交換日記(仮)
窓を開けると風がピュウ、と鳴いた。
「もう寒いな……」
一昨日感じた金木犀の香りは雨と共に消えてしまったのか。ある筈の四季を数えれど秋は既に見当たらず、いつの間に忍んだやら、そこに佇む冬の気配。
少し前まで半袖でいた筈なのに……とブツブツ独りごちながらも、早い冬の気配に炬燵を出すことに決めた。
マンションとは名ばかりの小さな集合住宅だ。荷物はそんなに多く持たない様にしているから、衣替えなんてものはしなくていい。ホームセンターで購入した安物のプラスチックケースから、厚手のカーディガンを引っ張り出す。
猫に餌を与えると、先ずは珈琲を淹れた。
些細なことではあるが場当たり的な行動はあまり好きではないので、できれば計画を立て効率的に動きたい。
内側に茶色く輪を描いたカップを水に浸し、雨で溜まっていた洗濯物をまとめて洗濯機に放り込んでスイッチを入れる。
炬燵の準備は炬燵布団を出して干すことから始めることにした。干している間に掃除機をかけ、炬燵を出した方が良い。
先程カーディガンを引っ張り出したプラスチックケースの隣から、炬燵布団をしまった不織布の布団入れを出そうとすると、上の棚から一冊の大学ノートが落ちてきた。
黄ばんだ古いノートの表紙に、辛うじて読める程度の薄さの文字が、マジックで適当に書かれている。
『交換日記(仮)』。
「……(仮)ってどういうこと?」
私は効率よりも好奇心を取り、それを開いてみることにした。
適当にページを開くと内容は4月1日。
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2009年4月1日
もうこの時期になると大分日射しがきついですね。
朝晩はまだまだ寒かったりするので、体調管理に気を付けてください。ウッカリしがちですが、水分補給はしっかりしないといけませんよ。
ではまた。
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11年前である。
書かれてあるのは、なんというか昭和感漂う妙な丸文字。
不貞を働いていたにしては、やけに適当過ぎる内容で色気の欠片もない。
そして右のページにはこう書かれている。
こちらはいつもの夫の文字の様だ。
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2009年4月1日(水)
会いたいです。
寂しいです。
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……やっぱり不貞なのだろうか。
それにしてはなんだか中途半端な……
だいたい『交換日記』って。
中学生か。
ページを捲ると次は翌年の4月1日だった。
再び読み辛い昭和ぶりっ子文字。
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2010年4月1日(木)
今日のご飯はなんにしようかなーと考えていますが、全く決まりません。
ではまた。
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……更に酷い内容だ。
それに対する夫の返事。
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2010年4月1日(木)
会いたいです。
寂しいです。
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まさかの去年と一緒とは。
明らかに手抜きだろ!
翌年の1日は震災後。左ページに『亡くなった人は気の毒だけど、ウチは皆無事で良かった』とだけ。
左ページなのに、今度は夫の文字。
11年前から3年間、夫は単身赴任をしていた。
震災後は仕事が忙しかったからか、2011年はミミズがのたくったような酷い文字で、短い文なのに訂正だらけ。おそらく寝落ちしつつ書いたのだろう。
内容は見ずにペラペラとページを捲ってみると、どのページを見ても日付は4月1日。
よくわからないまま、最初のページを見ることにした。
最初は右ページから始まる。左は当然表紙の裏だから。
そこには衝撃的な内容が書かれていた。
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結婚は地獄だと言う。
現に俺の両親は不仲であるというのに、経済的外聞的など様々な要因から離婚を許されず今に至る。
母は子供達が皆家を出てから熟年離婚を突き付ける気でいることを、俺は知っている。
結婚したてで幸せな今だが、そんな風になるのは怖い。
不平不満を極力胸の内に溜め、その年に、溜めた不満を嘘の幸に変え、エイプリルフールに紡いでいこうと思う。
2000.04.01
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(じゃあこれは……幸せな嘘の交換日記(仮)?!)
今までの幸せだと思っている生活は嘘だというのか。
震災後の私達の無事すら、安堵出来ないほどに。
「幸せな嘘の交換日記(仮)……──」
衝撃におもわずそう呟いて気付いた。
…………なんだそれ?
