宇都宮君に懐かれてます。三話目
多くのピアノコンクールには課題曲というものがあって、その中から自分の年齢や実力に合った曲を選ぶ。
でも今回、母が宇都宮君が出るコンクールにと選んできたのは自由曲制のクラシックコンクールだった。
自分の得意な曲、好きな曲で参加することが出来るのだ。
きっと、宇都宮君に難易度の高い曲を弾かせて、指導者として名を上げたいのだろう。
私…自由曲制苦手なんだけどなあ。
自由曲制となると私と同年代の子が演奏する曲は上級と言われる難しい曲ばかりだ。
中級で手こずっているような私にはとても手が届かない。
私はピアノが好きだけど、上手くはない。
昔は一人でコンサートを行うソリストと呼ばれるようなピアニストになりたいと夢見ていたけれど、中学生にもなれば自分の実力がどの程度のものなのか十分わかっている。
でも、見栄っ張りな母が私のためにと選んできた曲は上級の曲だった。
そして予選当日。
私は、ものの見事に失敗した。
もう無茶苦茶だった。
自分でも途中どこ弾いてるんだかわからなくなった。
「梨花、超失敗してたな〜。」
ロビーで落ち込む私に追い打ちをかけるように宇都宮君が話しかけてきた。
今は放っといて欲しいのに……
「あれ?梨花泣いてる?」
泣きたくもなるわよ。前の席に座ってた小学生なんて笑ってたし……
しばらくすると母がロビーにやって来た。
「宇都宮君、もう出番だから舞台袖で待機しときましょう。」
宇都宮君はずっと私になにか言いたそうにしていたのだけれど、俺のピアノ聞け。とだけ言い残して舞台へと向かっていった。
今回宇都宮君が演奏する曲はリストの『ため息』だ。
ピアノの魔術師と呼ばれるリストが作曲した曲はどれも難易度が高い。
『ため息』はリストが作曲した中ではまだ簡単な方なのだが、それでもよほどの腕がない限り弾きこなせるような代物ではない。
もちろん私なんかじゃ一年かかったって無理だ。
この曲は弾く人によってかなりイメージが変わる。
母は自分が好きな海外のピアニストが弾いた演奏を宇都宮君に完コピさせた。
宇都宮君は1回で覚えられるといっても、高音は聞こえていないし、指の位置や運び方等の初歩的なことは全然わかっていないので、母はそこを何ヶ月にも渡り熱心に指導していた。
幼稚園くらいの時は私も母から同じくらいの熱量で教えられていた。
でも、段々と練習曲のレベルが上がっていくうちに進みが遅くなっていって……
きっと母は私より先に気付いていたと思う。私にピアノは無理だって。
私はもう中学生だ。
母にベッタリって年ではない。
けど……宇都宮君に夢中になっている母を見ると、少し寂しい気持ちになった。
イヤーマフを付けた状態でステージ上に現れ、お辞儀をしてからピアノの前に座る宇都宮君をぼんやりと眺めた。
「羨ましいよ…宇都宮君……」
きっと宇都宮君は予選も本線も通って全国大会にいくだろう。賞だってもらえるかもしれない。
そして母自慢の生徒になるんだ。
私が望んでも出来なかったこと……
悔しくって、また涙が出てきた。
宇都宮君が指や肩の骨をポキポキと鳴らし、息を整えてから弾き始めた曲はリストの『ため息』……ではなかった。
プログラムとは違う曲に会場がざわつき出す。
あれっ…この曲って……『糸』?
