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東院宝物手箱  作者: 馨
子供の調度
6/32

 しかし人の気持ちとは裏腹に世の中は動いていくものである。

 「どこの博物館、美術館でも良いから一つ選んで実際に行って、館の展覧会や所蔵品の傾向、取り組んでいる教育普及事業などについてレポート書いて来て下さーい。締め切りは来週の授業ねー」

 教壇で申し訳なさそうに言うのは昨日の妖怪達に物真似されていた菅原先生である。

 「面倒なのはよく分かるんだけど、最低限はレポート出してもらわなくちゃ単位あげられないのよ」

 講義室中から学生達の不満そうな声が上がる。明里も思わず顔を顰めたが、あまり反発も感じなかった。

 妖怪達が物真似していた様にちょっと嗜好の変わった先生だが、おおらかでエネルギーに満ちあふれた学生の様な先生だ。少し美術への情熱が有り余り過ぎるのがたまに傷だが。

 明里は帰り支度をしながらレポートの段取りを考えていた

 今週末は土日どちらもバイトが入っているので美術館へ足を運ぶことは出来そうに無い。平日も授業やバイトで美術館が開いている時間は予定が埋まってしまっている。予定が空いているのは今日くらいだ。そして夕暮れが差し迫っているので今から行ける美術館と言えば近所の東院美術館くらいである。

 厄介ごとが発生している今、出来ればあの美術館には行きたくなかったのだが背に腹は変えられない。さっと行ってさっと帰れば誰にも見つからずに済むと思い込むことにして、明里は講義室を出て東院美術館へ向かった。


 結果から言うと見つかった。実にあっさりと。

 「明里だー!」

 券売窓口にはパートらしきおばさんが座っていたのでほっと息をついたのも束の間、玄関の自動ドアを潜った瞬間、足下に極彩色の毛玉が転がって来た。極彩色のポメラニアンこと獅子丸だ。昨日と同じ様に尻尾をふりふりと振って小さな舌が口からはみ出している姿は相変わらず間抜けで愛らしい。