意味がわからん。
昭和丸文字は私を想定しているとでもいうのだろうか。
だが最初のが幸せな嘘なら、もう私達夫婦はとっくに破綻している。
「…………」
次のページを捲ってみた。
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2001年4月1日
結婚して1年が過ぎた。
最初のページで、自分は大変神経質になっていたんだなぁと感じている。マリッジブルーというやつだろうか。
いや、既に結婚していたので少し違うな。
エイプリルフールなんで、なにか嘘とか書きたい気もしないではないが、嫁は可愛いし飯は美味い。
しかも子供が出来た。不安だったが、単純にただただ嬉しい。
……正直、不満がない。
悪い嘘を残すのもなんだかなぁ、と思うので、エイプリルフールだけの限定日記に主旨を変えることにする。
黒歴史としか言えないこれを、なんでわざわざ残すことを選んだか。それは最初のページの気持ちもまた嘘ではないからだ。
今幸せな俺だが、家庭が円満であることがこんなにも幸せであることを、結婚して初めて知った。
この気持ちを残したいという浮かれた気持ちと、まだ1年目でしかないという不安が同時に存在する。
来年はコレを見てどう思うのか、知りたい。
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「…………面倒臭いひとだなぁ」
そういえば大分緩くなったけれど、夫はこういう人だった。
生真面目で慎重で悲観主義者。
そして繊細でロマンチスト。
適当であんまり深く考えない、杜撰な割に合理主義者の私とは歯車が噛むように仲良くなり、割とすぐ結婚した。
プロポーズは私からだ。
考えに考えたんだと端から見てもわかるほどの感じで「同棲したい」と切り出した彼に、「だったらもう結婚しちゃおう」と言ったのがプロポーズである。
付き合って一年の事、彼が家を出たがっていたことがそもそもの始まりだ。
その悩む期間は長かった。慎重で生真面目で悲観主義者の彼は色々考えてしまい……なかなか家を出る決断ができなかったのだろう。
なにかと理由をつけては決断できない彼を見てるうちに、なんだか可哀想になった私が「ウチに来れば安く済むよ」と持ちかけると、またそれなりに長く悩まれたので……今後また悩むより、まとめた方が効率的だと思ったのだ。
同棲を持ち掛けたのは私だが、きっと同棲生活が上手く行ってもそうでなくても、その先で彼は酷く悩むだろうから。多分彼には『試しにやってみる』みたいな考えは向いてないのだろう。
なら選択肢は狭い方がいい。
そんな私の意見に微妙な顔をしながらも思うところがあったようで、結婚は案外すんなり決まり、決めた直後に婚姻届を出しに行った。
その後、当時住んでいたところへの届け出や、彼の住所変更等々もふたりの戸籍と共にまとめて変えた。
「…………ん?」
結婚までの経緯を思い出したことで、私は今更な事に気付いた。
(そういえばこのノート……私があげた気がする)
最初のページの文を再び読んで、更に思い出した。
結婚式迄に痩せたい私は、色々なダイエット法にチャレンジしていた。そのひとつが記録をつけるという、『リーディング・ダイエット』。キッチリ記録をつけれず、3日と続かなかったのだが、あの人にはそういうのが向いてる気がして。
中綴じのノートの書いた1ページと、最終ページを破って綺麗にした後、彼に渡した。
『不満があったら書けばいいよー。 あ、そうだ。 なんか未来の希望を具体的に書くといい、とかも言うよね!』
……なんかそんなことを言ったような。
その結果がアレらしい。
大分ひねくれた解釈だと思う。
それから2年ほどは普通に将来の展望やらなにやらが書いてあった。だが3年目、つまり結婚5年目にあたる、2005年4月1日から突如交換日記(仮)が始まる。
ただし、相手は私ではないようだ。昭和風丸文字ではない。
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2005年4月1日
お前には辛く当たってすまなかった。
別にお前が嫌いだった訳ではない。ただ、愛せなかっただけだ。わかってくれとは言わないし、わかる必要も無い。
お前さえいなければと何度も思ったが、お前が努力していたことも知っている。俺も努力しようとしたが、社会的責務を果たすことしかできなかった。だが充分だろう?
それ以外に出来たことなど、俺にはないのだから。
なにもかも忘れ、幸せになりなさい。
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(…………なにこれ)
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2005年4月1日
今更謝られたところでどうにもならないし、許すつもりもありません。でも僕も大人になりました。
妻と子ができたから一人前だなんて言うつもりはなく、僕は半人前なまま、ふたりに支えられて生きています。
あなたの言う通り、僕にはわからないしわからなくていいことだけれど、ほんの少しだけ想像することができるようになりました。ふたりのおかげです。
妻はかつて「他人と暮らすことに不安はないのか」と尋ねる僕に、こう言ってくれました。「そんなに。家族だって他人じゃない。寄り添う気持ちがあれば。」と。
なにも知らない妻のその言葉に、僕がどれだけ救われたかわかりません。
とはいえその時はまだ漠然とであり、不安が拭えたわけではありませんでしたし、当然ながらあなたを恨む気持ちも無くなったわけではありません。それは今もまだ。
ただ恨みや憤りを持ち続けるのは案外困難で、上書きされていく日々の中で、ゆっくりと薄れていくのを感じています。
思えば僕もあなたも「寄り添う」という概念がなかったのかもしれない。互いの「努力」は気持ちの押し付けだったのでは、そんな風に思うのです。
いずれ僕がそちらに行く時、他人として、ただの男として、ゆっくり酒でも酌み交わせたら。
その時には本当にあなたのことを許せる気がします。
長年の感謝を込めて。
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「…………」
2005年を思い出す。──夫の父が亡くなった年だ。
おそらく左ページは義父。
だが戸籍謄本は婚姻届を出す際に私も見た筈だ。特に変わったところはなかったように思うし、義母が若い頃離婚をして……みたいな話も聞いたことがない。
しかし夫と義父はおそらく。
(……やめよう。 要らん詮索は)
そう思いながらも手は、自然と次のページを捲っていた。
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2006年4月1日
お仕事お疲れ様!