宇都宮君はクラシックのコンクールで、なぜか中学一年生の合唱コンクールでした曲を演奏しだしたのである。
前奏が終わり、宇都宮君が大きく息を吸い込む。
えっ…待ってウソでしょ?まさかっ……
私の不安は的中した。
宇都宮君は演奏に合わせて歌い出したのである。
もうなにから突っ込んでいいかわからない。
クラシックのコンクールで弾き語りをするだなんて前代未聞だ。
それに宇都宮君は歌が下手だ。
吠えているというか叫んでいるというか……
ピアノの演奏だけを聞いたら素晴らしいのだが、歌だけを聞いたらロックバンドがシャウトしてる風にしか聞こえない。
このしっとりと聞かせる歌を、そんな風に歌えるのは宇都宮君ぐらいだろう。
舞台の下で歌うのを止めるよう忠告するスタッフには目もくれず、宇都宮君は実に堂々と歌い上げてから観客席に向かってお辞儀をした。
パラパラと何人かが失笑しながら拍手をしてくれた。
そして宇都宮君が叫んだ。
「どうだ梨花───っ!笑顔になれたか?!」
なっ………
もしかしてこれは…私が泣いていたから宇都宮君なりに励まそうとしたのだろうか?
ホント宇都宮君て────……
スタッフに舞台袖へと強制連行されていく宇都宮君。
コントにしか見えない。
───────バカなんだから。
おかしくって声を出して笑ってしまった。
「よしっ梨花。スウィーツバイキングに行くぞ!」
スタッフから長々と厳重注意を受けたはずなのに、宇都宮君はケロッとした顔で現れた。
「無理だよ。お母さん倒れちゃったもん。」
「えっなんで?!」
「……宇都宮君が別の曲を演奏したから。」
「は?自由曲制なんだよな?」
いくらなんでも自由すぎるだろ……クラシックのコンサートなんだからクラシックしかダメでしょ。
まあそれをわかってたとしても
宇都宮君はきっと…
歌ってくれたんだろうな───────
「宇都宮君のバカさには笑っちゃうよ。」
「梨花が笑うなら俺はバカになるよ?」
「もう十分バカだからそれ以上はいいよ。」
「……俺ってバカなの?」
これ以来懲りたのか、母が宇都宮君にピアノをやらそうとすることはなくなった。
私達は中学三年生になった。
自分の進路というものを考えなければならない学年だ。
私の目の前で宇都宮君と担任の先生がバトルを繰り広げている。
「だ〜か〜らあっ。俺は梨花と同じ高校に行きたいの!」
「だからっおまえの学力じゃ無理だって言ってんだろ!」
「やってみなきゃわかんねえだろ!」
「やってみなくてもわかるから言ってんだろーがっ!」
これって…私の二者面談なんだよね?
なんで宇都宮君が乱入してきて先生とバトってんの?
「梨花と一緒じゃなきゃ無理〜。俺絶対引きこもる〜。」
さぞかしアクティブな引きこもりになりそうだな。
宇都宮君は小さい頃からの刷り込みで私にこだわってるだけで、もう一人でもやっていけると思うんだけど……
いつまでも私に頼らせてちゃダメだ。
「あのね、宇都宮君……」
「あれ、この音楽科ってなに?」
宇都宮君は私が受験する高校のパンフレットを見て不思議そうに尋ねてきた。
私が目指していたのはこの音楽科の方だ。
自分には無理だと早々と諦めてしまったのだけど、この高校の自由な雰囲気が気に入っていたので普通科の方を志望したのだ。
「音楽科ってのはピアノを弾ける坊っちゃん、嬢ちゃんが行くとこだ。」
体育教師である担任の先生が適当な説明をした。
「俺ピアノ弾けるっ!」
「そうなのか?じゃあ受けてみるか?」
なにを盛り上がってるんだこのアホ二人はっ。
ここの音楽科はこの地域では一番レベルが高くて偏差値も倍率も高い。
ピアノが弾けるだけでそう簡単に入れるような音楽科ではないのだ。
「宇都宮君っ!入試にはピアノだけじゃなくて【聴音】と【視唱】と【楽典】てのもあるんだよ?」
「えっ、なに?ちょうおん?ししょう?」
【聴音】…ピアノの音を聴いて楽譜に書き取る。
【視唱】…初めて見た楽譜を歌う。
【楽典】…音楽の基礎的な理論の筆記試験。
この3つとピアノの実技、それに5教科の学力試験もある。
楽譜も読めない宇都宮君には無理だと止めたのだけど、私と一緒の高校に行くんだっと言ってその日から猛勉強を始めた。
宇都宮君が一度やると決めた時の集中力はそりゃもう背中が燃えてるんじゃないかってくらい凄かった。
