彼岸花
昔から、あの女のことが嫌いだった。
幼稚園児のころからやんちゃばかりしていつも先生を困らせていたし、すぐに他の子と喧嘩を始めては、それを止めようと割って入った私を必要以上に痛めつけてきた。小学校に入ってからは他人と殴り合いの喧嘩こそしなくなったものの、学年が上がるにつれて気に入らない人間を周りと結託して陥れる典型的ないじめっ子になっていった。
そして何の因果か、私は小学三年生までずっとあの女と同じクラスにいたのだ。どうやらあの女も私のことはお気に召さなかったようで、長きにわたってあの女のおもちゃにされ続けた。
今思えば、あの女にとってそれは単なる排斥のための行動ではなく、一種の娯楽であったのだろう。私たちが普段何とはなしにスマホを眺めたり、ちょっとした運動をしたり、庭できれいな花を育てたりするのと同じ感覚で、あの女は人にトイレの水をかけたり上履きにミミズを詰めたりするのだ。私たちで遊んでいるときのあの女の表情は、それはそれは楽しそうな笑顔だった。あの悪魔も泣いて帰るようなおぞましい笑い声は、今でも耳に焼きついて離れない。
だが当然楽しいのは奴らだけで、私は正直とてもつらかった。毎晩家族には心配されないように平気そうな顔を見せて、一人ベッドの上ですすり泣いた。勇気を出して説得することも試みたが聞く耳を持たないばかりか、反抗されたのが癪に障ったのかさらに事態を悪化させることになってしまった。
そんな理不尽極まりない詰みの状況になれば、いっそ諦めて「終わり」にしたいと思うのも仕方のない話だったろう。
__だがそこに、救世主が現れた。
天使のようにかわいい女の子だった。だがそれ以上に、とてもしたたかな女の子だった。
彼女は小三で初めて同じクラスになった上に当時碌に話したこともなかった私のために、あの女に物申しに行ってくれたのだ。当然聞き入れてはもらえなかったが、手が付けられないと即座に判断した彼女は、大事にしたくないと二の足を踏む私の代わりに担任の先生に報告した上で、あの女たちの保護者も呼んで話をすべきだと提案してくれたそうだ。なんて軽いフットワークだ、と思いはしたが、ともあれそのおかげで奴らからの嫌がらせはめっきりなくなり、その年はそれ以降何事もなく過ごすことができた。四年生からも担任が配慮してくれたのか、あの女と同じクラスになることはなく、無事に卒業を迎えることができたのだった。
天使のような少女とは例の一件以来とても親しくなり、休日にもよく一緒に出掛けるようになった。彼女はとても優しい子で、私が落ち込んでいるとすぐに察して声をかけてくれたり、授業でわからないところがあると至極丁寧に教えてくれたりしてくれた。なぜそんなに優しくしてくれるのかと問うと、
『いつもきみには優しくしてもらってるから、そのお礼…かな。それに、困ってる友達を助けるのなんて当たり前でしょ?』
などと言ってしまう天使っぷりである。
彼女は、私の生まれて初めての親友だった。だから彼女とはずっと友達でいたいと思っていたし、もし彼女の身に何かあったら今度は自分が命を賭してでも守ろうと思えた。
中学校に上がると、今度は彼女ともクラスが同じになることはなかった。非常に残念だったが、母校の小学校から繰り上がってきた生徒に加えて他校の生徒も多く入学してきたのだから、人数と確率的に当然と言えば当然だし、あの女とも同じクラスにはならなかったことや彼女とは休日にでもいくらでも会えることを考えれば及第点だった。
とはいえ受験の控えた三年生にもなるとさすがに彼女と会うことはほとんどなくなり、電話すらもあまりできないほどに忙しくなっていた。ましてや彼女は地元に知らない人はいないほどの名門校を目指して邁進しており、いくら話したくてもそれを邪魔してまで彼女を誘うのはさすがに気が咎めた。