何も教えてくれないけれど、本当は知って
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『交換日記(仮)』の文面は、途中で不自然に途切れていた。
昭和丸文字。私か。
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2006年4月1日
我ながらくだらないことをやっていると思うが、去年の流れで嘘交換日記を書いてみている。
僕はあのことを妻に話すつもりはないが、どこかで『知っていてほしい』と思っていた筈だった。だからもし、彼女が知ったらなんというだろうかと想定して書き始めてみた。
だが、妻は知っていたとしても書かないように思う。僕もまた、妻にあのことを知っていて欲しいのかというと、どうやらもう既にそうでもなかったようだ。
僕の愛する家族は、かつての家族に対する愛情も増やしてくれていた。去年想定した彼が言った、彼の言いそうな言葉。『なにもかも忘れ、幸せになりなさい。』去年の僕は、あれをどれだけ複雑な気持ちで書いただろうか。まだ1年しか経っていないというのに、既にぼんやりとしか思い出せない。
その時の気持ちもそうだが、『なにもかも忘れること』なんてできやしない。だがやはり去年も書いたようにゆっくりと薄れ、思い出にしていくのだろう。
そのことを噛み締めるような気持ちで、この生活と妻と子に改めて感謝している。
来年からはただの記録に戻してもいいが、多分彼女ならこう言うだろう。「来年の気分で決めたら?」
今年は全く交換日記にならなかったので、来年はもう一度やってみるのもいいだろう。そんなことを考えて楽しい気分になったので、今年はここで終わりにする。
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私は夫の中で、大分いい加減なようだ。
でもなんかそれで救われたと言うなら、いい加減で良かったのだろうけど。
結局翌年はどうしたのかとページを捲ると、左ページには昭和丸文字で日付のみ。
右ページにはこう書かれていた。
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2007年4月1日
妻の気持ちになってみようとしたら、「妻はこういうのに大したことは書かないに違いない」という結論に至ってしまった。
なんなら変な落書きで空白を埋めるだろう。
そういえば大学時代のノートにも、変な落書きがたくさんしてあったのを思い出す。
息子は息子で、あいつは妻に似たのか、ノートに先生が授業中に話したどうでもいい話やら、正の字やらを書いていた。
「この正の字はなんだ?」と尋ねると授業中に先生が発した『それでだねぇ~』という口癖の数だと答えたのには、不覚にも笑ってしまった。
彼の絵心が僕に似て皆無なのが残念だ。
ホッコリしたので今年はこれで終わりにする。
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洗濯機の終了のお知らせ音に我に返る。
2009年は単身赴任で寂しくて、とりあえず書いたんだろうと思うと、私もなんかホッコリしたのでそこでノートを閉じた。
思えばあの頃は毎日のように電話をしていたので、こちらにいるよりも喋っていたくらいだ。だから結局書くことがなかったんだろう。
「……そうだ、炬燵こたつ」
ノートを棚に戻して私は炬燵布団を干した。
洗濯と掃除を終えるとようやく炬燵がセッティングできた。
炬燵でゆっくりしたいのを我慢して、買い物に出掛ける。
買い物をしながらノートのことを少し考えた。
一言「私はこんな丸文字では無い」とこっそり書いてみようか。
それともイメージ通り、変な落書きで余白を埋めてみようか。
読んだことがわかったら、きっと夫は怒るというより恥ずかしがるだろう。
2012年以降は寝かせておいて、思い出した時に読んでみるのもいい。ただ、そのまま忘れてしまう気もした。
実際私の頭はすぐに、今日の夕飯のことやあれこれに思考を切り替えていた。
冷凍食品のコーナーで、今川焼きを買うことに決めた。
夕食後、暫くしてから食べよう。
皆で炬燵に入り、テレビでも観ながら。