数学以外は散々な成績だったので私と同じ塾に通うことにした。
専門的なことについては私の母から教わることにした。
「おばちゃ〜ん。聴音、教えてくれ。」
「宇都宮君。今食事中だからあとにしてね?」
「おばちゃ〜ん。視唱、教えてくれ。」
「宇都宮君っトイレ行きたいからそこどいてっ。」
「おばちゃ〜ん。」
「宇都宮君……今、朝の5時よね?」
母は毎日のように宇都宮君に突撃され、最後らへんは軽いノイローゼになっていた。
「……つまり、彼が音楽科を選んだのは君と一緒の学校に行きたかったたから。だけ?」
私の話をずっと黙って聞いていた瀬良君が、堪らず声を上げた。
「……はい。そうなりますね…すいません。」
なぜ私が謝らなきゃいけないんだろう……
瀬良君はその綺麗な顔を歪めながらも、気持ちを落ち着かせようとコーヒーカップを手に取り、口に含んだ。
かなり怒ってるっぽい。
音楽の道を真剣に考えている瀬良君にとっては、宇都宮君の志望動機はふざけるなといった感じなのだろう。
にしても…この店落ち着かない────
放課後、瀬良君に教室まで迎えに来られてお抱え運転手が運転する車で連れて来られた場所は、高級ホテルのラウンジだった。
高校生が放課後お茶するような店じゃない。
瀬良君が、瀬良グループの御曹司で超金持ちだということを忘れていた。
このオレンジジュース一杯…いったいいくらするんだろう……
「あれだけ弾けてピアノ歴が一年にも満たないだなんて驚きだが、1回聞いただけで弾けるだなんて信じられないな。」
私も宇都宮君の行動には幾度となく驚かされてはきたけれど、この能力だけは何回目の当たりにしても未だに信じられない。
一体宇都宮君の頭の中はどうなっているのだろうか……
「もしかして…彼はサヴァンなの?」
「……サヴァンて、サヴァン症候群のことですか?」
サヴァン症候群とは特殊な計算能力や並外れた記憶力など、ある特定の領域でケタ外れの才能を持っている人のことをいう。
私もそう思ってネットで調べたことはある。
でもそれだと……
「あの…サヴァン症候群は発達障害の中で特別な能力を持っている人のことを指しますよね?」
「彼は違うの?」
私もハッキリと聞いたことはない。
宇都宮君のお母さんはちゃんと調べたのかもしれないけれど、幼い頃から人とは違う宇都宮君を、それも個性だと言ってたっぷりの愛情を持っておおらかに育てていた。
私にとっても宇都宮君は宇都宮君で、発達障害だとしてもなんら関係のないことだった。
「気を悪くしたのならゴメンね。日本は空気を読むことを求められる風潮があるから…他の国では許容レベルなのに日本では問題視されてすぐに発達障害などと呼ばれるのは僕も好きではないよ。」
─────瀬良君て……
ピアノだけではなく、いろいろなことに博識で自分の考えというものをしっかりと持っている。
美少年だし、学校での成績も特進科の子を抜いてトップだ。
ピアノの腕も将来を有望視されるほどの実力を持っているし、セレブなことを鼻にかける様子もない。
完璧な人間て、きっとこんな人のことを言うんだろうな。
瀬良君は私がジュースを飲み終わるのを待ってからウェイターを呼び、支払いを済ませようとした。
「自分の分は払いますっ。」
「いいよ。僕が誘ったんだし。」
慌てて財布を出そうとした私をクスっと笑って制止した。
さらに瀬良君は私がいいと言ったのに通り道だからと言って家まで車で送ってくれた。
本当は反対方向なのに、やり方が実にスマートだ。
これが初デートだったらどんな女の子でもイチコロだと思う……
「彼が天才の域に達っするサヴァンなのかどうか確かめてみたい。君も協力してくれる?」
なぜこんな人が宇都宮君に興味を抱いているのだろう……
そう疑問に思いつつも、ニッコリと微笑む天使のようなその笑顔に、出来ませんとは言えるはずもなかった。
次の日の朝、いつもの時間に玄関チャイムが鳴って外に出ると瀬良君が迎えにきていた。
宇都宮君ではなく瀬良君である。
目を擦ってみたけどやっぱり瀬良君が立っていた。
「あれ?おまえなんでいるんだ?」
宇都宮君もやってきて私と同じように驚いた。
瀬良君は呆然としている私の肩を引き寄せ、宇都宮君に向かってニッコリ微笑みながら言った。
「僕達、付き合うことにしたんだ。」
──────はい?
