九
ふと意識が浮上し、明里はゆっくりと目を開いた。
見上げているのは見慣れない天井で、首を巡らすと頭の近くで獅子丸が丸くなり、獅子丸を枕にして管狐が一緒に寝ていた。獅子丸の柔らかそうなお腹が呼吸にあわせて上下し、管狐は寝ぼけているのか鼻をひくつかせている。
「気がついた?」
声のする方へ向けば遥が眉根を寄せてソファの背越しにこちらを覗き込んでいた。
「気分はどう?気持ち悪いとか無い?」
「えっと……」
状況が飲み込めず応えあぐねていると遥が苦笑を浮かべた。
「明里ちゃん、六条の君を見て倒れたんだよ。上手に段ボールの山に倒れたのが不幸中の幸いだったな」
倒れたと言われてもどこも体の不調が無いのでいまいち実感が沸かない。
「六条の君って、さっきの幽霊みたいな人ですか……?」
怖々と聞く明里に遥は苦笑を浮かべた。
「大丈夫、幽霊じゃない。六条の君は幽霊画の付喪神だ」
それは世間では黒に近いグレーというのではなかろうか。
出かかった言葉を明里はぐっと飲み込む。
あからさまに異形の形をしていると接している時の感覚は動物に近い。獅子丸や管狐はその部類である。
どちらかというと形は人間に近いのに様子がおかしい人の方がぞっとするものだ。
「毎年夏は幽霊や妖怪、怪談に関連した展覧会をしていてな。六条の君には毎年お世話になっている。体調が大丈夫そうなら現物見に行くか?」
少し悩んだが結局好奇心には勝てず現物を見に行くことにした。
明里の体調を心配した遥が付いて来てくれると言うので正直ほっとした。足下には獅子丸と管狐が付いて来る。相変わらず獅子丸が管狐を追い回すので遥が管狐を肩に乗せて移動する。
「昔安恵寺の近くに美しい女が居たそうだ」
廊下を歩きながら遥が語り始めた。何の事だか分からず明里はきょとんとした表情を浮かべながら話しを聞く。
「愛し合った男が金欲しさに別の女と結婚し、邪魔になった女を男は殺してしまった。しかし、婿入り先で人の死や事業の失敗など不幸が立て続けに起こり、女の祟りだと思った男は近所の有名な画家に依頼して女の供養の為の絵を描かせた。それが六条の君の来歴だ」
烈しい執念の末に生み出された作品。
人の世界は必ずしも美しい感情だけで成り立つ訳では無い。喜怒哀楽様々な感情が人を突き動かし、物を生み出して行く。どんな感情も欠く事の出来ない、人が人として生きる為に大切なものである。
「六条の君って、もしかして源氏物語の六条御息所が名前の由来ですか」
「ああ。女の執念の代名詞だからな」
特に日本の美術作品の多くは余程有名な物でない限り題名は文字で作品そのものが連想出来る様な味気のないものが多いので付喪神の名は作品名ではなく作品に因んだものが多い。獅子丸や管狐などは安易な部類である。博雅と鈴子は仕えていたお嬢様の両親の名前らしい。
名は体を現すとはよく言ったものだが、彼女程名前が個人を現す人はそうそういないだろうと明里は思った。
東院美術館の展示室は複数の部屋に分かれており、吹き抜けの階段で各展示室が繋がっている。
六条の君が展示されているのは第二展示室だそうだ。
遥の後ろに付いて自動ドアを潜ると明里は小さく悲鳴を上げて遥の服の背を思わず握りしめる。
展示室の中はそれこそ展覧会名の『百鬼夜行』と呼ぶに相応しいものとなっていた。
熊くらい大きな体躯の鬼に土蜘蛛。がしゃどくろと思われる骨格標本。頭に五徳を乗せて藁人形と金槌を持った鬼女が展示室の中を徘徊している。
券売窓口での絵巻物のミニチュア付喪神達や第一展示室の獅子丸と管狐の追いかけっこなど序章も良い所だった。
自分達の世話をしてくれる人だからか、彼等は遥には一目置いているらしく不用意に絡んで来ない。明里は恥も外聞も投げ捨てて遥の背中に貼り付いて展示室の中を進む。
「これが六条の君の御本霊で安恵寺所蔵の『幽女図』だ」
掛け軸の中には先程会った六条の君によく似た姿の女が一人立っている。