卒業して受験が終わったらご飯にでも誘おうと心に決め、自分も受験勉強に励んで迎えた卒業式当日。
私は、彼女の訃報を知らされた。
前日に、自室で首をくくった彼女の遺体が発見されたそうだ。
意味が分からなかった。つい数か月前まで変わらず元気な笑顔を見せてくれていた彼女が突然亡くなったなど、殊私には信じられるはずもなかった。
幸か不幸か、葬式には招いていただけた。そこで見た彼女の顔はやはり人形のようにきれいだったが、かつてのような元気さは欠片も感じられなかった。そのことが、未だに理解を拒んでいた私に嫌というほど現実を突き付けていた。
遺影には、目障りなほど鮮やかな紅い彼岸花が添えられていた。
彼女は遺書を残してはいたのだが、そこには震えた筆跡で「もう無理です。本当にごめんなさい。」とだけ書かれており、原因の手掛かりにはなりそうもなかった。
後から聞いた話には、彼女は同じクラスの生徒から執拗ないじめを受けていたらしい。詳しい内容まではわからなかったが、中には恐喝や脅しの類もあったとか。
加害者は、あの女だった。
それを聞いた時、私の心は確かに怒りに染まっていた。だがそれ以上に、彼女の異変に気付き、助けてあげることのできなかった自分の無力さに絶望した。自分は散々助けてもらったくせに、肝心な時に手を差し伸べられない、そんな人間があの子の親友だと?そんな風に驕っていた自分には心底反吐が出る。
高校に上がり、大学生になっても、傷は少しも癒えはしなかった。毎日毎日彼女のことを考えては、あの女への言い表せようもない感情に心が黒く染まった。いっそ住所を特定して殺してやろうかとも思ったが、必死にその衝動を抑えつけた。そんなことをしたって、優しい彼女は喜ばないだろうから。
大学二年の八月、もう何度目になるかわからない彼女の墓参りに出向いた時だった。墓石に水を優しく丁寧にかけ、きれいな紅い花の入れられた花瓶の水を交換する。墓石に向かって微笑みかけてその場を後にしようと振り返ったその時、一人の女性がうつむいてこちらに歩いて来るのが見えた。構わずそのまま歩き出し、女性とすれ違った瞬間、気づく。
あの、女だ。
中学の卒業アルバムの写真よりずいぶんと痩せこけているが、紛れもなくあの女だ。あれだけ見てきた私があの女を間違えるはずがない。私の中で、あの言いようもない感情がぐつぐつと煮えたぎる。
ただただ許せなかった。私とあの子から大切なものをすべて奪っておきながら、自分は何事もなかったかのようにのうのうと日々を送っているであろうあの女が。私とあの子の聖域に、不躾に汚い足で踏み込む傲慢さが。どうしても、どうしても許せなくて、恨めしくて、ただ怒れて怒れて怒れて怒れて怒れて___
___気が付いた時には、すでに背に鋏を刺していた。
長年抑え続けていた衝動でも、一度決壊すればもう止まらない。
重ねてあの女の背中に三度鋏を突き立て、体をひっくり返して胸にも無数に突き立てた。そうして腕に力が入らなくなるほど刺し続けたのちあの女を見やると、その体は力なく地面に転がっていた。
「……は、はは………」
ふいに、どこからか弱弱しい笑い声が聞こえた。だが出所がわからない。私にはもう、何も見えない。
汚い血で全身ずぶぬれになった自分を誰かが笑っているのだろうか。あるいはあまりにあっけなさすぎて、拍子抜けした自分が笑っているのだろうか。
答えはそのどちらでもなく、私の足元にあった。
「…あっはははは……あははははは…あっははははははは!!」
あの女が、血を吐きながらおぞましい笑い声をあげているのだ。
死にゆくだけの体を大きく揺らして、今までで一番幸せそうに、笑っているのだ。
そうしてひとしきり笑った後、あの女は言ったのだ。
「___ころしてくれて、ありがとう」
女の胸元に染みた血はまるで、一輪の彼岸花のようだった。