第一話 蕗谷夢物語研究所
薄暗い路地を頼り無い光で弱々しく照らす街灯を頼りに一人の男性が歩いている。よたよたと何処か現実味の無い不安定な歩調で進む彼には一つの看板が目に止まった。
「ここか……?」
──蕗谷夢物語研究所。男が見上げた看板には確かにそう書いてあり、またその文字が事実なのであればここが男の探していた場所に違いなかった。
男は手を伸ばして目の前の扉をノックしようとしたが、寸前で一旦動きを止めた。深呼吸をしてもう一度看板を見て考える。本当にここへ足を踏み入れるのか、新聞の隅に小さく掲載されていた『悪夢、承り致します』の見出しに興味を引かれ、ここまで足を運んだのはいいものの、このまま得体の知れない研究所の門戸を開いても後悔しないのであろうか。私の悩みは最近夢見が悪いだけである、それも数日もすれば直ぐに忘れるであろう。やはり入るのはよそう、来た道を戻って帰るべきだ。
扉の前の手を戻し、男が踵を返そうとした瞬間、扉のノブが音もなくするりと動いたのが見えた。そしてゆっくりと扉が開かれる。男は呆然としてそれを見ている。やがて開いた扉から──
「ようこそいらっしゃいましたぁ。我々はあなたを歓迎致します……」
白衣に身を包んだ女性が男を迎え入れた。
「あ、あぁ……いや、私は……」
男は突然の出来事に狼狽える、しかし女性はそれを気にも止めずに「ふふふ……ボクは全てを承知しておりますから……遠慮せずにどうぞ此方へ……」と男を先導する様に歩き出した。男は仕方なくその後ろを着いていった。
ぎしり、ぎしりと歩く度に軋む床を二人が歩いていく。汚れた硝子の電球が辛うじて床と壁を照らすが、これでは外薄暗い路地と大して変わらない。そのまま暫く歩くとやがて白衣の女性が一枚の扉の前で立ち止まり、コンコンと軽くノックをする。
「ん……お客様かな……どうぞお入りください」
中から聞こえた返事は落ち着いた男性のものであった。男はその声に招かれるまま中に足を踏み入れると部屋の中には草臥れた白衣を着た男が椅子に腰掛けていた。
木造建ての古ぼけた部屋は男の鼻腔に微かな黴の匂いを与え、男の顔をしかめさせる。
「はは……古くさい部屋で申し訳ない。俺──いや、私ももう少し良い部屋を借りたいのですけどねぇ。何分先立つ物がありませんでねぇ。ささ、どうぞベッドにでも掛けてください」
「でもセンセ、ボクはこの如何にもなふっるーいお部屋、愛の巣って感じで好きですけどねぇ……あ、上着はボクがお預かりしますぅ」
「あーはいはい。君の感想はとりあえず置いといて、さぁさぁ遠慮せずにどうぞ先ずは座って」
男は二人に半ば追いやられる感じでベッドに腰掛けた。
「あ、あの! 私は……っ!」
そんなつもりで、と言葉を口に出す前にセンセと呼ばれた男に手で遮られた。
「まぁまぁ落ち着いて、貴方のお気持ちもよぉーく分かります。怪しげな広告にボロ屋の研究所……私があなたでも躊躇してしまうでしょう。ですが……」
白衣の男は身振り手振りを交えながら続ける。
「我々はプロです、こと悪夢に関してはね。そして今ここで重要なのは貴方は悪夢に悩んでこの研究所を訪れた、これだけです。どうです、一つ試してみてはいかがです? あぁ、お代は貴方が満足なさってからで宜しい。勿論満足しなかったのなら払う必要はありません」
男は少し考える素振りを見せたが、折角ここまで来たのだから試すのもいいのかも知れない。そう考え直した。自身の悪夢は続いているのだ、それならば藁にも縋る思いで頼るのもいいだろう。
「あ、ではこれをお飲みくださーい。それとこの問診票に記入をお願いしますぅ……」
白衣の女から渡された白湯をくいっと飲み干した。渡された問診票は性別、年齢、家族構成から始まり、この研究所を訪れる切っ掛けである悪夢の事、その期間についてまで書く欄があり、男は出来る限り細かく書いていった。
漸く書き終わる頃には男を酷い眠気が襲っており、最早意識も保っていられない程であった。男は問診票を白衣の女に渡すとベッドへ倒れ込み、そのまま寝息を立て始めた。
「相変わらず凄い効き目の薬だねぇ。怖いくらいだよ」
「ふふ、センセも飲みますぅ?」
「いつも飲んでるんだけどね、こんなに凄い効き目の薬でも俺には何故か効かないんだな。それにしても獏君、君……凄い格好をしているね。何処に白衣なんて置いてあったの? それも女の物なんて……」
獏と呼ばれた白衣の女は衣装を見せ付ける様にくるりと身を翻して微笑んだ。
「うふ、センセ、これ……ボクに似合いますぅ?」
その無邪気な問いに男は渋い顔をした。
「……悔しいが似合ってる、似合っていると俺が思えてしまうのが問題なんだ。君は男なのだから、着るのならばむしろこっちではないのかね?」
男は自身の白衣を指し示す。
「あはぁ、センセに誉められちゃったぁ! うふふ、似合っているならいいじゃないですかぁ、ここにはボクとセンセしか居ないんですから……」
「いやいや、客が来るだろう。そこにも寝ているではないか」
「そりゃお客様は来ますけどぉ、お客様はあくまでお客様ですから。この研究所にはボクとセンセしか居ませんよ?」
「それにしたって……いや、いかんな。やはり眠れていないから頭が働かん。獏君、問診票を見せてくれないか?」
「はい、センセ……」
男は渡された問診票を見た。男、20代、家族は死別、悪夢の内容は──。
「……ふぅーむ、成る程ね。彼の悪夢はどうやら実母に関する物らしい。しかし彼も若い身空で苦労をしているのだな」
「ふふふふ……それを言うならセンセも一緒じゃないですか。ま、センセにはボクが居ますけどねぇ」
獏は言いながら男の肩にしなだれる。するとベッドで寝息を立てていた患者の呼吸が荒くなり始めた、どうも魘されているようだ。
「どうやら悪夢が始まったようだね。彼には悪夢でも、俺にとっては久方ぶりに訪れた魂の揺籃だ。では獏君、宜しく頼むよ」
「はぁい、待ってましたぁ……」
男が顔を向けると、獏はその顔を両手で優しく抑えた。愛おしそうに頬を撫で、向ける視線は胡乱な熱を孕んでいる。
「いつも俺は思うのだけどね、これは本当に必要な事なのかね?」
「ふふふ……センセとボクがこうなると言う事は必要な事なんですよ。では行きますね、センセ……」
獏は男に顔を近付けるとそのまま唇同士を重ね合わせた。
「センセ……好き……ボク、センセが好きなの……叶うのならいつまでもこのままでいたい……だからずっと、センセはセンセのままで居て……? ねぇ、お願い……」
男からの返答は無い。既に男の意識はその身体には存在せず、その精神だけが魂の揺籃へと導かれていた。そこに蔓延るのが悪夢であろうとも、そこは男にとって唯一の安息を得ることが出来る揺り篭なのである。
男の娘っていい、よね。