十四
うだる様な暑さが日に日に形を潜めていき、豪雨の様に降り注いでいた蝉の声に変わって鈴虫が鳴き始める。
大量の湿気を孕んだ風は今やひんやりとしてしまい、秋風が肌を撫でる度に寂しさを感じずにはいられない。
「こんな天気がずっと続けばいいのにねぇ」
「そうですねぇ」
客足が引いた平日の昼下がり。明里のバイト先の喫茶店ではマスターが文庫本片手に寛いでいた。明里もロールケーキの切れ端を食べながら頷いた。
空はからりと晴れ渡り、暑くも無く寒くも無い穏やかな日々が続くと信じたかったが、人生とは平坦な物ではなく浮き沈みするものだ。
ズボンのポケットに入れていたスマートフォンが震え、明里はそっとスマートフォンの画面を見た。
スマートフォンの画面を見たその瞬間、幸せだった気分は一気にどん底に叩き落とされ、全身から血の気が引いていくのが分かった。
どくどくと心臓が跳ね回り、手足の先がどんどん冷たくなって行く。
「明里ちゃん?どうした?」
マスターに話し掛けられ、明里は弾かれた様に顔を上げた。
「いえ、なんでもないです」
ポケットの中で震えるスマートフォンから必死に意識を逸らして、動揺を気付かれない様に笑顔を顔に貼付ける。
しつこく長い間震えていたスマートフォンはやがて沈黙し、暫くして短く震えた。
恐らくメールを受信したのだろう。
腹に鉛を抱えた様な気分を振り払う様に残りの仕事をなんとかこなした。
最後の客が帰り、店の片付けをして着替えを済ませて帰り支度を整える。
「最近暗くなるのが早いから気を付けて帰るんだよ」
「はい」
マスターが玄関から送り出してくれて、店の前に停めていた自転車に跨がった。
嫌でも気になるのは電話の着信とメールの受信をランプをちかちかと点滅させているスマートフォンの存在だった。
明里の両親は現在別居している。
別居し始めたのは明里が大学進学の為に地元を出て一人暮らしをし始めて半年経った頃だった。
自分の家族はどこにでもいるありふれた普通の家族だとずっと思っていた。
家族での喧嘩はもちろん度々あったが、いつも何だかんだで元に戻っていた。このまま喧嘩しては仲直りしてを何度も何度も繰り返しながら両親は二人で年を取って、自分は誰かと結婚して子供を産んで、ありふれた人生を送るのだろうとぼんやりと考えていた。
だが、終わりは突然呆気なくやって来た。
そして一つのものが終わる時はひどく呆気なく、そして醜悪なのだと明里は思い知らされた。
最初の方は明里も両親の離婚に反対していた。
だが、離婚しないのならば互いが互いに非を認めるか、どちらかが折れるしか道は無い。だが、両親はどちらも譲らなかった。どちらが正しいかの水掛け論が始まり、二人はその答えを明里に求めて来たのだ。
父の言い分も間違っておらず、母の言い分もまた間違っていない。それにどちらかの答えを選んだ瞬間明里の求めていた家族の形は崩れてしまう。
明里は生まれて初めて正しい答えが一つじゃないと思い知らされた。
最初は両親共々自分の考えが正しい事を明里に訴えて来たが、どっちつかずの明里に痺れを切らしたのは父親だった。
『お前は母さんそっくりだな』
言葉だけを聞けば愛しい言葉だろう。
しかしそこに負の感情を伴えばいとも容易く人を傷つける鋭い刃となる。
明里は正真正銘両親の子供だった。等しく父母の血を引いている。明里を通して互いの姿を重ねているのだろうが、明里にしてみれば自分の存在そのものの否定の言葉だった。
母も自分の事で手一杯で明里の事まで気に掛けていられなかった。母に助けてもらえず、明里の中で様々なものが壊れた。
家族。親への信頼。自分の存在理由。
今まで確かにあると信じていたものは幻に過ぎなかった。その幻でさえも全てが無惨に砕け散り、砕けた破片で自分が日に日に傷付いて行く。
そして明里は家族をやり直すことを諦め、地元から足は遠のいてしまい、かれこれ一年以上帰っていない。
「ただいま……」
帰るのは一人暮らしの為に借りた真っ暗な部屋。
大学に入学するまで家族と一緒に暮らしていたので最初の頃は寂しくて頻繁に地元に帰っていたが、今では一人の方が断然楽だ。人と居るより一人で居る方が良いとか自分でも寂しい奴だなとは思うが。
荷物を片付けて風呂に入り、帰りにコンビニで買った晩ご飯を食べる。
高校時代のジャージを着て前髪を上げ、おでんとおにぎりを頬張りながらテレビを見つつネットサーフィンをする。
お腹も膨れて落ち着いた所で、気にしない様にしていたスマートフォンを開いた。
受信メールのフォルダを開き、未開封のメールを開けるとやはり父からのメールだった。
正月は帰って来るのか、荷物を送ろうかという簡素なメール。
たったそれだけの内容でも明里は苛々して堪らなかった。
『折角高い金を出して大学に行かせてやったのに、その恩も忘れてあの女の肩を持つのか。今まで誰が食わせてやったと思ってるんだ』
父に投げかけられた言葉が蘇り、それを振り払う様に明里はスマートフォンをベッドに大きく放り投げた。
家庭が崩壊し始めてから父母から様々な言葉を聞いた。
相手を詰る言葉。過去を懐かしむ言葉。懺悔の言葉。そして自分がいかに可哀想だったかを語る言葉。
その言葉の主役はあくまで自分であり、互いは自分の幸せを阻む敵、二人ともそのつもりはなくとも明里は自身のことを互いに逃れられない枷の様に語られた。
父母の愛は無償に与えられるものだと明里はその時まで思っていた。だが、そんなものはどこにも無くて、ただ社会の価値の一つとして、将来自分が老いた時に世話をしてもらう為の保険の一つとして、自分はこの世に生まれたのだと思い知らされた。
帰らない、荷物も要らないと必要最低限の返事を打ち込んでさっさとメールを送信する。
他人ならば離れれば良いのだろうが家族となるとそれは難しい。しかも明里は大学生で学費を親に払ってもらっている身だ。アルバイトだけで高額な学費を払う事は出来ない。大学を辞めるとも言ったのだが、世間体を気にする両親はそれすらも許さなかった。
結局進む事も退く事も叶わず、がんじがらめになって飼い殺しの様な羽目に陥り、窒息しそうになりながら毎日を過ごしていた。
そんな鬱々とした日々の中、明里の唯一の楽しみが美術館通いだった。
どの作品にも作品自体の物語が存在し、作品を後世に伝えようとする人々の物語がある。
純粋な作品の美しさと純粋な人々の思い。
それを知る事で、まだ美しい思いが世界にあると信じる事が出来た。
しかし、付喪神という人の形に近しい存在を知ってしまい、遥や美喜といった人との関わりまで広がってしまった。
久しぶりに人と言葉を交わすことが楽しかったが、人の心は移り変わるもの。
心地良い今も、両親への信頼の様にいつか無くなってしまうのかと思うとどうしようもなく疲れた。




