四
「おやおやおや、これまた可愛らしいお客さんだ」
昨日と同じ部屋に案内されると、湯呑みを持ったおじいさんが回転椅子に腰掛けていた。
白と灰色の混じった残り少ない髪の毛が暖房の風にそよそよと揺れており、目尻には深く柔らかい笑い皺が幾筋も刻まれている。
「館長、昨日話していた子です」
「おお、君が。まぁまぁ座って座って」
彼の膝の上には昨日お菓子をせがんでいた極彩色の唐獅子の付喪神がぽっこりとしたお腹を丸出しにして気持ち良さそうに眠っている。口からぺろりとはみ出した舌がまた間抜けに見える。
昨日と同じソファを勧められ、館長は昨日遥が出して来たお菓子の器を同じ様に出して来る。
「稲本と申します。よろしくお願いします」
「あ、小泉明里です。よ、よろしくお願いします」
湯呑みを持ったまま稲本が頭を下げ、明里もそれにならって頭を下げる。
「ちょっとお茶入れて来ます」
遥がそう言って席を外した。
まるっきりの初対面の人と二人っきりにされて明里は息が詰まるかと思った。ずず、と稲本がお茶を啜る音だけが空間に響く。
「真山大学の学生さんだって聞いたんだけど、何科の何回生なのかな?」
湯呑みを口元から下ろして一息つくと稲本が口を開いた。
「えっと、工芸科の二回生です」
「二回生ならもうそろそろ専攻コースを決める時期だね。大体は決めてあるのかい?」
芸大近くの美術館というだけあって芸大の情報には詳しい様だ。
湯呑みを静かに置いてすやすやと眠る獅子丸の腹に手を置く。
「いえ、まだ特には……」
「そうかぁ。選ぶ楽しみがあって良い事だねぇ」
まるっこい稲本の掌が獅子丸の丸い腹をゆっくりと撫でた。
「うちの学芸員は僕も含めて全員見鬼の才を持っているから我が儘言いたさに神格の高い方々が多くてね。お陰で君の様に神気の影響を受けてしまって見鬼の才に目覚めてしまう人が他の館より多いんだ」
確かに意思疎通ができた方が無理を聞いてもらえるだろう。
学芸員の方は見鬼の才があるからといって給料はあがらないだろうし、こんな才能を持っていた所で面倒事が増えるだけではなかろうか。
「大変なお仕事ですね」
「そうだね。でもどんな職業も大変なものだから。まぁでも嫌でも社会に出なくちゃならない時は来ちゃうから、今はゆっくりとお茶でも飲んで寛いで行きなさい」
「あ、どうも……」
お菓子の入った器を差し出され、明里は甘納豆を手に取った。
もそもそと甘納豆を食べているとよっぽどリラックスしているらしい獅子丸がぴすーぴすーと寝息を立て始めた。
ちょっと間抜けな寝息の音に小さく吹き出した瞬間、部屋の扉が勢い良く開いて部屋の中の全員が飛び上がった。稲本が飛び上がった拍子に獅子丸は稲本の膝から転がり落ちてしまった。
扉を開けた犯人を見た明里は思わず固まってしまった。
足下まで滝の様に流れる黒髪。切れ長の瞳はつり上がっていてより一層気の強そうな印象を受けた。突然現れた憤怒の美女にもびっくりしたが、明里は彼女が纏う十二単に目を奪われた。
色鮮やかな十二単を着た女性はどかどかと足音高らかに部屋へ入って来てそのまま突き進む。長い裾を全く気にせず、周囲のものを引っ掛けたり薙ぎ倒していく。
「鈴子さん!待って!」
そして女性の後を追いかける形でやって来たのは衣冠束帯姿の男性だ。その隣には遥もいた。
「五月蝿い!私はこんな腑抜けと結婚した覚えなんてありません!離婚してやる!」
鈴子と呼ばれた女性は振り向いて男性に向かって吠える様にそう宣言すると部屋の奥の扉を勢い良く開け、そしてまた勢い良く扉を閉じた。しかもがちゃり、と御丁寧に鍵まで掛けた。
「鈴子さん!ごめん!僕が悪かったからぁー!!ここを開けてぇー!!」
鈴子とは異なり、男性の方は色んな障害物に足を取られ、ぼろぼろになりながら奥の扉の前に辿り着いた。大の男が涙と鼻水を垂れ流しながら扉に縋り付く様にして声を上げるが、神話の天の岩戸の様に閉じられた扉はびくともしないし扉の向こうはしんと静まり返っている。
「何事……」
事態の説明を求める様に明里は入り口で顔を引きつらせている遥に目を向ける。稲本は目を丸くさせながらも膝から落ちてしまった獅子丸を抱え上げる。獅子丸は開き切っていない目できょろきょろと周りを見渡していた。
「天澤君何があったの」