薄らと笑みを浮かべ、こちらを見つめる虚ろな表情。足下は霧の様に霞んでおり、掛け軸の中に描かれている女性が人ならざる者だと言う事を現している。
あまりの不気味さに背筋が粟立つが、しかし、それと同時にどこか妖艶さを感じるのだから不思議だ。
恐ろしいものの中にも美しさを見出すのだから芸術とは実に偉大である。
「せぇいっ!!」
「!!?」
幽女図に見とれていると、突然野太い声が響いて遥の服の裾を握っていた手を叩き落とされる。
手刀の犯人は六条の君だ。
乱れた髪の間からじろりと明里を睨みつけられ、明里は情けなくもびくりと小さく飛び跳ねた。
気分はまさしく蛇に睨まれた蛙である。
「かわいこぶってんじゃないわよ小娘がああああああ!!!!!」
「ひいいいい!!?」
六条の君が中指を立てて明里の顔を覗き込もうとするが、あまりの迫力に明里は六条の君から隠れようとする。
結果、二人と足下にいた獅子丸が遥を中心にして高速でぐるぐる回ることになるが、普通の人が見れば明里が一人で悲鳴を上げながら遥の周りを回っている様にしか見えない。
遥は完璧な笑顔を浮かべ、遠巻きに様子を伺っている人達に「気になさらないで下さい」と言っている。異様な光景なのに遥にそう言われると大丈夫な気になる様で、来館者達は遥に笑顔で会釈をして展示室を出て行く。
きっと彼等の心の中では「ふふふ、若いカップルがじゃれあっているのね」と前向きに解釈してくれているのだろう。
しかし三分もぐるぐると同じ所を回っていれば目も回る。
付喪神にも三半規管は存在するらしく、明里と六条の君はふらふらになって展示室の床に座り込んだ。獅子丸だけは「あそぶのおわり?おわりなの?」と元気に明里に飛びついている。
二人がへたりこんだ頃には閉館時間も迫っていて展示室には三人と二匹しか残っていなかった。
「あんた……遥のなんなのよ……!!」
床に這いつくばりながら六条の君が血を吐き出すかの様に言葉を吐き出す。明里は込み上げて来る吐き気を必死に飲み下しながら言われた言葉の意味と答えを考える。
「知り合い、ですかね……」
明里が必死に絞り出した当たり障りの無さそうな答えに遥は乾いた笑いを浮かべた。
「……知り合い、ですって……!?」
「ひえっ!?」
六条の君が渾身の力で床を殴り、明里はまた飛び上がった。
一体何が彼女の逆鱗に触れたと言うのか。六条の君から距離を取ろうにもまだ視界がぐるぐる回っていてよろけるだけだ。
女の細腕とは思えない力で胸倉を掴まれ、一気に六条の君の方へ引き寄せられ、恐ろしくも秀麗な顔が眼前に迫る。
「調子に乗ってんじゃねぇよ小娘が!!」
六条の君のあまりの迫力に、普段は空気の読めない獅子丸でさえもぽかんと六条の君を見上げていた。
まさか自分の人生の中で女性に烈しく罵られる日が来ると思ってもいなかった明里も獅子丸と似た様な表情で六条の君を見上げている。
何が何だか良く分からないが返事を催促する様に軽く揺さぶられ、思わず反射で「はい」と消え入るような声で頷けば、六条の君は、ふん、と鼻を鳴らして明里の胸倉を掴んでいた手を放し、ふらつきながら展示室の外へ出て行った。
広報資料を見せてもらう予定だったが閉館時間も迫っているし、今の状況では落ち着いて見ることが出来そうにないので、また後日に資料をみせてもらう約束をしてその日は大人しく家に帰ることにした。
その日の夜、明里は六条の君に胸倉を掴まれて延々と揺さぶられる夢を見て魘された。
翌日、目が覚めても一時間は頭が揺れている様な気がしていた。
グループ展に出品する為の作品を制作する為に学校にやって来たのだが一向に良いアイディアが出そうに無い。かれこれ一時間スケッチブックに向き合っているが、画面は真っ白なままだ。
「…………」
夢見が悪かった所為で睡眠不足となり、作業中どうしても眉間に皺が寄ってしまう。お陰で肩が凝って仕方が無い。
時計を見ると時間は昼時に差し掛かっており、一度気分をリセットする為にも明里は昼食を取りに行くことにした。