誰が誰と?
瀬良君と私が?有り得ない。
じゃあ瀬良君と宇都宮君?もっと有り得ない。
「そうなのか?びっくり〜。」
って。なんで宇都宮君あっさり受け入れちゃってんのっ?
全然驚いてないじゃんっ!もっと驚いてよ!!
瀬良君は私がパニクっているのを無視して肩に乗せた手をそのままに、停車していた車へと私をエスコートした。
もしかしてこの車で一緒に学校まで行くつもりなのだろうか。
「あのっ……」
「彼女のふりして。」
瀬良君が私にだけ聞こえるようにささやいた。
昨日瀬良君が別れ際に協力してねと言っていたのはもしかしてこのことなのだろうか?
こんなので宇都宮君がサヴァンかどうかなんてわかるの?
全然結びつかないっ。
瀬良君が先に乗り、私が続いて乗ると、宇都宮君まで乗ってきた。
てっ……なんで?
「電車苦手だったんだよ〜。助かる〜。」
きっと宇都宮君の頭の中では梨花の友達は俺も友達。
梨花を車で送るんなら俺も当然乗って良し!なんだろう。
宇都宮君は着いたら起こしてっと言って私の肩に頭をのせてスヤスヤと寝てしまった。
「なんで彼も乗るの?予想外なんだけど。」
瀬良君が呆れたようにつぶやいた。
「…それが宇都宮君なんで。」
「こんな予定ではなかったんだけどな……」
「……すいません。」
なぜ私が謝らなきゃいけないんだろう……
昼休みになり、いつものように宇都宮君が教室までやってきた。
「梨花──っ!彼氏も連れて来たぞーっ!」
ぶはっ……!!
私は飲んでたお茶を吹き出してしまった。
「う、宇都宮君っと…瀬良君……?」
瀬良君は無理矢理に引っ張られてきたようで、私と目が合うと困ったような笑顔を見せた。
瀬良君の登場に、クラスの女子達が色めき立つ。
「梨花ちゃん。今彼氏って……」
「ま、まさかーっ。宇都宮君の冗談、冗談っ!」
宇都宮君は私の横に瀬良君を座らせると、自分はトランプをしているグループに呼ばれて行ってしまった。
「ねぇ、彼の言動が斜め上すぎて戸惑うんだけど…彼の思考回路はどうなってるの?」
それは私が一番知りたいです。
「参ったな。彼は君のことを好きなんだと思ったんだけど……」
もしかして宇都宮君にヤキモチを焼かそうとしたのだろうか?そんなことを宇都宮君に期待しても無駄なのに……
「……私のことは単なるメトロノームにしか思ってないと思います。」
それ以上でもそれ以下でもない。
宇都宮君は私と初めて会ったあの日からずっと、なんにも変わっていないのだ。
「メトロノームねえ……」
瀬良君はため息混じりにそうつぶやくと、楽しそうにトランプで遊ぶ宇都宮君を見つめた。
「瀬良ーっ。おまえもトランプする?こいつらが一緒にしたいんだって。」
女の子達がきゃあきゃあ言いながらこっちを見ている。
宇都宮君が庶民的なアイドルだとすれば、瀬良君は近付くことさえ出来ないトップスターだろう。
音楽科一年、男子二人組は学校内でとても人気が高い。
「そうだね。僕も混ぜてもらおうかな。」
瀬良君に隣に座られた女の子はゆでダコ状態である。
瀬良君はその場にいた女の子達をぐるりと見渡すと、とんでもないことを言い出した。
「宇都宮君。君もこの中から彼女を選んでみたら?みんな素敵な子達ばかりだし。」
なっ……!!