稲本に問われた遥は苦い表情を浮かべて答えた。
「博雅様と鈴子様が喧嘩をされて離婚の危機に瀕しています」
「おやおや」
「りこん!赤くて甘いやつ!俺も好きー!」
「それは林檎だよ獅子丸殿」
目が覚めたらしい獅子丸が寝起きとは思えないハイテンションで会話に絡んで来て物凄い勢いで脱線していった。稲本がにこにこ笑って訂正してやると「そっか!」とぱたぱたと尻尾を振っていた。
一人状況が読み込めていない明里に遥が説明してくれる。
「あの二人はお内裏様とお雛様の付喪神なんだ。今度の展覧会に出す予定なんだが、ちょっと話が拗れてな。展示と夫婦の危機を同時に迎えているという訳だ」
「なるほど……」
お内裏様とお雛様が離婚危機とは穏やかではない。縁起が悪いどころの話しではないし、今更展覧会の内容を変更するのは色々と骨が折れるだろう。
「鈴子さぁん……出て来て下さいよぉ……」
「…………」
鈴子が閉じこもってしまった部屋の扉の前でうじうじと泣いている博雅。自分のお雛様もあんな感じなのだろうかと明里は実家に置いてある自分のお雛様に想いを馳せた。
「本物は展示した時に見て欲しいから、今回は写真で勘弁な」
そう言って遥が机の上に置かれていた本の中から一冊取り出して目当てのページを開いて明里に見せてくれた。
「うわ……すごい……」
開かれたページには見た事が無い程豪奢なお雛様が映っていた。
正直美術館の展覧会でお雛様を展示するのはどうなのかと思ったが、所蔵品のお雛様は明里の想像を軽く飛び越えた素晴らしい一品だった。
お内裏様とお雛様が座っている段には御簾が掛けられており、まるで貴人と謁見しているかのような造りになっている。衣裳も時代を経て深みを増した色が見る者の目を奪い、牛車やお重などのお道具類は精緻な細工が施されていて一般家庭のそれとは格が違うことが一瞬で理解できた。
「こどもの日も近いし、子供の生活に関わるものの展覧会をしようってことになってな。あとは昨日いた武者姿で明里ちゃんを囲碁に誘ってた坂田様は武者人形の付喪神で、彼も今回展示予定だ」
目まぐるしかった昨日の記憶を掘り返して、なんとなくあの人だろうかとぼんやりと見当はついた。
「殿ー。北の方様大丈夫ですかー?」
部屋の入り口にわらわらと人が集まって来る。
よく似た顔の三人の女性と帽子の様なものを被った五人の少年達。全員が煌びやかな平安装束を身にまとっている。恐らく三人官女と五人囃子だろう。
泣きべその博雅は家人達の方へ振り返って更に顔を歪めた。
「大丈夫じゃないよぉぉぉぉぉ」
「ですよねー……」
家人達が遠い目をしてうんうん、と頷いた。
見た目は大の大人の男だというのに中身は一向に母親離れできない五歳児の様なお内裏様。
「どうして鈴子様がお怒りなんですか」
家人達に遥が問い掛けると官女の一人が大きく溜め息をつきながら事情を説明する。
「殿がいつもの如く展覧会に出たく無いと愚痴を零していたんです。最初の方は北の方様も言葉を尽くして励まされていたんですが、あまりのしつこさにとうとう堪忍袋の緒が切れてしまった様で」
歯に衣着せない過激な物言いに明里は呆気に取られた。官女の話しを聞いた遥は右手で顔を覆う。
「すみません、俺が対処すべきことでした」
遥の謝罪に官女は苦笑を浮かべて頭を振った。
「いいえ、いつもの事だと天澤殿に報告に行かなかった私達の落ち度です」
はぁ、と皆の溜め息が重なって部屋に吐き出された。
「殿ならともかく北の方様を説得するとなると骨が折れますわ。展覧会の日にまでに仲直りして下さると良いのですが」
うんうん、と周りの家人達もしきりに頷いている。
「……大丈夫なんですか?」
「まぁ何とかするさ。何とかするのが俺達の仕事だからな」
眉根を寄せて肩を竦める様でさえも絵になる。
「すまんな、折角訪ねて来てくれたのに忙しなくて」
遥の言葉で明里は自分がここへ来た目的を思い出した。
嵐の様な展開の所為で自分の混乱した気持ちは綺麗さっぱり吹き飛んでしまっていた。
「いや、なんかそれどころじゃ無い感じなので……」
気を遣って遥が家まで送ると申し出てくれたのだが大丈夫だと押し切った。
どんな帰り道もいつも孤独で寂しかったが、今日の帰り道は不思議と寂しさを感じる事は無かった。