老後の花
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ああっと、細かいのがないな……しゃあない、ちょっと大きめのお札を崩すか。
君は財布の中に小銭をたくさん入れておく派かい? 僕の友達なんかは常に財布と小銭入れを持ち歩いていてね。財布にはお札しか入っていないんだ。なんでも、車でよく高速道路に乗るから、料金所の支払いがスムーズにできるように、だとか何とか。
僕は小銭をあまり持ちたくないね。できるなら大きいお札もあまり持ちたくない。クレジットカードで全部済ませられればいいんだが、あまり細かい買い物だとね……。
――ん? どうして現金を持ちたがらないか?
いや、現金ってさ、何人もの手を渡って自分のところへたどり着いたものだろう。どんな奴が触ったか分からないものを、生活に必要だから、みんなが肌身離さず持ち歩いている。これ、なかなか異様な光景だと個人的には思っているんだが……変かね、この感覚?
僕がどうして「接触」に関して過敏になったかというと、ちょっと昔に体験したことが関わっているんだ。その時の話、聞いてみないかい?
僕が小学校時代、習い事をしていた時のことだ。電車で二駅ほどいった隣町に通う教室があって、僕は毎回、自分で電車に乗ってその場所へ向かっていた。
その駅では改札を入ってすぐ右手のところに、構内のポスターに混じって、美術品を展示する棚が設けられている。僕が駅を使っていた頃には、生け花教室の作品が飾られていたっけ。「触らないでご覧ください」って札が、すぐそばに立てられていてさ。
その生け花教室については、僕が通っている場所のすぐ近くにあって、名前くらいは知っている。ほぼひと月ごとに取り替えられるそれを、僕はなんとなく視界の端にとどめていたのさ。
ある日、僕は習い事の帰りに、その生け花を取り替えている瞬間に、偶然、立ち会うことができた。
取り替えているのは、うちの近所に住んでいるおばあさんだ。髪はすっかり白くなって、体中には老木を思わせる無数のしわと、黄土色のシミがところどころに浮かんでいる。
その手で、携えた花瓶を棚へ乗せていく。棚は三方をガラスで囲まれていて、人通りに面した一方からのみ、近づくことができるようになっている。
おばあさんはそのまま、駅のホームへ降りていった。もしかしたら生け花教室の帰りに、花を設置していったのかもしれない。
僕もちょうど帰りの時間だったこともあり、足を止めて置かれた花をしげしげと眺める。
テッポウユリを思わせる、筒状の花。けれどもその花は南国に咲くような、艶やかな紅色をしていたんだ。どぎつく、目に毒なその色彩の中に、おばあさんの身体のシミとよく似た黄土色の斑点が、あちこちにくっついている。
――こんなにけばけばしい花が、生けられるものなのかなあ?
僕は首を傾げるも、専門知識があるわけじゃない。そういう授業があったのかもしれないと、この時は思うことにしたんだ。
ところが、僕はそれからもおばあさんを、何度も見かけるようになる。
僕の電車を使う習い事は、週に二回。その毎回の帰りで、寄り道をせずにまっすぐ帰ると、このおばあさんとぶつかるんだ。そのたび、花を生け直している。
さすがに周期が早すぎる。しかも作業をしているのは、毎回、そのおばあさんなんだ。これまで僕が見てきた時には、他の女の人が花を替えている姿を見たことがあったのに。
おばあさんとは、まったく知らない間柄でもない。僕は思いきって、声を掛けてみたんだ。
「こんばんは。あの、結構たくさん花を生けられているんですね」
おばあさんは、ひょいと僕を振り返る。今回の花も、袋状の花だけど全身が緑色で、浮かび上がっている斑点は黄色。あの時に見た花を、後から意図的に塗りつぶしたかのような奇妙な色をしていた。
「……そうなのよ。通っている先生の意向でね」
わずかに沈黙を挟むその態度。僕は若干、怪しいとみた。どこまで踏み込んで聞いたらいいものか。
「その花、この辺りじゃあまり見かけないものですよね。どこで育っている花なんですか」
「いやあ、それも先生から指示があるだけで、通っている私たちには分からないのよ。本当、日本らしくない花たちよねえ」
僕の考察以上のことを、おばあさんは話してくれない。ちょっとでも間が空くと、また花の方へ向き直ってお世話を始めてしまう。明らかに、この会話を打ち切りたがっていた。
僕は別れの挨拶をして、ひとまず、その場を後にしたよ。
次の日から、僕はあのおばあさんの素性を探り始める。とはいっても、小学生だった当時の僕にとって、できることはさほど多くはない。まずは家族や近所の人、友達からおばあさんの情報についての、聞き込みだ。
おばあさんは僕が生まれる少し前に、夫を亡くしており、独り身だという。それから数年間は、滅多に家の外へ出なかったものの、ここ最近は昼間に外を歩いている姿をよく見かけるとのことだった。
おばあさんの言動を信じるなら、生け花教室に通っているはず。けれどもそこの先生が、僕のような門外漢でも違和感を覚えるような、花の生け方をするのだろうか。
しかも先生の作品だというのに、おばあさんは無遠慮にべたべた触っていた。あたかも、自分が作った物だとでも言わんばかりに。
――教室の先生の名前を借りて、自分の作品をあそこに展示している、とかかな?