「じゃあコイツにするかな。お菓子たくさんくれるし。」
ななな……っ?!
なにを簡単に決めちゃってんだっ。
言われた子もポカンと口を開けてしまっている。
「ダメだよ宇都宮君!!【いかのおすし】忘れたのっ?お菓子もらっても懐いちゃダメなんだよ?!」
自分でもなにを口走ってるんだかわからない。
でも宇都宮君はどこに納得したのかじゃあ止めると言った。
※いかのおすし
いか…「 知らない人についてイカない」
の……「他人の車にノらない」
お……「オおごえを出す」
す……「スぐ逃げる」
し……「何かあったらすぐシらせる」
良い子は覚えようねっ♡
「梨花君。ちょっといいかな?」
瀬良君はトランプをする集団から抜けて、私を校舎裏へと連れ出した。
「思ったんだけど、彼は男女が付き合うという意味がわかってないだけなんじゃないかな?」
「意味…ですか?」
確かに宇都宮君はそっち系のことが全然うといのだとは思うけど……
遠くから私を探している宇都宮君の声が聞こえた。
こっちだよと呼ぼうとしたら瀬良君に手で口をふさがれてしまった。
「だから少し、わからせてあげたらいいと思うんだ。」
えっ、ちょ……
瀬良君が、その長いまつ毛が当たるくらいに顔を寄せてきた。
「大丈夫…僕に任せて。」
なにをするつもりなんだろうか……
瀬良君は私の口をふさいでいた手をどけると、その手で私の頬を優しく撫でた。
すっごく…ドキドキするんだけど……
「あっいた梨花。瀬良も一緒か。なにしてんだ?」
宇都宮君がやってくると、瀬良君は見せつけるように私を引き寄せ、抱きしめた。
「なにって…僕達付き合ってるからね。」
思わせぶりにささやき、さらに強く私を抱きしめる。
こっ、これはやりすぎではないだろうか?
瀬良君の吐く息が首筋に当たっていてこしょばいっ。
「梨花ってちっこくて柔らかいだろ?すげえ抱き心地が良いんだよなあ。」
ガ────ンっ!!
なにショップ店員みたいにオススメしちゃってんの?!
そんな反応されたらこっちがショックだよっ!
瀬良君も拍子抜けしたのか、私を抱く力が緩んだ。
「これくらいじゃ、全然足りないみたいだね。」
瀬良君は私の耳元でそうささやくと、一旦私から離れ、今度は顔を近付けてきた。
えっ……この体制ってまさかっ……
うそでしょっ?
本当にはしないよね?寸止めだよね?
瀬良君はさらに顔を下に寄せて、私の胸に耳を押し当てた。
あれ…?
これって…もしかして…………
「良い音だね。落ち着くのがわかる気がするよ。」
いつものか───────いっ!!
なんなのっもう!
そろいもそろって紛らわしいっ!!
私のドキドキ返して欲しいっ!
鈍い音が鳴り響いた。
宇都宮君が近くに生えていた木を足で思いっきり蹴っ飛ばしたのだ。
「梨花から離れろっ。」
──────凄い怒っている。
私が瀬良君と付き合ってると言っても、目の前で抱きしめられていてもいつも通りの宇都宮君だったのに……
こんな表情の宇都宮君を見るのは久しぶりだ……
「僕の彼女なんだから、君に指図される筋合いはないな。」
「ヤダね。梨花から離れろ。返してもらう。」
指をポキポキと鳴らし、今にも瀬良君に飛びつきそうなくらい殺気立っている。
「ダメだよ宇都宮君!絶対手を出しちゃダメ!」
私じゃもう、手に負えないかもしれない……
「いいよ。ただし、僕に勝てたらね。」
「はあっ?」
余裕の表情で涼しげに微笑む瀬良君に、宇都宮君が苛立ちながら声を上げた。
「今度学校で開かれる音楽科の定期演奏会で競おう。一位を取った方が勝ちでトロフィーは彼女だ。」
トロフィー?えっ…私が賞品てこと?
