量を持った音となって頭の中を足音が駆け巡る。
「あぁあぁぁぁぁ……っ!」
机の上のノートも鉛筆も腕で薙ぎ払って頭を抱えて苦痛に踠き苦しむ。頭が痛い、割れそうだ。男は歪む意識を必死に取り繕う、すると不意に壁の外から足音が止んだ。男はハッとして息を飲んだ。
──コッ、コッ。
「はぁいっっ!」
壁の外から堅い板──そう、例えば扉をノックした様な音が鳴ると男は自身でも驚く程の声で返事をした。四方の壁には扉など有りはしないのに、確かにこれはノックの音なのだ。
──コッ、コッ。コッ、コッ。
「はぁい! はぁぁいっ! 起きてます! やっていまぁす!」
男は椅子に座りながらも背筋を伸ばし、まるで学舎の模範生の様に右手を上げて返事を繰り返す。やがて返事ノックが収まると、またみしり、みしりと足音が壁の四方を周り出す。
「うぅぅ、ああぁぁあぁ……っ!」
そしてまた足音が男の頭をジグジグと苛む。頭が、頭が痛い、割れそうだ。男が延々と頭を抱えて苦しんでいると、そっと後ろから誰かが自身を優しく抱き締めているのに気が付いた。窓も扉も無い部屋で、牢獄の中で閉じ込められている自身を誰かが抱き締めているのだ。一体誰がどうやって、いや、まさか……。
「センセ……こんなに苦しんで可哀想。でもボクがずっと側にいますから、そんなに苦しまないで……?」
自身をセンセと呼ぶ誰かが男の頭を優しく抱えている。愛おしさすら感じさせるその手付きを思い出そうとするが、男には何の覚えも無かった。
「さぁセンセ、こっちを向きましょうねぇ……うふふ。あらぁ? こっちのセンセはちょっと若いなぁ。それならボクももう少し若くすればよかったカナ……?」
「あ、あなたは一体誰ですか? ここにどうやって入ったんですか!? ここは入ることも出ることも出来ない部屋なんです! 僕はここに、ここに入って、あ、あああぁぁあぁ…………っ! 駄目だ、駄目なんですよここに入っちゃ! 父ですらここに入っては駄目なんだ、それをあなたは……っ!」
目の前に突如として現れた白衣の女性は男の狼狽えなど歯牙にも掛けずペロリと舌舐りをすると、男の口を己の口でねっとりと塞いだ。男は思わず「んぐ……っ!」と息を飲んで目を見張ったが、女性は男のその視線も、息も、声すらも飲み込む様な激しい口付けをした。男にとっては永遠にも感じるその時間は、女性が口を離すまで続いた。
「んふふ……センセの唇、とっても美味しいですぅ。ご馳走さまぁ……っ!」
女性は唾液で濡れてぬらりと鈍く輝いている自身の唇を指で軽く拭って微笑んだ。男は突然の出来事に呆然としているが、次第にゆっくりと意識が覚醒していく。そうだ、僕──いや、俺は。
「……随分深く彼と意識が同調してしまっていたようだ。獏君、助かったよ、ありがとう。いやしかし一つ言いたいのだがね……」
「あはぁ! センセ、やっと覚醒したんですねぇ。んー、どうかしましたか?」
「なんで君は此方でもその白衣なのかな?」
「それはですね、センセが喜ぶと思ってなのですよ! だってセンセったら、向こうでもスッゴク熱い視線をくれたからボクもすっかりその気になっちゃったのぉ……! でもこっちのセンセはちょっとお若いですねぇ。向こうの格好良いセンセも好きですけど、こっちのセンセは可愛くて、ボク……惚れ直しちゃいますぅ!」
「そんな視線は送って……ない、と思うけどね。うーん、俺のこの身体は中学、高校ぐらいの物なのだろうか。彼の心象風景が投影されたのだから、やはり彼は過去に束縛されているのかもしれないな。それにしても四方の鉄格子に全面の壁とは……息苦しい部屋だ」
「あーん、そうやって真剣な顔をする子供のセンセ……とっても可愛いですぅ!」
獏は男の頭を抱えて撫で回すが、男はそれを「ええい、鬱陶しい!」とはね除けて鉄格子に手を置いた。
固い鉄で出来た鉄格子。格子の隙間は辛うじて手を差し込める程度しかなく、二人は文字通り完全に閉じ込められているのだが、男が鉄格子にぐっと力を入れると、それはまるで飴細工の様にグニャリと曲がった。そのまま人が通れる分の隙間を作ると、二人はすんなり鉄格子の外へと出ることが出来た。
「全ては夢物語、か……」
男は何処か自嘲気味に口に出した。二人が今居る場所は、客として訪れた男が見ている悪夢の中なのである。超常現象、異常現象、ペテン、インチキ、気狂い、妄想。これはその何れかなのかもしれないし、その何れでも無いのかもしれない。只一つ大事なことは、こうして人の夢の中に入る事でしかセンセと呼ばれた男は眠れないし、それを現実に出来るのは隣に居る獏だけなのである。
「ふーむ、とりあえずこの部屋からは出るとして、俺達は何処へ向かうべきかな?」
四方は壁で囲まれており、蟻の這い出る隙間も無いが夢というのは便利なものであり、男が念じれば扉を作ることも階段を上下に繋ぐことすら可能なのである。
