祖国と王家と民衆のために
照明の絞られた暗がりで、私は男を相手に身構える。
その貧相な男は、髭ぼうぼうの面構え。
男は黄色く淀んだ目に狂気の血走った色をたたえて、妖しく光る短剣を私に向けて突き出している。
その切っ先は微かに震え、男の荒い息遣いが私の耳元まで聞こえて来た。
「悪いが嬢ちゃん……俺のために死んでくれ、死んでくれよ!」
短剣の軌跡は光をひいた。
男から繰り出される蹴り、私は回転してかわす。
「なっ!? 死ねよ!」
そのまま踏み込んまれた短剣は私の喉へ、逸らすは私の胸。
同時に男の脚に絡む私の右足、転倒させる。
私は力を入れて踏ん張る。男だけが倒れた。
「うわっ!?」
凶器を持った腕を踏みつけては素早く蹴り上げる。男の腕から短剣が離れた。
男の短剣がクルクルと宙を舞う。
倒れた男の喉目掛けて振り込む私の脚。
男の顔が恐怖に引きつる。
「や、止めてくれーーー!」
乾いた音。
鉄でかかとを覆ったブーツが男の喉を砕いた。
男が痙攣するのを見て、私は素早く背後に飛び退く。
まばらな拍手。
私は臨戦態勢を解き、音のした方角へと振り向いた。
横合いから現れる、暗がりから染み出した、純白の衣装をまとう黒髪の眼鏡の男。
「どうだリリアーナ、実戦は。明日の無い死刑囚に希望を与えてみた。強かったろう?」
「特に」
私はどうとも思わない。
今日の敵の動き。素人に毛が生えたようなものだ。
しかし、敵の生にしがみつく執念のかけら程度は理解できたかもしれない。
「生へのあがき、必死さをも乗り越えるか。よくやった、リリアーナ」
壁を背に立っていた、この男は口の端を曲げて笑みの形を形作る。
私のお腹が鳴った。
「ははは、姫君は殺しよりも食事が所望らしい! これは傑作だ、ははは!」
今、人を殺したこと。私にはどうでも良い事だった。
それより食事だ。私は嫌味なこの男、オスカードに視線で食事を催促した。
◇
「今朝の餌だ、リリアーナ。貴様の勝利に私も喜んでいる。気が済むまで食うと良い」
オスカードは濃ゆめの粥を持って来た。この粥に、オスカードは白い粉末をふりかけて私に渡す。
味付けは、いつものことだ。私はオスカードから粥を受け取ると、スプーンを使って胃の腑へと掻き込む。
薄い塩味。ほんのり甘い。毎日の味に、慣れ親しんだ私はただ本能の命ずるままに、粥をたちまちのうちに平らげる。
オスカード・アラスター。
王国の公僕、王家の犬であり、今は私の世話係だ。
オスカードは犬だ。ならば、その犬に飼われる私は人間ではないらしい。
「祖国と王家と民衆に感謝しろ。今日の恵みをありがとうございます、とな」
私はいつも通りに口を開く。
「祖国と王家と民衆に百万の感謝を。我が力、祖国と王家と民衆の幸福のために捧げます」
私の宣誓を聞くと、オスカードはまたいつものように口の端を吊り上げる。
「良い返事だ、リリアーナ。私は貴様の忠誠が本物であることを期待しているよ」
オスカードは私の髪の毛を掴み上げ、頭を無理やり上げさせると大声で言い放つ。
「貴様の敵は誰だ!」
「共和国のドブネズミどもです!」
プチプチと髪の毛が抜ける。
痛い。私は力の限り、声も枯れよと叫んだ。
「貴様はなんだ!」
「私は祖国と王家と民衆に忠誠を誓う者です!」
オスカードの怒鳴り声は続く。
「貴様の生はなんのためにある!」
「私の一生は祖国と王家と民衆に奉仕するためにあります!」
耳と脳裏に声が響く。
何度も何度も繰り返される。
「貴様はなにをする!」
「私は祖国と王家と民衆に命を捧げます!」
──祖国と王家と民衆に忠誠を。
オスカードが手を放す。オスカードは目を爛々とさせて笑い出した。
私はオスカードから突き飛ばされ、床に投げ出される。
「……良いじゃないか、良いじゃないかぁ!」
私の頬に圧迫感。
オスカードは嗤う。
「リリアーナ・キャロレッタ、貴様の忠誠は国王陛下もさぞお喜びのことだろう!」
床に崩れ落ち、オスカードの靴に踏みつけられた私の耳に、いつまでも下種な嗤い声が残った。




