00 誕生
かつて激闘があった。
たった二人だけの激闘だった。
本当はもっとたくさんの、それこそ数万人規模の軍勢が双方にいたが、皆すべて二人の戦いに巻き込まれ、余波を受けただけで塵も残さず消えた。
二人のうちの一方は、戦乙女だった。
別名バルキリーとも呼ばれる天の使いの乙女。
彼女はその中でも一頭群を抜く実力者。彼女の振るう剣はいかなる邪悪をも必ず斬り裂くと言われていた。
二人の中の一方は、オークだった。
ブタの顔をした、醜く汚らわしい生き物。
その肌は怒りに赤熱していて、焼け付く表皮がバルキリーの破邪の剣を悉く弾き返した。
バルキリーの振るう剣が天を裂いた。
オークの振り下ろすメイスが地面を粉々に砕いた。
二人は二人だけで戦っていたのに、その巻き添えで天界軍とオーク軍の双方が数万人とゴミのように消え去り、過去最高の損害を蒙らせた。
やがていくつもの山が平らになり、いくつもの湖が蒸発し、いくつもの島が海に沈んだ。
その果てに、やっとオークのメイスが、バルキリーの振るう剣の、刀身を打った。
パキン、とあっけない音を立てて破邪の剣は折れた。
しかしそれと同時に、バルキリーは折れた剣をなおも突き出し、オークの下腹へと刺し込んだ。
オーク特有の膨らんだ腹肉を裂いて、折れてなおの刀身がオークの体内へと深々突き刺さる。
折れる前の切っ先ある剣でも貫通できなかったのが、何故今になって刺さったか。
その疑問を考えるよりも先に、今度はオークの方が動いた。
用済みのメイスを投げ捨て、バルキリーの体を両腕で抱え捕える。
剣を突き刺したまではいいが、それによって動きが止まり、逃げるタイミングを失った。
筋力だけは同形生物の中でも最高を誇るオークである。
このまま両腕で締め上げ、骨を砕き肉を潰し、内臓をブドウ果肉のように飛び出させてやろうというつもりか。
ギリギリと締め上げられながらバルキリーは、それでも突き立てた折剣を離さず、しかもそれに加えて、まるで釘を抜くかとするように剣の柄をグリグリと揺らし、捩じった。
当然、刺されたオークはたまったものではない。気絶しても仕方ないほどの激痛が襲ったがそれでも抱きしめる腕を離さない。
今にも骨が砕けんばかりの圧迫にバルキリーは悶え苦しみながら、それでも悲鳴なんぞ上げてたまるかとばかりに、オークの肩口に噛みついた。
聖剣をも通さなかった怪物の外皮に、乙女の切歯犬歯は食い込んだ。
痛みに耐える分だけ顎に限界以上の力が入り、ついには肩肉の一部を噛み千切る。
さすがのオークもこれには痛みの声を上げた。
耐えかねて前のめりに倒れ込む、それは自分の腕の中にいるじゃじゃ馬を、己が体重で押し潰してしまおうという目論見もあった。
地面とオークの巨体に挟まれ、圧迫の衝撃でバルキリーは思わず口の中にあったオークの肉を飲み込む。
ゴクンと嚥下の音が喉からなる。
無理やり地面に押し倒されたせいで、バルキリー自慢の翼も無残にへし折れる。
それでも戦いの意志は消えない。
もっと肉を噛み千切ってやろうと大口を開けたが、そこに真上からオークの牙が襲ってきた。
自分ができることは相手だってできるのだ。
噛み千切られた分、こっちも噛みつき返してやろうと、オークの牙が戦乙女の柔らかい肉を襲う。
それを防ぐためにはオークもバルキリーも両手両足が塞がっていた。
結局相手の口を塞ぐには、自分の口を使うしかなかった。
オークとバルキリーは互いに互いの口を重ね、噛み千切られる恐怖から逃れた。
しかし、それでも隙あらば相手の唇を、舌を噛み切ってやろうと、口内で激しい争いが繰り広げられた。
両腕だって、抱きしめるのを止めてはいない。
いつの間にかバルキリーの方からも両腕が伸び、オークの背中に絡み付いた。
互いに互いを逃がすまいとした。
ここが決着の場だと互いに定め合っていた。
相手を逃さぬために、相手を抱きしめる。
手、足、口、あらゆる部分を使って相手と繋がり合う。
肩を噛み千切られた痛みも、翼をへし折られた痛みも、いつの間にか感じなくなっていた。
腹に刺さった剣すらどうでもよくなっていた。
いや、どうでもよくなかった。
邪魔だった。
互いの肌がもっと触れ合うために、剣だけではない。互いの体を隔てるものは薄衣一枚であろうとも邪魔だった。
二人は一度だけ体を離し、戦乙女は自分が刺した剣をみずからの手で引き抜いて、どこぞへと投げ捨てた。
そのあとは双方、表面にまとわりついているものを煩わしいとばかりに脱ぎ捨てる。
最初は礼儀正しく結び目を解こうとしたが、すぐもどかしくなって衣を引き裂き、帯を引き千切った。
鎧も服も脱ぎ捨て、隔てる邪魔者をすべて排除して二人はもう一度抱き合った。
敵を殺して勝利することを目的として組みあっていたのに、今では組み合うことそのものが目的になっている。
その奇妙さにすら気付かず、互いに互いを密着させ合う。どれだけ重ねても満足できず、さらに多くの部分を重ね合う。
手も足も口も、胸も腹も、余ったものも足りないものもすべて重ね合って。
やがて凄絶な情動が二人を襲い、飲み込んだ。
それは怒りのようでもあり、喜びのようでもあった。
憎しみのようでもあり、愛のようでもあった。
オークもバルキリーも、最初から目的は互いを打ち倒すことだったのに。いつの間にか少しだけズレていた。
そのズレに当人たちは気づかず、桁外れの覇気で、殺し合うつもりで愛し合った。
そしてその時には既に、密かに『彼』は始まっていた。