 明里は一瞬迷ったが、券売窓口にいるおばさんが見鬼の才を持っているのかどうか分からなかったので見なかった振りをして通り過ぎようとした。

 だが、

 「遊んでー!!」

 「うわっ!?」

 獅子丸が足にじゃれ付いて来た。券売窓口のおばさんはどうやら見鬼の才が無い様で、何も無い所で躓いた明里を怪訝な目で見ている。

 このままここで対応する訳にもいかず、さっと素早く獅子丸を抱えて物陰に隠れた。

 「えっと、今日は遊びに来たんじゃないんだ。ごめんね」

 明里の掌に収まるくらいに小さい頭を撫でてやる。ビー玉の様に円な無垢な瞳で見上げられ、明里はうっ、と苦々しい声を漏らした。

 「明里獅子丸と遊べないのー?」

 ぺたりと耳が垂れ、見るからに悲しそうだ。

 ちらりと壁掛け時計を確認すると閉館時間までまだ時間がある。明里は小さくため息をついた。

 「……ちょっとだけだよ?」

 「ほんと!?やったー!」

 気分が高揚した獅子丸は明里の周りをぐるぐると走り回る。

 当初の計画は見る影も無く崩れ去ってしまったが、獅子丸が無邪気に喜んでいる様を見るとそんなものどうでもよくなってしまったのだから明里も大概単純だ。


 取りあえず人の目に付かない所を探そうと獅子丸を抱えてうろうろしているとスタッフ専用の出入り口から財布を片手に持った美喜が出て来た。

 「え!?明里ちゃん!?」

 明里と明里に抱えられた獅子丸を交互に見て大きな目を見開く。

 「すみません、そこで獅子丸さんと会ったら遊んでくれって……」

 明里が説明すると美喜が小さくため息をついた。

 「獅子丸、明里ちゃんはお客様なのよ?」

 「知ってる!」

 諭す様に行っても獅子丸の前に意味は無い様だ。美喜が先程より大きなため息をついた。

 「えっと、今日は時間もあるので大丈夫です」

 「本当?ごめんね、獅子丸が無理言っちゃって」

 綺麗に整えられた眉がハの字に下げられ、明里の方が申し訳ない気持ちになった。

 昼ご飯を買いに行く途中だったらしい美喜は明里を昨日の事務室に連れて来てもらった。

 「鈴子様がまだ立て篭ったままで博雅様がいるんだけど、今お客さんを通せる所がここしかなくて。私すぐにお昼買って来るから、帰って来たら庭にでも行こっか」

 扉の向こうからはぼそぼそと話し声が聞こえる。

 美喜が控えめにノックをして扉を静かに開けると、奥の部屋の前で昨日と同じ体勢で博雅がぽつぽつと語っていた。

 「だって仕方無いじゃないですか……起こってしまった事実を変えることなんてできない」

 「そうですね」

 その隣で遥が同じ様に扉に凭れ掛かり、相槌を打っている。美喜と明里、明里が抱えている獅子丸を見て軽く目を見開く。

 「博雅様、すみませんがこの子を私がお昼買って来るまでここにいさせてあげてくれませんか?」

 美喜の問い掛けに博雅は膝から頭を上げて泣き腫らした目で扉にいる明里達の方に視線を向ける。

 「僕は全然構わないよ。寧ろ僕がここにお邪魔させてもらっている身だし」

 泣く寸前の様な情けない笑顔を浮かべている博雅。泣き腫らした顔も相まって非常に痛々しい。普段であれば細面の上品な顔立ちだろうに。

 「すぐ帰って来るからね。あ、これ獅子丸のおもちゃだから良かったら使って!」

 近くの段ボールに入っていた明らかに犬用のおもちゃを取り出す。

 美喜は駆け足で部屋を出て行き、明里は犬用のおもちゃを手に取って膝の上に乗っている獅子丸と遊ぶ。獅子丸はぴょこぴょこと明里の膝の上で飛び跳ねた。愛くるしいその姿に思わず顔が緩む。

 「この間来ていた子だね」

 穏やかな声に反応して振り向けば、博雅がこちらを見て微笑んでいた。

 「あの時はすまなかったね。まぁ今も情けない姿を晒しているんだけど」

 「いえ……」

 強く否定出来る程博雅を知っている訳ではないので明里は相槌の様な否定の様な曖昧な返事で濁す。

 「長年連れ添った妻が思っていることも分からないなんて本当に情けない」

 そして博雅は大きな溜め息をついてまた膝に顔を埋める。

 「鈴子様は何とおっしゃられていたんですか?」

 そっと遥が問い掛けると、博雅は膝に顔を埋めたままぼそぼそ話す。

 「……いつまでお嬢様を言い訳にするつもりだと言われたよ」

 明里はそのまま自分が聞いていて良い話なのか分からなかったので膝の上で飛び跳ねる獅子丸をぼんやりと見つめながら二人の会話に耳を傾けていた。

 「僕もその事は分かっているけれど、過去を変えることなんて出来ない。自分の唯一無二の本分を果たす事が出来なかった僕はどんな顔をして人前に出れば良いのか分からないし、この世に留まっていることすら罪の様に思えて来る」

 お嬢様を亡くしてから博雅はずっとこの気持ちを抱えていたのだろう。そして鈴子は折れそうな博雅を支えながら今日まで生きて来た。鈴子も無念な思いを抱えていただろうが、彼女は主人に仕えながらも夫を支える役目も担って生まれた。二つの忠義の間に挟まれながらも、彼女は彼女で答えを導き出し、自分達の分までも責任を背負い込んでしまった夫を今まで支えて来たのだろう。

 「あなた方二人の意見はどちらも正しい。辛い選択ですがいずれどちらかの道を選ばねばならないでしょう。我々職員は出来る限り付喪神様方の意見を尊重したく思っております」

 遥の厳かな言葉に博雅は泣きそうな笑顔を浮かべた。

 「僕達はここに来られて、そして君達に出会えて本当に幸せ者だよ」

 本来なら所蔵品の意向など関係無い。所蔵品の付喪神を視ることが出来る見鬼の才を持っている者が身近にいなければどんな想いを抱えていたとしてもその想いが果たされる事は無い。この館の事情は特殊で、付喪神達がこの館に来たがるのも分かる。

 「幸せなことに僕達は君達のお陰で道を選ぶことが出来る。だけど、選ぶ事がこんなにも難しい事だなんて思ってもみなかったよ。人の子の世界は実に難しいね」

 選択肢があると言う事は選ぶ責任が生じる。全てが叶う選択肢など存在しない。何かを選べば何かを諦めなければならないものだ。自分で道を選べば誰の所為にすることも出来ない。自分の意思で道を選べない事も苦しいが、自分で道を選べることもまた苦しい。

 「生きる上でその苦しみはどうしようもありません。ですが、自分で選べるのなら、人に翻弄されるよりも後悔しないと俺は思います。どちらを選ぶかはまた人次第でしょうが」

 遥の言葉に博雅は天井を仰いだ。

 「人の世は選択の連続なのだなぁ」

 「ええ」

 遥は苦笑を浮かべて相槌を打つ。

 「あの……」

 膝でじゃれついていた獅子丸を抱き上げて明里は二人の所へ向かう。

 「初対面の部外者が口を挟んですみません。でも、これだけは知っていて欲しくて……」

 頭の中で必死に言いたい事をまとめながら、手は忙しなく獅子丸の極彩色の毛並みを梳く。

 「博雅様のお気持ちもとても分かります。ですが、芸術を志す者として一つの素晴らしい作品が表舞台から消えてしまうのはとても残念に思います。辛い選択だとは重々承知していますが、それでも、後の世でこの道を歩む人達の為にあなた方にここに在って欲しいと私は思います」

 何も無い所から何かを生み出すことは出来ない。それが出来るのは神だけだ。

 美術も音楽も文学も、この世の人の手によって生み出されるものの多くは他者に刺激を受けて作られる。例え意識していないとしても、今までの人生で出会った数々のものは己の思考に必ず影響を与える。