あいにく、僕にはあの生け花教室とのコネがない。実際に電話をしてみるのがいいのだろうけど、この頃の僕は電話をかけるのにも、受けるのにも苦手意識があった。顔をつきあわせた会話とは、違う雰囲気に呑まれて、しどろもどろになってしまうんだ。
そうやって間接的な手法がとれないと、思い切った行動に出てしまうもの。僕はおばあさんの家に忍び込もうと考えたんだ。あの時の様子から、正攻法で向かっても断られるだけなのが、目に見えていたからね。
結果からして、僕の潜入工作はこじんまりとしたものになった。
かつて夫と二人で住んでいる家は、庭こそそれなりに広かったものの、肝心の家はどこもかしこもしっかりと施錠してあって、入り込むことはできなかった。
ただ、家の裏手に回った時、庭に面した窓があって、どうにか中をのぞこうとしたんだよね。
その窓、八割くらいが黄色いものに覆われて、中身を隠しているかのようだった。最初はカーテンが引いてあるのかと思ったんだけど、違う。窓の上部にある黄色は、重力に引かれてゆっくり、下へ下へと流れ落ちている。
液体だ。それもだいぶ粘性に富んだもの。その垂れ落ちたすき間から、向こうが見えやしないかと背伸びをしてみたんだけど、それが間違いだった。
くっつく寸前まで顔を近づけたとたん、鼻がひん曲がりそうな臭いがしたんだ。
ぱっと思い浮かんだのが、松ヤニ。ただで強烈なそれが倍になったかと思うくらいで、鼻腔の中が、もう他の臭いを嗅ぎ取るのを拒否し始めるくらい。
たまらず、僕は撤退を開始。ちょうど、家の表へ回るくらいで、先ほどのぞき込んでいた窓が。庭から出た直後に玄関が開くような音が聞こえたけど、振り返らない。脱兎のごとく逃げたよ。
家に帰ってからは、いやに咳がたくさん出た。のどがいがらっぽくなって、痰が絡む感触。あの窓をのぞくまで、身体の不調はまったく見られなかったというのに。
ティッシュに何度か吐き出したけど、それで僕はまた戦慄することに。
僕の喉に絡んでいたのは痰じゃなく、あそこで嗅いだものと同じ臭いを放つ、液体だったんだ。咳をするたび、それが喉の奥、肺の奥からこみ上げてくる。
マスク? 駄目だよ。あの臭いがマスクの内側にこもったら、間違いなく吐き気がしてくる。僕はそれから数日間、ティッシュが手放せない日々を過ごすことになったよ。
半年後。あのおばあさんの姿は、ぱたりと見なくなってしまった。
駅の構内に花を設置する人も変わり、周期も今までと同じ、月に一回ほどになる。けれども、その駅のあちらこちらに吐き捨てられている、痰やガム。それらのそばを通らざるを得ない時、かすかにあの臭いが立ち上っているのを、僕の鼻は嗅ぎ取っていたよ。
あのおばあさんは、どうやら亡くなられたらしい。近所の人が集まって、葬儀を執り行ってくれたのを覚えている。
けれども、おばあさんが住んでいたはずの家。あそこ、一時期は解体する予定と聞いていたのだけど、いつまで経っても作業が行われる様子はなく、僕が地元を離れるまで家はそのまま残っていたんだ。
生け花教室も、僕が習い事を辞める一年ほど前に閉まっちゃったよ。ただ、一軒家のその教室の前を通る時、おばあさんの家で嗅いだのと同じ臭いがし、目にしたのと同じ黄色いヤニが表の窓にくっついていたんだよ。
おばあさん。自分の手で、いったい何をしていたんだろうね。