「選曲は同じものにしよう。そうした方がどちらが上かわかりやすいだろ?」
やっと自分が思っていた通りの反応をしてくれた宇都宮君に、瀬良君はどんどん話を進めた。
「ベートーヴェンの『月光』にしようか。第3章は君には難しいかもしれないから、無理そうなら第2章まででもいいよ。」
月光の第3章は、他の章と違ってケタ違いに難易度が高い。
瀬良君はまだ初心者の宇都宮君に気を遣ったのかもしれないが、この言葉に宇都宮君はキレた。
「俺はてめえが難しいって思うレベルでも弾けるぜ?」
「ちょっと宇都宮君!」
「へえ…言うねえ。」
穏やかだった瀬良君の瞳の奥が鋭く光って見えた。
あれは…瀬良君が本気で怒っている時の目だ。
「気が変わった。リストの『ラ・カンパネラ』にしよう。」
───────なっ……!!
「おう。いいぜ。そのカンなんとかで。」
なに二つ返事でOKしてんの?!
題名すら言えてないしっ!!
瀬良君はじゃあっと言って去っていった。
「バカっ!どんな曲か全然わかってないでしょ?!」
私の剣幕に宇都宮君がビクッとなった。
私はなにもわかってない宇都宮君に、スマホで検索してピアニストが演奏するカンパネラの曲を聞かせてあげた。
「マジか……」
宇都宮君はスマホを持ったまま青くなり、固まってしまった。
私は宇都宮君を置いて瀬良君の後を追った。
「瀬良君っ!」
瀬良君は練習室に入ろうとしているところだった。
ドアを開けようとした手を止め、こちらを振り向くことなく答えた。
「なに?すぐにでも練習を始めたいから時間が惜しいんだけど。」
「曲を変えて下さいっ。あの曲は宇都宮君には不利です!」
「変更はしない。僕を挑発した彼が悪い。」
リストのカンパネラは数あるピアノ曲の中でも超絶技巧曲に数えられる内のひとつである。
技巧の難しさ、テンポの速さもさることながら、鐘の音を現す高音が随所に鳴り響いているのである。
イヤーマフを使用していて高音が聞こえていない宇都宮君には明らかに不利だ。
「なんで…宇都宮君にこんなことをするんですか?」
みんなの前で恥をかかせようとしているようにしか思えない。
瀬良君は一瞬私の方をチラリと見たが、すぐに逸らした。
「……僕は…共に切磋琢磨するライバルが欲しい。彼がサヴァンなのだとしたら…これ以上の相手はいない。」
瀬良君はコンクールで数々の賞を受賞している。
同世代で、彼の実力は群を抜いていた。
「これくらいで潰れるようでは、彼はその器ではなかったということだ。」
瀬良君の横顔がとても寂しそうに見えるのは
天才がゆえの
孤独……
なのかもしれない───────
「君は…彼の今後の成長のために、自分がまだ必要な人間だと思う?」
えっ……
瀬良君は、私のことをまっすぐに見つめながら言った。
「君がいたら彼は甘えるばかりで、むしろ弊害になってるとは思わないかい?」
いつかは自分から離れていくのだろうなとは思っていた。
そうしなければいけないって思っていた。
でも……
心のどこかでは宇都宮君はいつまでも私のそばにいてくれるんじゃないかって思ってた。
いて欲しいって思ってた……
だって私は──────
「ごめん…きついことを言ってしまった。」
瀬良君は流れる私の涙をハンカチでそっと拭った。
だって私は宇都宮君のことが
好きだから──────
自分が……
宇都宮君の足かせになっているだなんて
考えもしなかった…………