 自分が美しいと思うもの、共感できるもの、憤りを感じたもの。

 それを人は形に残して受け継いで行く。

 人類の長い歴史の間で天災や人災で多くの作品がこの世から姿を消した。

 数えきれない程の偉大な芸術作品が現代まで残されているが、それはまさに奇跡としか言い様が無い。数えきれない人々の強い想いが、素晴らしい作品の数々を子々孫々へと受け継いで来た。

 そして先祖の想いと作品を受け継いだ子孫達は、それらに影響を受けて新たな命を生み出して行く。

 そうして人は生きて来た。

 「こんなに素晴らしいものが無くなってしまうなんて、悲しいです」

 瞳が揺れそうになるのを堪え、明里はじっと博雅の瞳を見つめると博雅は少し頬を染めてへにゃりとまた泣きそうな笑顔を浮かべた。

 その時、いきなり開かずの扉が勢い良く開いて扉に凭れていた遥と博雅がよろけた。中から出て来たのは憤怒の形相を浮かべた鈴子だ。

 今まで微動だにしないどころか物音一つしなかった扉が何の前触れも無く開いて三人は目を丸くさせていたが、鈴子の顔を見た途端、博雅は一気に青ざめる。

 「あなたはっ!!」

 鈴子が顔を真っ赤にさせながら声を張り上げ、明里と博雅がびくりと肩を跳ねさせる。

 続きの言葉を紡ごうと大きく息を吸うと一旦そこで動きが止まる。

 次は何が飛び出すのかとはらはらしていると、鈴子の大きな瞳からぼろりと涙の粒が零れ落ちた。

 予想外のことが次々と起こり、明里と博雅は完全に気が動転した。

 「すすすすす鈴子さん!?」

 「あわわわわ!?」

 博雅は鈴子の元に慌てて駆け寄り、明里はハンカチを探して右往左往している。

 「あなたはっ、どうして、お嬢様や旦那様、奥方様に大切にして頂いた事さえ無かった事にしようとするのですか……!!」

 ぼろぼろと大粒の涙を零しながら必死に訴える鈴子。そんな鈴子の言葉に博雅はいきなり殴られた様な表情を浮かべていた。

 「確かに私たちはお役目を果たす事が出来ませんでした。それは確かに恥ずべきことです。でも、お嬢様達に大切にして頂いたことも事実でしょう?お嬢様を亡くした後も旦那様と奥方様は私たちを大切にして下さった。それすら忘れて自分を卑下して、恥ずかしいと思わないのですか」

 博雅や鈴子がここにいるのは偏に主人達に大切にされていたからだ。簡単な事だが、そうでなければ物などすぐに朽ちてしまう。

 百年近く経った今でも目を奪う程鮮やかな装束。錆び一つ無い調度品。細部にいたるまで破損することなく現代に受け継がれて来た一品だ。

 天災も人災も数えきれない程あっただろう。それでも強い人の想いが彼等を今この世に存在させている。

 「あなたが選んだ道ならば私たちは喜んで従いましょう。ですが、逃げる為の道を選ぶのは付喪神としての私の矜持が許しません」

 大きな瞳から涙を流している様は儚げで美しいものの筈なのに、鈴子の瞳には斬り合う前の武士もののふの様な強く鋭い光が宿っている。激しく燃え盛る焔の様だと明里は思った。

 博雅は呆然と鈴子の姿を見つめていたが、やがてゆっくりと口を開く。

 「……君の気持ちは良く分かった。君達を統べる者として僕は行くべき道を選ぼう」

 今までの情けない表情からは想像できない程凛々しく威風堂々としている博雅。

 明里は無意識のうちに息を詰めた。

 春の日だまりの様な雰囲気はすっかり形を潜め、まるで冬の朝の空気の様に清冽な空気を孕んでいる。

 これが人を統べる博雅の本来の姿なのだろう。

 事態は何とか収束しそうで明里はほっと息をついた。

 「女性は実に偉大だな。女の言葉で男はあんなにも変わる」

 よっこいせ、と見た目に似合わずおじさんの様な掛け声で膝に手を付いて立ち上がる遥。

 「でも、博雅様がどの道を選ぶかは分かりませんよ?」

 明里の言葉に遥はからりと笑って応えた。

 「女にあそこまで言わせて逃げるなんて男が廃るだろ。博雅様は生きる道を選ぶさ」

 遥は満足そうに仲睦まじく寄り添う博雅と鈴子を見つめている。まるで遠い先の未来を予見しているかの様な静かな瞳だった。

 「歴史の表舞台に上がるのは男ばかりだが、その影で男を支えて来た女の存在あってこそだ。本当に頭が上がらない」

 「最近では女性の方が頼もしい方が多いですしね……」

 「これぞまさに下克上、だな」

 遥は男だと言うのに実に楽しそうに笑っていた。

 明里が腕に抱いていた獅子丸は難しい話しに付いて行けなかった様でぴすぴすとなんとも可愛らしい鼾をかいて眠りこけていた。

 結局その日は美術館を見て回ることが出来ず、客足が少ない日にマスターに頼みこんで美術館に行かせてもらった。

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