この部屋から逃げることを優先するのならば上か下のどちらかに行くのが正解と思える。しかし今は悪夢を引き起こす原因の情報が欲しい。それならば先ずは足音とノックについて調べるべきなのであろう、男は壁に向かって手を向けた。
──コッ、コッ。
「はいぃっ!」
突然鳴らされたノックに脊髄反射とも言える速度で男は返事を返した。どうやらこの宿主の男は余程の幼少期過ごしてきたのか、ノックをされたら即座に返事をするというのが骨の髄まで染み込んでいるらしい。
「センセのその返事をする癖って、例えばボクがノックをしても返事をするんですカネ……えいっ」
コッ、コッ、と獏が適当に壁をノックする。ノックをしたのは母親では無いのを男はその目で確認しているのに右手は天を突く程に確りと伸ばされ、口からは言いたくも無いのに「はいっ!」と勢いよく返事が出てしまった。
「あはぁ! 素敵なお返事ですねぇ!」
「獏君、あのね、お客さん……まぁ便宜上今は彼と呼ぶけどね、この返事をする癖はきっと彼のトラウマに起因しているもので、そうやって遊んでいいものじゃないんだよ。わかるかい?」
「……えっとぉ、ボクのことがぁ、好き好き大好きぃ! という人は手を上げて大きな声でお返事をしてくださーい!」
言いながら獏は壁をコッ、コッ、とノックをした。
「はぁぁいっっ!」
「あんっ! これでボクとセンセは相思相愛ですぅーっ!」
「俺で遊ぶなっ!」
「ごめんなさぁーい!」
気持ちの籠っていない謝意を述べると獏はペロッと舌を出しておどけて見せた。男は気を取り直して壁に指を当てると上から下にスッと線を引くように動かした。すると壁はまるで暗幕のように薄くペラペラに変質したので、男はまるでそれをサッとカーテンの様に引いた。
男が一歩足を踏み入れると、そこは極々一般家庭で見られる板張りの廊下が広がっていた。ただし、夥しい数の足跡が廊下から壁、上を見上げれば天井にもびっしりと敷き詰められている。
「センセ……あそこを見て……」
獏が恐る恐るといった様子で薄暗い足跡だらけの廊下の奥を指し示すと、そこには人の手が宙に留まって浮いていた。片手だけではあるが、確かに人の手である。それは手の甲を壁に向けており、時折コッ、コッと宙に浮いたまま壁をノックしている。男は直感する、あそこで宙に浮いている物は男の母の手である。
「あれぇセンセ、ノックのお返事……しないんですかぁ?」
「ん……あぁ、部屋の外だからかな。ノックの音を聞くと身体が強張るけど、脊髄反射で返事は出ないようだ。それに……」
「それに……? あ、センセ、なんだか少し身体が大きくなってません?」
「そうなんだよ、身体が少し成長をした気がする。これはつまり、彼が部屋を出た……或いは彼への束縛が緩んだ年齢に悪夢が進んだのではないかと思う」
「束縛って、誰にですかぁ?」
「……それはおそらく母親だろうねぇ。獏君には分からないかもしれないが、あそこで宙に浮いている手は彼の母親の物だよ。彼の意識と同調している俺には分かる、分かってしまうんだ」
宙に浮かぶ母の手が何度も壁を叩く、その手の先に母の姿が繋がっていないのは、もしかすると彼は壁を叩いたであろう母のその姿を一度足りとも確認してはいないのではないか。叩いた音も、掛ける声を聞けども、その戸が開くことは決して無かった。だから彼はその手の先を姿に表すことが出来ないのだ。
「そして、戸を開けられる年には既に母は……」
「……センセ? 何か仰いました?」
「いや、何でもないよ。外に出てみようか」
二人は暗がりの廊下を歩いていく。電灯も何も無いのだが、薄くぼんやりとした明るさの廊下が果てしなく続いている。視線を奥に向けると明るい光が漏れ出ているのがわかる、玄関なのだろうか。其処に至るまで窓も扉も一切見当たらないのが不気味であった。
「センセ……誰か後ろから着いてきていませんか? さっきから気配がするんですけどぉ……」
「……するね、気配どころか足音まで聞こえる。彼の母親だと思うが、どうやら振り向かない方がよさそうだ」
男が感じたのは嫌な予感では無く、絶対的な振り返る事への恐怖。きっと彼には振り向いた事で過去に何かがあったのだろう、男は獏の手を引いてずんずんと歩いていく。獏は嬉しそうに「センセったら、大胆っ!」と引かれるままである。結局、玄関に辿り着くまでその気配と音は二人にぴったりと寄り添うように着いてきた。
「あらぁ……玄関まで来ると急に気配も消えましたねぇ……」
「見送りの類いなのか? にしては嫌な緊張感があったな」
「きっと過保護なお母様だったのですね!」
「過保護で言い表していいのかね、さて外を探索してみよう、ここにも彼の悪夢を解決する何かがあるのかもしれない」
二人は日が漏れ出る硝子張りの玄関の戸をゆっくりと開いた。
あぁーいちゃいちゃしたいんじゃぁあ