一
新しい事が始まる時はとてもストレスが溜まるものである。
新学期恒例の退屈なオリエンテーションを終え、小泉明里は深々と溜め息をついた。
今年で二年目の大学生活となる訳だがやはり慣れはしない。
新しい教材や教科書、履修に関する注意事項を書いたプリントの束などを無理矢理ぎゅうぎゅうにリュックに詰めて足早に教室の出入り口へ早足で向かう。
教室の中ではクラスメイト達がグループを作って他愛のない話に花を咲かせている。たまに聞こえて来る話を繋げてみるとどこぞの科の女子に彼氏を寝取られたや現在二股を掛けておりどちらを選ぶかなど爛れた恋愛の話がほとんどだ。これが今日だけでなく毎日飽きもせずルーチンワークと化しているのだから恐れ入る。
明里が所属する工芸学科は女子の割合が高く、いわゆる女の園だ。
同性だけの空間というのは異性からすれば地獄よりも恐ろしい所だと思われる。かいつまんで聞いているだけでも何人の男が彼女達の上っ面に騙されているのやら。
「小泉さんもう帰るのー?このあと飲み会あるよー?」
出来るだけ気配を消して教室を出ようとしたのだが、声を掛けられてしまい思わず肩が跳ねた。
「ごめん、バイトが急に入っちゃって」
「そっかー残念。今度行こうねー」
声を掛けて来た子は既に興味を無くしたのかお喋りの輪の中に戻って行った。
明里は下手な愛想笑いを浮かべてその場を後にした。
学校終わった後の時間くらい好きに使わせてくれと息をつきながら心の中で呟いた。
大学近くにある美術館にいつも通り一人で訪れ、明里はじぃっと目に留まった展示品を見つめる。
一点の曇りの無い硝子ケースの中に鎮座しているすらりとした細身の花瓶。優美な曲線を描き、満点の星空を溶かし込んだ様な釉薬が美しい一品。
どれくらいそうしていたか分からないが、一人だけだった展示室に人がやって来たので逃げる様に次の展示室へ向かう。
あの花瓶のイメージに刺激され、次の作品作りのヒントにする為イメージや感想、思い浮かんだ言葉などを忘れない様に携帯のメモ機能に書き込み終えると鞄のポケットに携帯を戻した。
日常生活は学校とバイトの往復がほとんどだ。誰かと遊びに行くのは面倒で基本一人で出掛ける。
遊びに行く場所の一つとしてこの東院美術館は三つの指に入るくらいよく来ている。
東院美術館は明里が通う真山芸術大学の近くにある私立美術館で大企業の社長が趣味で蒐集した美術品が主な所蔵品だ。最近建物が改装されて建物が一気に垢抜けたお陰もあって明里の通う芸大生を始め近所の人達の憩いの場となっている。外観は周囲の風景と溶け込める様にとの配慮からか落ち着いた深い茶色で壁の色は統一され、階段の手すりや扉の取手、窓枠などの装飾はシンプルなデザインの黒い鉄筋だ。
花壇や植え込みには花は無く、鮮やかで力強い緑の植物が主に植えられている。外観のおしゃれさもさながら、収蔵品や展示もなかなか趣味が良い。
かくいう明里もなんだかここに来るとおしゃれな気分が味わえるのと一応勉強にもなるのでよく利用させてもらっている。
「もういいのか?」
足早に出入り口へ向かおうとしていたら出入り口近くに置かれたラックのDMを揃えていた男性の学芸員と目が合って声を掛けられた。
前後左右を確認するが明里以外に人はいない。
「うん、そう。君。結構熱心に展示品眺めてたから」
くすくすと笑われ、顔が一気に熱くなった。
見られていたなんて露程にも思っていなかったので今更自分の行動を思い出して変なことをしていなかったか必死に思い出すが焦って記憶が真っ白になる。
しかも話し掛けて来た学芸員は声を聞かなければボーイッシュな女性かと見紛う程の綺麗な顔立ちをしていて、緊張が一気に跳ね上がった。
女々しいとかではなく、恐ろしく中性的なのだ。身長は明里より頭一つ分くらい高いし、腕や首筋などは筋張っていて男の人を感じさせるのだが無駄な肉が一切無く体の線が細い所為かもしれない。そして日焼けなどしていない白磁の肌に艶やかな黒髪。切れ長の涼やかな目は上等な黒真珠を嵌め込んだ様だ。
芸能人と言うよりは一級品の美術品の様だと思った。
しかし低い男らしい声だけが外見の儚さを裏切っていた。
「前からよくうちに来てくれてるよな?真山芸大の学生?」
「え、あ、はぁ」
この学芸員はとても目立つ存在で私も顔だけは覚えていた。女の子や近所のお母さん方に囲まれているのをよく見かける。
この美術館の職員は恐らく三人だ。還暦間際と見えるおじいさんと今目の前にいる彼、そして彼に引けを取らないくらい美人のお姉さんだ。おじいさん以外の二人の容姿が浮世離れし過ぎていて平凡なおじいさんが仙人か何かに見えて来るなぁと明里は混乱する脳内の隅で現実逃避気味に呟く。
「天澤くーん、電話入ってるよー」
少し髪の毛が寂しいおじいさんが事務所からひょっこり顔を出して彼を呼ぶ。どこからどう見ても普通のおじいさんなのに美形に挟まれただけでなんだか神々しくなるのだから美形の存在は偉大である。
「はーい。すまん、また今度ゆっくり話し聞かせてくれ」
学芸員はひらひらと手を振っておじいさんの方へ歩いて行った。
美形は自分の顔面偏差値に見合った相手に声を掛けて欲しいものだ。不敬罪で訴えられそうで怖い。幸い今は閉館時間間際で人がほとんどいないので助かった。
背筋が薄ら寒くなって足早に博物館を出る。
自動ドアをくぐると足下を春風に乗った薄紅の花弁が通り過ぎる。
博物館の近くには近所でも有名な桜並木があり、そこから風に乗ってやって来たのだろう。今の時期は満開を迎えて見る者を圧倒する程美しい。
駐輪場に停めていた自転車に乗らずに押しながら桜並木の下をゆっくりと歩いて行く。観光地の様にライトアップなどはされていないが夕焼けの柔らかな橙色と花弁の薄紅が絶妙な具合で混ざり合って幻想的な色となっている。
一時しか見られない美しい桜の姿。何故世の中もこう美しく在れないものかと思わず溜め息をついた。
だが、世の中のあらゆるものが醜悪だからこそ美しいものがより美しく尊く感じられることも真理でもある。人間という生き物はままならない生き物の代表だと感じさせられる日々であった。
「……あれ?」
雰囲気に浸って物思いに耽っていた時、ふと時間が気になって鞄の中に手を突っ込んでスマートフォンを探すのだが一向に手が携帯に触れることが無い。
「ん?んん?」
焦り出して自転車を停め、鞄の中を探るが鞄の中に無かった。冷や汗が全身から吹き出てどっどっと心臓が重く跳ねる中、記憶の糸を懸命に辿る。
最後にスマートフォンを触ったのは美術館の中だった筈だ。
スマートフォンは生活に困るだけでなく個人情報の固まりだ。明里だけでなく、明里の端末に入った連絡先にも迷惑が掛かる。
居ても立っても居られず、自転車のスタンドを跳ね上げてのんびり歩いて来た道を自転車で逆走する。
なり振り構わず全力で立ち漕ぎをして美術館へ戻った。